第十八話 誰が井上を落としたか

 井上先生とやらの亡骸は、島根が白いシーツに幾枚も使って包むと、丁寧に埋葬された。戦場で彼を伴っていた時、彼は腐乱や汁気の多い物は苦手な印象だったのに人は変わるものだ。それとも『尊敬』がそうさせているのかもしれない。墓の場所は海が見える高台の一角だ。


「あの青年は、『紫の人』だったんだな」


 忠治の問いかけに島根は頷く。二人で墓標の傍に立っている。ここは、『荒浜潮騒園』で命を落とした検体も沢山埋葬されているそうだ。


「彼は自分の身の上を隠してこちらに勤めておりました。ここで自分の実の姉『斉藤志津香』に逢ったのは彼にとって相当な不幸だったと思います」

「……しかし遙は、彼女は和臣君と恋仲であったように話していたぞ。彼は姪に手を出したのか」

「手などは出していないでしょう。思春期の戯れ言ですよ。ただ恋人のように接してくれと遙の方がせがんだのでしょう。そして彼女の行く末を知っていて、彼は拒むことができなかった」


 忠治は遙の言葉を思い出していた。


 「『あの人』の恋情が親愛からくるものだと、私は私なりに納得してたつもりなんです。でも私の方は最初っから違った、それが今でも寂しいのかもしれません」


「『行く末』とは研究の結末か」

「そうです。陸軍では『紫の人』の研究をこれ以上の発展はないとして停止することに決まっていたのです。彼女の身柄はどうなるか不透明だった。それに同情したのでしょう」


 島根は墓標の前に膝をついた。ここには和臣の遺体も、遙の遺体もない。二人は、島根が連絡した陸軍のトラックに乗せられ、どこかへ運ばれて行った。洋介という青年が泣き腫らした瞳で運転して行ったのが思い出される。


「洋介君は遙に懸想けそうしていましてね……。浜に僕と坊主を誘って研究所から遠ざけたのも、実は彼女に頼まれたからだそうです」


 忠治の考えを読み取ったのか、島根は洋介のいきさつを答えた。その声色がぞっとするほど島根らしくなかった。海風の不快さだけでなく、忠治は心許ない気持ちに陥る。


「十六年前、ここを去る前に話しましてね、井上先生と」


 しゃがみ込んだままで島根は帽子のつばを指で押さえる。何かを耐えるように俯いたまま、続きを話し始めた。彼がこんな風に静かに声を出すのは、殊更久し振りなように感じられる。


「僕はそのころ、自分の性癖に少なからず悩んでいたんですよ。親が決めた婚約者との祝言も迫っていましたしね」


 風が吹いて、いつもは五月蝿いくらいの島根の声が儚気だ。


「僕の苦悩に気づいて、井上先生は『君は変わらなくていい』って。そう言ってくださったんです。その言葉は今でも後生大事に胸の中に仕舞い込んでいる」


 島根はベージュのコートの合わせ目を、身体を海風から守るようにぎゅうっと握りしめた。



「……そんなに慕っていたのならば、なぜ落としたりなんかしたんだ」



 忠治の唐突な質問に、島根は一瞬息を止めてから、渇いた嗤い声を漏らした。


「やっぱり、貴方は気づいてくれましたね」

「だから俺を連れて来たんだろうが」


 忠治の声は抑えめだ。


「閉じ込めたのは確かに彼女と和臣君であったろう。しかし井上先生を三階から突き落としたのは君だったんじゃないか」

「ええ、ええ。そうです」


 悪びれた様子もなく、島根は答える。


「陸軍からの通達を、僕は自分で伝えに行くことにしたんです。実はもうバレバレでしょうが、あの洋介という青年は研究所よりも『こっち』寄りの人間でしてね。僕は井上先生や遙を刺激しないように、秘密裏に玄関からここを訪れました」


 洋介の島根に対する妙な態度は、このためだったのだ。


「井上先生は年齢的にも引退して頂くころ合いでした。僕は和臣にだけ上層部の考えを伝えると、和臣は暫く考え込んでから『後日、自分から伝える』と簡潔に答えました」

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