第十一話 そして朝
「忠治さん眠そうですね」
翌朝、共同の水面所で顔を洗っていると、鏡越しに千太郎にそんなことを言われた。彼は眠りが深いので、昨日の物語を聞かれていない自信があった。忠治は千太郎が憂いていた
「夜、ちょっと『子ども』を寝かしつけていてね」
「『女性』でしょう」
島根がからかうようにシャツ姿で忠治の傍らに立つ。彼はきっと聞いていたのだ。そう思ったら恥ずかしさが、足の指先の端から燃え上がるように忠治の身体を駆け上がった。それに気づいている癖に、島根はにやにやと続きを話すのを止めない。
「いや~良かったですよ、ぎこちない忠治さんの読み聞かせ」
忠治は何とか平静を装って、顔を洗おうと屈んだ島根の顔を、無言のまま肘で軽く打った。「いてて」と嗤う島根は満更でもなさそうなのが大変憎らしい。千太郎は『自分にはかまうな』とばかりに指の腹で歯をきゅっきゅとしごいている。
「……おはよう、ございます」
三人のところに現れたのは、昨日の午後。研究所入り口で出会った白衣の青年であった。年ごろは二十代前半と言ったところだろうか。彼もやはり黒髪を真ん中で分けていて、両脇は剃り上げていた。物凄く不本意そうにまごまごと挨拶をする。
「『洋介』と言います、和臣先生からこちらに来るように言われまして……。あと私自身も皆さんのお耳に入れて置きたいことが……」
後ろ頭を掻きながら、目線を全くこちらに合わせずにそんなことを言ってくる。千太郎は聞き取り辛い彼の声を莫迦正直に聞こうとにじり寄って、それに怯えた青年の方に、少し後ずさりされている。元々千太郎は、昔から人との距離感が妙に近過ぎる子どもであった。
「夜勤明けかい」
彼の目の下には『クマ』がある。島根の言葉に、白衣の青年はビクリとわずかに身体を震わせた。白目の多い瞳が不安げに瞬く。あれ、これは『嘘』をついている時の仕草ではなかったか。千太郎も訝しんだのか瞬きすらせず青年を見つめている。
「はい……そうです」
「嫌に『鳥取』に警戒しているね、分かる。俺も嫌いだからさ」
千太郎が彼を安心させようとしたのか、結構とんでもないことを口にしたので、彼は焦ったように首を振った。忠治の目には心から嫌がっているようにも見えた。青白い顔色に少し赤みがさして見えた。
「いや、そのそういうわけでは……」
「井上先生に僕の性癖について聞きでもしたんでしょう、まぁ僕は今更傷つきはしませんよ」
なぜか島根本人から助け舟が入る。青年は明らかに安堵した空気を纏って用件の続きを話し始めた。
「何でもお尋ねください。お力になれるかは、分かりませんけれど」
「それでは、先生が消えた当日のことを聞いても宜しいかな」
そう忠治が聞くと、青年はポツポツと遠慮がちに話し始めた。両脇の洗面台に映る自分の姿に、怯えるような仕草をしている。忠治はまるでそこから誰か覗いているのではないかと自分の方が気になってそちらを見てしまう。
「はい、看護婦の一人が目撃していたんですが、宿直室から黒い外套を着た男が出て来るのを見たそうなんです。でもそれが井上先生だったのかどうかは分からないんですが……。正面玄関の方からはその人物は出て行かなかったようだったので」
「他には」
千太郎が興味深そうに先を促す。島根はどういうわけか腕を組んで、だんまりでそれを聞いていた。
「もう一つ。井上先生がいなくなられた時に、この辺り一帯を捜索したんですが何も見当たらなかったんです。少し歩いたところにある浜辺に、船着き場がありまして。先端には小屋があり、そこも同様で。実はそこに昨日入る人影を見たと、看護婦の一人が……」
「何だ、全部又聞きだな」
嗤う島根に、洋介という青年は俯きながら小さく舌打ちをしたのが忠治の耳に聞こえた。この洋介という青年は、最初から島根に対して良くない感情を持っている気がするのだ。
「……、だから皆様に一緒に来て頂けないかと思ったんです、ご無理なら私一人でもこれから確認して参ろうと思っております」
「行くよ、そこに隠れてるかもしれないじゃない」
気分を害した風の青年に、珍しく屈託なく笑顔を向けて千太郎が答えた。それに洋介はホッとしたようにわずかに息を吐いた。
「助かります、実は一人では心細かったので」
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