第三話 高等学校

昭和十五年、八月の終わり。


 忠治は、己のような初老の男が、教師でもないのにその場所に足を踏み入れることに躊躇していた。石造りの立派な門構えの間を、きらきらした年若い青年たちが行き交っている。


 このような若さ溢るる場所を訪れるのは、些か緊張する心地だ。忠治はすれ違う学生らと逆行するように、高等学校の校舎へと向かって行った。

 実は今はまだ夏休み期間中だ。寮生活の学生が、少し早く学校に戻っているのであろう。


 案の定その学生たちは、忠治がどこの教師かと振り返りヒソヒソ噂話をしている。はっきりと面と向かって聞いてくれでもすれば、『己は町中の診療医で、ここには自分の家の居候に用があって来たのだ』と胸を張って答えられるのだが。


 心の中でそう問答しながらそれでも足を緩めずに進むと、古びた道場に到達した。中を覗くと一人の黒髪の『男』が一心不乱に剣道の練習をしている。


 しかし彼は『男』や『青年』というにはまだ早過ぎて、『少年』というには年を取り過ぎていた。


 忠治の診療所に間借りをしている書生の千太郎は、幼いころから剣道を習っていた。『ソレ』は実践を兼ねたものでお稽古の類いではない。


 彼が習っている『ソレ』は、戦闘においての対峙を疑似体験するためのものなのだ。ゆえに彼はいつも両腕で剣に臨んでいる。


「端で見ていて、恐ろしいものがある」


 忠治は常々そう思う。だが伴う分には心強い。彼の父親は『コレ』とは違う、理系の人間であったから大層頼りなかった。しかし二人は、見てくれは恐ろしいほど似ていたのだ。


 親子なのだから当たり前なのだが、死ぬまでサラサラの髪を真ん中分けにしていた千太郎の父親は、年齢よりも酷く幼く見えたものだ。


「おい」


 思案を断ち切るように、喉の底から声を出した。千太郎は静かに動きを止めて、やがて纏う雰囲気をガラリと温和に変えた。頭の上から放り投げたような、ふぬけた声を出す。


「あれぇ、忠治さん何で学校なんかに」

「お前、明日もまだ休みだろう」


「そうですね。気は進まないんですが……明日から婆さんの所に顔を出そうと思ってるんですよ、何か地元の祭の準備があるみたいで」


「そんなに急いで屋敷に帰ることもあるまい。あの婆さんだって祭で忙しくてお前なんかにかまう暇なんてなかろうよ」


 千太郎の実家は少し郊外にあるお屋敷で、そこで厳格な祖母に育てられた。忠治はその祖母と昔からの知り合いで、千太郎の父親のことも若いころから知っている。


「……何の、お誘いで」


 背を向けたまま投げられた言葉は、今度は少し冷たさと硬さを含んでいた。二人きりの道場に凛として響き渡る。相変わらず察しの良いことだ。


「また依頼みたいなもんだ、問題は相手が『島根』でな。家には今キヌさんがいるから、こちらまで話をしに来たんだ」


 『キヌさん』というのは忠治の診療所に勤めるたった一人の看護婦で、家政婦のような役割もしている気の良い女性だ。恰幅も良く、お日様のように元気であるがいかんせん『聞きたがり』で『話したがり』であった。


 しかし、忠治たちが本当に話してもらいたくない『事情』やなんかは決して漏らさない。要するにできた女性なのである。


 普段であれば彼女に聞かれようが、構わずに診療所で話すのであるが、今回はそうも言っていられない。キヌさんは痩せぎすの心優しい旦那と現在喧嘩をしていて、何度目かの家出で診療所に転がり込んでいた。


 今年に入ってから二度も千太郎を伴って遠出している。彼女は好奇心おう盛な女性だ。今度は「ついて行く」と言い出しかねない。


 忠治はそう確信していた。なぜなら今日だって、暇過ぎて家中を引っくり返さんばかりに掃除しているのである。


「『鳥取』ですか」


 千太郎は、島根のことを『鳥取』と呼ぶ。本来の名前でない、しかも敬称がない時点で千太郎が島根をどう思っているか丸わかりである。


 しかし忠治はそれを咎めたりはしなかった。一度、忠治のけしかけで千太郎は憂き目に遭いかけたからだ。


 頷いた途端に、忠治の眼前をびゅうっと風が吹き抜けた。千太郎が振り下ろした竹刀からの圧が、距離があるのにこちらまで届いたのだ。険気な目が竹刀の代わりに忠治を貫く。


「いやぁあですよ、冗談じゃない。忠治さん、俺があの男を嫌いなこと知ってらっしゃるでしょう」

「まぁ、俺も普段のあの調子は得意ではない、な」


 忠治が正直に答えると、千太郎は思い出したのか苦々しそうに顔を逸らした。最初にこの書生を連れ出した、あの浜での夜を思い出したのであろう。忠治は申しわけなく思う。


「嫌だよ『俺』、だってあの鶏野郎」

 彼が嫌味を込めて『鳥』や『鶏』とかけるのは、島根が……。


「千太郎」


 忠治は、たしなめるように彼の名前を呼んだ。苦手なのは本心だったが、島根に対しては『それ』だけが本音じゃないことを忠治は重々自覚している。正直に言えば憎からず思っているのだ。


「あまり、悪く言うな。簡単に言えば金が入るのだ。お前だって毎日麦飯だけだと味気ないだろう。白いご飯が食べたいだろう」


 『白米』と聞いて、ぐぅっと千太郎は呻いた。所詮は育ち盛りだ。金があればキヌさんが『ヤミ』で米ぐらい調達してくれるであろう。近ごろめっきり手に入れ難くなった。


 この間二度の外出で、それなりに金は手に入った。しかし、忠治は町の住人のために薬を多く仕入れて、もうそれは底を尽きかけていた。そんなわけで世間に違わず、忠治の家の夕餉もわびしくなりつつあった。


「白いご飯が食べたいよ、忠治さん」

「分かっているじゃないか」


 千太郎はあっという間に陥落した。所詮は『腹減り小坊主』である。千太郎は顔をしかめて吐き出すように降参する。


「分かった、分かりましたよ。要はあのろくでもない男から忠治さんを守ればいいんでしょうが。それならば納得出来ます」

「ありがとう、助かる」


 忠治には珍しく頭を下げると、千太郎は苦々しくもう一言だけ返事をした。


「せちがれぇことですね」

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