第十九話 島根の懺悔

「お前はいつから彼が『紫の人』だと気づいたんだ」

「最初っからです。彼は何より志津香にどこか匂いが似ていたのです」


 忠治の質問に、島根が何でもないことのように答えた。


「あの日……僕は遙には元より逢う予定はなかったのですよ。彼女の母親の最期を知っていましたから、逢わせる顔がなかった。しかし子どもを持った今、変なもんで寝顔くらいは見たいと思ってしまって……。すっかり暗くなってから一人で病室へ向かいました」


 島根の語尾が強まってゆく。


「しかしそこには井上先生がいた。井上先生は、実は遙の母親に懸想していたんですよ。しかしその想いは遂げられることなく母親は死んでしまった。だからその愛情を遙に注いでいたのかも知れません。毎晩彼女に本を読んであげていた習慣の最後に、彼女を殺めようとナイフを持ち出していました。きっとその前に睡眠薬を与えていたのでしょう。彼女は首を抑えられても、ピクリとも動いちゃいませんでしたから」


「何でそんなことを」

「研究が終わりともなれば彼女の行く末は悲惨しか僕も思いつきません。軍人のお偉いさんたち、ど変態の慰みもの、生体実験の対象……、あ。もっと聞きますか」

「それで突き落としたのか」


 高台に風が吹く。決して若くない二人の男に容赦ない。忠治の放つ声も、どこか弱々しく響いた。


「最初は止めるだけのつもりでした、僕はホラ、身体が大きくて。それで突き飛ばしてしまったんですよ。三階から降ちても井上先生はまだ生きていたようでした。そのあと僕は洋介君の助けであの研究所を出たわけです。洋介君の話では、戻ると井上先生の姿は中庭からは消えてしまっていた、だから……」


 島根はいつも油で撫でつけている髪の毛を振り乱した。黒髪の内側にある、多数の白髪が見えて忠治は時の流れを感じた。島根と出会ったごろ、彼はまだ二十代で未来に煌めいた若者であった。


「だから、そのあと遙が井上先生に何をしたのかは昨日まで知りませんでした、僕が井上先生の行方を探していたのは本当なんだ。そして貴方といればきっと……」


 島根の語尾が震える。こんなに感情がだだ漏れの元部下を目にするのは久しい。


「きっと先生を見つけられると、そう思ったんです」


 島根が話し終わると、忠治は目を伏せた。


「俺も途中で気づいたんだよ、あの格子のない採光窓だ。彼女は他の人間より骨も少ない。頭の直径も普通の女子よりもずっと小さかろう。高さが六寸あるあの窓から十分出入りできる」


 島根は振り向かずにただじっと聞いていた。まるで叱られている子どものような仕草に、忠治の胸がぐわっと憐れみに傾いた。責めたいわけではないのだ。言っておきたいことがあるだけだ。


「島根、俺は外地ではお前に助けられた。暴徒の襲撃や性病を避けられたことだけではない。お前は俺の息子と同い年だった。何もできずに、やがて死なせてしまった俺の息子と……」


 島根の形の良い頭が項垂れた。その鼻の先で、昼顔の薄桃色の花が風に揺れている。高台でも土は浜の砂に近い。黄色い砂山に、地を這うように根ざした昼顔が一斉に咲いている。まるで二人を慰めるようだ。


「お前の面倒を見ることで、いつもどこか許された心地になるんだ」


 忠治は、遙を助けるために恩師を結果的に殺してしまった島根を、責める気には到底なれなかった。遙を助けたかったのではなかったかもしれない。『恩師に少女を殺して欲しくなかった』。そんな理由な気がしていた。


「感謝している」


 そう言って忠治は島根の背広の上に、そっと手を乗せた。島根は身動きもせずにただずっと座り込んでいる。彼の髪の毛と一緒に、浜辺に生えている名も知れない背の高い草が横に流れた。


 見下ろした浜の方で、千太郎が波を飛びこえて一人で無邪気に遊んでいる。何だかその様に、全てが救われる気がして、忠治は目を細めて遠く、その光景を眺めていた。


<第三章へ続く>

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