第十二話 奇襲

「あそう、じゃあ僕も行こうかな」


 島根が気乗りしなさそうに言ったと同時に、「忠治先生」と急に現れた和臣が忠治を呼び止めた。まるで様子を伺って現れたかのような調子だった。


「見て頂きたい物があるんです、朝食までには終わるので」

「……あい分かった、伺おうか」

「じゃあ忠治さん、僕らちょっとだけ行って来るよ」


 千太郎が水場に立て掛けていた竹刀袋を肩に担いだのに頷いて、忠治は若い者たちをその場に残し、美しい研究医の後ろについて階段を降りて行った。そのまま一階の資料室のような小部屋に通される。和臣は後ろ手に扉を閉めながら電気を点けた。


「井上先生の資料を、一応見せておこうと思いましてね」

「島根はいいんですか」

「彼には昨日チラリと見せましたよ。遙と貴方たちが楽しそうだったので忠治先生にはあとで見せようと思っていました。島根が一緒ですと喧しいので」

「大分彼女を大切にしてらっしゃるんだな」


 そう言って忠治は案内された狭い資料室で、昨晩少しだけ見かけた例のバインダーを和臣から手渡された。やたらと分厚い。


「もしかして十六年分の一部か。こりゃあ研究資料に目を通すのは骨が折れるんじゃないか」

「いや、その手間はないですよ。彼女の母親の資料と一緒に、幼いころのは全て上層部に渡してしまったので」

「つまり『遙』の分もこれだけ」

「そうです」

「そらまた貴重だな」


 忠治は胸ポケットに入れていた眼鏡を取り出すと、一冊のバインダーに顔を近づけた。文字はドイツ語で書かれている。その中で面白い結果が次々と書かれていた。


 遙は例えば歯の数が違った。臼歯が少ない代わりに鋭利な犬歯が手前側に並んだような状態だった。頤も小さく、肋骨の数も少ない。まるで人間とはどこか違う生き物のようだ。身体も酷く柔らかいようで、毎日の身体の記録が細々と書かれていた。これを見る限り井上は結果が出せていた(『紫の人』の研究係としては、だが)。だから遙を手元から取り上げられることはなかったのであろう。


 バインダー一冊でも、十分なほどの実験結果が記されている。毎日のように思いつく限りの色々を試されていることが見て取れた。忠治は窓辺で微笑む美しく儚い少女を想って同情した。すると、和臣が聞いてもいないのに静かに吐露した。


「……本当に、人と違うというだけでなぜ調べる必要があるんでしょうね。超人でも天才でもない。むしろ人より脆く、守ってあげなければならない者たちだっていうのに」

「それには俺も同感だな、井上先生が見つからなかったら君がこの研究を引き継ぐのかい」


 和臣が瞳を伏せる。残念そうに緩く首を振った。そうか、『紫の人』の研究はこれでおしまいなのだ。国とて莫迦ではない。これから戦争に向かう中、『こんな存在に執着したとて何になる』と、ようやく気づいたということであろう。


「少し、彼女と話をしたいな」


 忠治は一通り目を通したあと、和臣にそう告げると、彼は、「喜んで」と、笑顔で先に小部屋を先に出て行った。忠治もそれに続いた。廊下に出ると、玄関に向かって島根と、千太郎と、洋介が歩いて行くのが見えた。彼らも朝食前に確認を済ませる計画のようだ。


 忠治が何気なく目線を下げると、下の採光窓の端に特徴的な色の髪の毛が挟まっているのが見えた。特徴的な色合いだから目についただけだろう。彼女は十六年もここに暮らしているのだ。髪の毛など毎日落ちているだろう。


 しかし忠治は気になった。髪の毛が外に向かって窓に挟まっていたからだ。換気の時にそうなったのかもしれない。それにあの縦幅、少女とはいえ人が通れるとはとても思えない。


「忠治先生」

「ああ、スマン。ぼぅっとしていた」


 和臣の声に忠治はその窓への興味を振り切って、彼のあとに続いた。


「洋介のことは彼らに任せて、私たちは遙についていてあげましょう。朝食は彼女と一緒にとれるように僕が運びましょう」

「ああ、ああ。そうするか」


 少し混乱した忠治は、和臣の言葉に頷くと、彼のあとについて階段を上がった。気づくと妙な話じゃないか。研究医が一人いなくなっただけで、貴重な検体が狙われているわけでもあるまい。なぜ和臣は同情を誘うように忠治に資料を見せたのだろうか。


 頭を後ろ手に掻きながら顔を上げる。すると、昨日は気づかなかった和臣の様子に気づいてしまった。彼の後頭部の生え際に、まるで白髪の代わりのようにびっしりと生える、その『色』に。気がついてしまって、忠治は総毛立った。


「和臣君、君は……」


 そのあと、後ろからの思わぬ衝撃を受けて、二階に到達する間もなく忠治の意識は遠ざかっていった。

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