第九話 夏の記憶

 それは父親の家に入って暫く経った夏だった。忠治の産みの母親は海沿いの村で売春をやっている女だった。父親と妻の間には子どもができず、そこで忠治はその家に貰われて行くことになったのである。


 たった一年で中学に必要な勉強を全て詰め込まれた。しかし忠治は座学というものが性に合っていたようで、むしろ楽しんで難なくそれを乗り越えることができた。


 夏期休暇に入って、避暑地に家の使用人と行くことになった。今まで根を詰めて勉強をしていたことへのご褒美と言ったところだ。使用人は十六歳とまだ年若く、忠治に対しても莫迦にするでも、かしこまり過ぎるでもなく、大変好印象であった。


 失礼なことに、あんなに世話になったというのに名前はすっかり忘れてしまっているのだけれど。父と義理の母親を早くに亡くしたものだから、家の者たちとは疎遠になってしまった。


 山道を二人で歩いていると、一台の人力車が路肩に停まっていた。木漏れ日の中で、持ち主だろうか。大きな車輪を外して汗だくで作業している。


「……あんな小洒落た車でこんな山奥になんか来るからだ。おいで」


 使用人の青年は、着物姿の忠治の腕を引いて車へと近づいてゆく。近づきながら、自分が伴う使用人が親切な男であることが妙に誇らしく感じられる。


「どうされました」


 青年が男に声を掛けている間に、忠治が目線を森の方へ向けると、浴衣を着た女の子が一人で所在な気に立っていた。薄黄色の縦縞の浴衣姿は、まるで日本人形のような現実的でない美しさがあった。忠治より幾分か年上のように見えた。


 目がかち合って忠治の方は急いで逸らす。しかし彼女の方はじぃっとこちらを見つめている気配がする。けほりと可愛らしい咳払いに顔を上げると、彼女は何とまだ忠治を見ていた。


「私、この子とちょっとの間散策してくるわ」


 無遠慮に忠治に指を示すなり言ってくる。使用人と思わしき男は「とんでもない」と声を出した。


「お嬢様、そのような者と……」

「大丈夫よ、まだてんで子どもだわ」


 少女は笑って、「時計を持っているでしょう」と忠治に囁いてくる。忠治の懐には、子どもには高価な懐中時計が隠されていた。外国商館を通じて日本に輸入されたその時計は、忠治の父親が勉強のご褒美に贈ってくれた物だった。なぜわかったのだろうか…。


「すぐ戻って来るんだよ忠治さん、俺はちょっと。お手伝いをしているから」


 使用人の青年が人の良い笑顔で言うので、忠治は頷いて女の子に手を引かれるままに森へと入って行った。緑の中、少女の背中には華やかに帯が結ばれていた。この帯はどうやって解くのだろう、その疑問は数分後に消えた。



 右手を頭上に上げて時計を確認すると、あれから三十五分ぐらい経っただろうか。剥き出しの下半身が冷えて、下履きを履くために忠治は身を起こした。


「俺、責任を取るよ」


 情を交わした少女に告げた。名も知れぬ彼女は先ほどの浴衣の帯を器用に結び直していて、「今何時」と聞いてから、「貴方がどうやって取るのよ」と言って高らかに笑った。


「しかも女は初めてじゃないんでしょう、悪い子ね」


 そう言って鼻を摘まれた。お互い様だろう、とも思ったが、この大人びたどこぞのお嬢様では余り驚くこともなかった。まるでその蝶々のような愛らしい浴衣が、途端に似合わないように感じられる。


「……、俺は本気だよ。名前を教えて」


 その手のひらを捕まえて、熱っぽく彼女に告げる。忠治の声の真剣さに、少女は持っていた巾着から袖珍本(しゅうちんぼん)を一冊取り出して、鉛筆で見返しに住所と名前をスラスラと書いた。そうして書き終わると本を忠治に押しつけて寄越す。


「私に恥じないくらい出世したら、迎えに来てくださいな」


 忠治はそれを胸の真ん中で大事に受け取ると、それから何年もの間彼女のことを忘れることはできなかった。だから、その時に彼女が子を宿していたことを知るのは、二十年以上経ってからのことであった。

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