第十三話 秘密の花園
忠治が目を開けると、視界一杯に青空が見えた。雲一つない。ああ、こんな青空を見たのはいつぶりだろう。あの夏の日少女と情を交わした、あの時以来のようにも感じられた。
「忠治さん」
両腕を忠治の両耳の脇に下ろして。顔を覗き込んで来たのは遙だった。その笑顔の眩しさに、まるで夢でも見ているような心地だ。藤の花のように紫色の髪が、暖簾を作っていた。
遙は白い寝間着姿で、同じく白い布靴を履いていた。剥き出しの足は白過ぎて、白い肌と靴の境目が分かり難い。緑色の世界に在って、その姿はまるで海外の小説に出てくる妖精のようだった。
「落ちたのが二階にも満たないと、まだ全然大丈夫みたいですわね。この生い茂った蔦が助けてくれるのかもしれませんわ」
目線を巡らすと、二階へ向かう階段の、踊り場の窓が開いていた。『無茶しやがる』と忠治は内心ゴチて身を起こしかけて呻いた。
「だから上から落ちても、井上先生も死にはしませんでしたし」
「君が突き落としたのか」
「まぁ、いいえ」
少女は可愛らしく否定する。そしてこう続けたのだ。
「お会いになられますか」
忠治は身体を起こしながらゆっくりと頷いた。
「あぁ、本当に。先生はご無事なのか」
「ええ、本当は忠治さんに早く逢わせたかったのです。ちょっと、すぐに会わせるには悪い子だったんですけど今はもう大人しいし」
うふふ、と笑い声が前方を歩くふわふわした少女から漏れた。季節は初夏なのだが。フラフラとついて行く忠治の目の前で、花が咲き乱れていた。忠治が目を覚ました研究所の中庭はとても広かった。
忠治は落とされたショックと遙の登場で混乱していた。落ちる前に見た和臣の髪色を思い出す。彼は『紫の人』だったのだろうか。忠治を殴ったのは遙で、踊り場から突き落としたのは和臣であろう。ぐるりと建物の窓辺を見つめるが、人影は一つも見当たらなかった。
建物の方を見つめるも、窓辺には誰も人影がなかった。まるで研究施設まるごとで忠治を騙しにかかっているような気持ちになったが、職員も検体も朝食を食べに行っているだけかもしれない。
このまま、彼女について行って良いものか躊躇う。少しすれば島根と千太郎が戻って来るであろう。忠治は今、この拍子で命を取られなかったことに少し油断したのかもしれない。少し先に一人で立っている遙に向かって、忠治は重たく足を踏み出した。
むせ返るような花畑を、古びて見える塔の壁沿いに回って歩いて行く。たどり着いたのは、研究所からは死角の位置、真後ろの壁だ。遙はそこに深く絡みついて見えた蔦に手を掛ける。すると、それは実は編み込まれた状態で網のようになっていて、忠治の目の前でベロリと剥がれて地面にパサリと落ちたのだ。
現れたのは、正面の入り口と同じ形をした鉄と硝子でできた古びた扉であった。その周りに乳白色にほんのり紅色をさした蔓薔薇が咲き乱れている。
「まるで『秘密の花園』だな」
体中の痛みに耐えながら忠治は感想を述べた。もしかしたら骨折しているかもしれない。年も年だ、根性で立っている。すると少女は驚いたように瞬いた。
「まぁまぁ、『
「千太郎がな、彼がそういった海外の物語が好きでね。俺も手に取ったことがあるんだ」
千太郎は生家では児童書は禁止されていたらしく、書生として忠治の家に入る前から度々、訪れる際に文庫を置き去りにしていた。それを手に取る度に、生前の忠治の息子も、海外の夢見るような物語に目を輝かせるような青年だったことを思い出した。
コツコツと手の甲で曇った硝子を叩くと、遙が首からチェーンの先についた小さな鍵を取り出した。そのネックレスは品の良い金色で、遙の淡い紫の髪色にとても似合ってた。ヘッドの先は前回会った時は服の胸元に吸い込まれていた。その部分は凝視すべきところではないことは、流石の忠治にも分かっていた。
そのペンダントヘッドは当たり前のように小さな錠にスルリと入ると、カチャリと鍵が開く音がする。ドアの内側には小さな灯籠があって、傍にはマッチの箱がある。遙は使いかけの蝋燭にゆっくりと火を点した。
何だか嫌な予感がする。そうして忠治のそれはたびたび当たるというのに。中に入って行く遙がすみれ色の前髪の下から、薄い色彩の瞳を細めて来たので、にっこりと笑い返してその暗闇に一緒に入って行くしかなかった。生憎のお人好しだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます