第十話 少女と猫と老人と

 暗闇で目を覚ます。窓辺に目線を巡らせると、大きな月が見える。ぎょろりと目を動かすと、月の中に黒い影がぶわっと動いた。目はずっと具合が悪い。明るい所で、たまにこういう風に亡霊のような物が見える時があった。今回はその影は、暫く姿をくらませている診療所の黒猫を連想させた。


 忠治の診療所には通いの猫がいた。短いビロードのような毛並みをした美しい黒猫で、目は翠玉すいぎょくのような透明な緑色をしていた。


 黒猫は縁起が悪いと言われる。特に診療所では何かと気を使う。しかし忠治はその猫がとても可愛かった。上手いこと診療所の方角へは行かないようにしつけて、書斎や台所、奥の畳部屋のみに出入りさせるようにした。


 雄猫だったが不思議と診療所で尿は撒き散らさなかった。だからキヌさんも可愛がっていた。猫は中庭が大好きだったが、生い茂る植物の下を上手いことかいくぐって、患者に目撃されたことは実は一度だってなかったのだから不思議だ。そうして、いなくなったのも実に急なことだったのだ。


「年がとしでしたからね」


 彼女は残念そうに眉を下げた。確かに。猫が姿を現してから十年以上経過したように思う。猫は亡くなる時姿を消すという。分かってはいたが、忠治は勝手口にねこまんまを用意するのが暫くやめられなかった。


 不意に、その黒猫と元気のない千太郎とが繋がって思えた。振り向くと書生はそれこそ猫みたいに丸くなって寝こけている。


「お前……」


忠治が声を出しかけると、「もし」っと窓辺からか細い声が聞こえてきた。


「眠れないんですか」


 誰もいないと思っていた暗闇から声がする。見ると、隣の病室から件の少女が顔を出していた。宿直室は少女の部屋の隣にあった。紫色の髪を、それこそラプンツェルのように外に垂らしている。彼女の方から風が吹いて甘い子ども臭い匂いが香って来た。


 夜となると海からの風のせいか少し肌寒い。忠治は上着を引っ掛けていた。


「慣れないところではあまり眠れないんだ。戦地ではそんなこと言えもしなかったんだがね、おかしなモンさ」

「まぁ、外地に行ってらしたのですね。ご立派ですわ。……確か島根さんも行っておられたと、母親の日記に書いてありますわ」


 少女は両手を合わせてそれに夢見るように頬をつけながら言う。まるで夢見るような仕草に、忠治は苦笑した。


「忠治先生だけに話しますけど、秘密ですよ。島根さんは私のお父様じゃないかと思っているんです。日記には沢山、島根さんのことが書いてありましたの、あんなお父様素敵だわ」


 「素敵なものか」、と忠治は心の中で吐き捨てた。


「島根より和臣先生の方が君と似てるんじゃないかな、顔立ちが美しいところとかさ」


 言ってしまってから忠治が赤らむと、少女も気恥ずかしそうに笑いながら答える。


「あら、和臣先生は私の好きな人なのよ。お父様だったら困るわ」


 そう言って人差し指を一本口元に立てる。忠治は了解したと頷いた。


「しかし、残念だな。君とうちの千太郎とは、相性が良いように感じたんだがね」

「千太郎さん。お友達だったらいいけれど……彼、寝てるの」


 忠治が振り返ると、二段ベッド上の千太郎からはすぅすぅと寝息が聞こえる。


「眠っているよ。君はこんな夜中に、どうしたんだい」


 忠治は優しく尋ねる。すると、遙はふるりと首を振った。


「私も……眠れないのです、井上先生がいなくなってしまったから」


 そう言ってから、拗ねたように、しかし目元は期待で煌めいている。忠治は微笑んで、


「じゃあ俺が何か話してやろうか、別段美声でも何でもない声で申しわけないのだけれど」


と提案した。満天の星空の下、少女は弾けるように微笑んだ。だから忠治はいつも懐に忍ばせている童話集の文庫を取り出すと、おぼつかないながらたどたどしく『赤ずきん』を朗読し始めた。


「むかーしむかし、あるところに……」

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