第十六話 手向ける花

「忠治さん」


 二人の話を遮るように現れたの千太郎だ。


「何か梯子が掛かってて、降りられた」


 忠治は突然色々起きたものだから、「そうか、そうか」と孫を出迎える愚鈍な爺のように答えるしかない。


「梯子は僕が下ろしたんです、和臣もそこからここへ来たのでしょう。おい坊主、海辺には何もなかっただろう」


 島根が聞くと千太郎は頷く。


「何だかあの洋介って人も様子がおかしくてさ。小屋に何もないって二人で確認し終わったらアタフタといなくなっちゃって……」

「『アイツ』は昔から演技がイマイチでね。加えて情にもろ過ぎて仕事に向かんのだよ」


 島根はもう、隠そうともせず青年の素性のようなことを話す。


「変に思って走って帰って来たんだ、忠治さん平気ですか。顔色が真っ青だけど」

「平気なわけがあるかっ。島根……、お前と洋介君は……」


 忠治がそれに対して質問しようとした刹那。千太郎が忠治の背後、塔の上を指差して叫んだ。


「あれを見て」


 そこには遙と和臣がいた。石でできた窓を開けて、その柵の縁に降り立つところだった。白い遙の夜間着がまるで船の帆のように風を孕んで膨れ上がる。和臣は後ろから華奢な彼女を抱きしめるようにして、何か黒い錠剤を、彼女の薄くて紅い唇に一粒食ませるのが見えた。


 三人で塔を見上げると、背景に抜けるような青空が見えた。雲一つない。忠治は眩しさに目を細めた、しかし何とか二人を思い止まらせようと叫んだ。


「止めなさい、君たちが逃げられるように俺が何とかしてやるから」

「……貴方なら或いは、それは可能だったかもしれませんね。もっと早く出会えていれば良かったのに」


 和臣は至極残念そうに言葉を零した。風がないので高い位置からの声が良く聞こえた。一瞬、和臣は心配そうに遙の顔を覗き込んだ。


「いいのかい」


 遙はその日に焼けていない、細い腕を和臣に向かって絡めると、


「いいの」


と、もう一度笑った。


「あなただから、いいのよ」


 それを聞いて和臣は彼女の腰に正面から腕を回した。夜間着の腰部分がぐっと寄せられて、彼女の腰の細さは儚げだ。そのまま抱き合った二人は、ただお互いを見つめあったまま塔の窓から倒れるように落ちて行った。彼女たちが花を乱して着地すると、忠治は急ぎ駆け寄ろうと思った。しかし、その腕を島根がキツく掴んで止める。


「っ、島根」


 忠治は非難して振り返る。すると島根の表情はストンと落ちていて、それはもう全く感情が読み取れないような有様だった。


「登った時点で二人が薬を飲んでいたでしょう、あれはきっと自決用の毒薬だ」


 『転落が原因じゃないにしろ、もう彼らは息絶えている』。島根はそう言っている。忠治が力なく手を下ろすと同時に、千太郎は静かにその場にある花を摘み始めた。


 一本いっぽん、指の先で手折る。蔓薔薇がその時に千太郎の指を傷つけたが、彼はそれにも構わずにただ一心不乱に作業を進めてゆく。


「あの子昨日、花が、とても好きだと言ってました」


 彼の腕の中に、どんどんと花束が出来上がっていく。


「手折るのは忍びないとも言っていました。だから洋介さんに頼んで用意してもらうのは鉢なんだって。……でも、こんな時くらいは良いと俺は思う。花たちだって、そう思ってると思う」


 千太郎がそう言葉を零したと同時に、唐突に忠治たちの後ろから張り詰めた声がした。


「はるか」


 島根が掛けた梯子を伝って、海辺から戻ってから一部始終研究所側から見ていたのであろうか。洋介が後方から泣きながら走って来た。


 それはまるで、忠治たちと話していた大人しくて伏し目がちな青年とは別人のように感じられた。がむしゃらで忠治たちが目に入っていないようなのだ。


「はるか、はるか」


 うわ言のように叫ぶ彼を、島根も忠治も止めずに見送った。そのあとでようやく風がわずかに吹き始めて、血なまぐさい匂いが辺りに立ち込める。


 忠治たちの所からは遙たちの遺体は有り難いことに見えない。集め終わった小さな花束を持って、千太郎は草むらに入って行ってからすぐに戻って来た。緑色の薮から黒い頭が出て来るのを見て、そうだ、あのことを言ってあげなくては。と忠治は不意に思い出した。


「せんた」

「何」


 千太郎はパンパンと自分の黒いズボンで手を払う。しかし続いた忠治の言葉に動作を止めた。


「ありがとうな」

「今のですか」

「今のも、うちの猫の墓も」

「……っ、忠治さん、知ってらしたんですか?」

「知っていたさ、可愛がっていたからな」


 あの中庭の紫陽花の下に。年老いた猫は埋められているのだろう。あの黒猫は中庭がとても好きだった。死んでしまったとしたら、忠治もあすこに埋めるであろうから。


 俯いて鼻を啜る書生の頭を見つめながら、ふと、忠治が背広の懐に手を入れる。すると、昨夜遙に読んであげたグリム童話の文庫本が、少し湿り気を帯びて入ったままになっていた。

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