第十七話 忘れ形見

 忠治が幼いころ、情を交わした少女の家にやっと訪れる気になったのは、大学を卒業して研究医となり、陸軍の仕事に就いて大分か経ったころだった。


 外地の出兵に招集された。もしかしたら命を落とすかもしれない。そう思うと、急に一目彼女の顔を見たくなったのである。あれから普通に情を交わした相手は何人もいた。しかし、やはり最初の彼女は特別に思える。あの日渡された袖珍本しゅうちんぼんも大切に補完していた。


 見返しに書かれた住所を頼りに家を探すと、どうやらそこは旧家の大屋敷であった。忠治が勤めていた施設と目と鼻の先であった。逢おうと思い出すまでそんなことにすら気づかなかった。


 見も知らぬ若い男が訪れたと言うのに、その家の未亡人だと言う四十過ぎの女主人は、忠治との面会を許した。だだ広い畳の部屋の掛け軸の前に座る女は妙な凄みがある。


 忠治は昔こちらの女性と知り合い、住所を控えた旨を伝えておずおずと袖珍本を差し出した。女は手渡した本の見返しをついりと指先でなぞり、


「これは確かに『妹』の筆跡ですわ」


と言って、本を閉じる。とても広い部屋の、端とはしに座って、人払いをした女主人の顔を忠治は不安げに見つめるしかない。暫しの沈黙のあと、女は低く良く通る声で話し始めた。


「妹は十年ほど前に病気で死にました。労咳でね、長いこと患っていましたの。私の主人も戦争から戻って同じ病で死にましたわ……因果な物ね」

「そ……うでしたか、失礼いたしま」

「二十年ほど前に」


 忠治の詫びを途中で遮って女は冷たい声を出した。まるでこれから叱責されるような、嫌な感覚が忠治の背筋を這い上がる。正座の上に硬く拳を握りしめた。


「妹はどこぞの種の子を孕みました。時期的にそのころ、労咳の治療で避暑地にやっていましたから、その時の人力車の運転手が疑われて解雇されました。でも違ったのですね、貴方を見て一目で分かりましたわ」


 それだけ言うと、立ち上がってすいすいと歩み寄り、袖珍本を忠治の目の前に置いた。まるであの夏の日に、手放したままの姿で目の前にあるように見える。


「お引き取りを」


 忠治は袖珍本を拾わずに深くお辞儀すると、その場をあとにした。部屋を出て行っても、女主人の目線がどこまでもどこまでも忠治の背を追うようである。


「もし」


 夕暮れの中屋敷を出ると、若い青年が追いかけて来る。下駄の音が軽快に響いた。白い肌の美しい、好青年に見える。美しく刈り込まれた黒髪の際に汗が吹き出している。


「これをお忘れです、母に持たされまして」


 青年は忠治と身長があまり変わらないようだ。例の袖珍本を受け取って顔を上げると、互いにわずかに驚いた。忠治の乾いた睫毛がぱさりと肌を打つ。


「やぁ、僕と貴方は何だか似ていますね」


 青年は忠治とは違う屈託なさで笑った。その笑顔は、あの記憶の彼女と似ているといえば似てはいたが……。ああ、この青年は。嗚呼、この青年は先ほどの女の息子ではない。この青年は。


「俺の……」

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