第八話 志津香の最期

「彼女の父親は、よもや君じゃあなかろうな」

「僕ですか。冗談止してください」


 島根に誘われたのは、隣の宿直室だ。彼女の病室のすぐ左隣にあった。中では何か黒い分厚い研究資料を持った和臣が待ち構えている。簡素な二段ベッドがほぼ部屋の両脇を占めていた。入ってすぐ左脇に、小さな机と椅子が置かれている。


「彼女はここに、『自分がなぜいなければならないのか』理解しているのか」


 入室しながら忠治は和臣に尋ねる。後ろ手に扉を閉めた。あのいたいけな女の子に聞かせないためである。和臣もそれに気づいたのかカラカラと外に向かう窓を閉めた。閉鎖されて部屋が少し暑く感じられる。


「彼女はここで生まれましたからね、小さいころから井上先生が彼女は大変な病気で、ここで治療しながら生き長らえている。ここを出ると死んでしまうのだと、そんな説明を」

「何と残酷な」

「そうでしょう、そうですよね」


 島根はヘラヘラと嗤って手を広げる。忠治は黙って結構鋭く島根の腹を肘で小突いた。ぐはりと嗤う男は身体を二つに折った。和臣はわずかに眉をしかめてから続きを話す。


「母親はだいぶん前に病でこの世を去っています。どういった経緯かは詳しくは分からないんですが、その母親の亡骸は陸軍の方に引き渡してしまっていて、こちらにある研究結果もその時に譲渡してしまいました」


 和臣の言葉にはどこか心が籠っていない。まるでその時期に己がいなかったかのような口振りだ。いや、折角の研究結果の譲渡を受け入れたくなかったのかもしれない。


「つまりは『紫の人』はこの子供しかいない」


 忠治は隣の部屋で屈託なく笑っているであろう少女を想って、哀れんだ声を出した。


「彼女の母親の最期……、それはもう悲惨なものでした。普段は常人より薄いあの皮膚でも、何とか体裁を保っているのですが、心に負荷がかかると皮膚病に似た症状が出ましてね。全身に赤い発疹を作って、それが黄色い膿を孕んだ水泡となり、衣服に触れると破裂してしまうという症状でした」


 和臣は研究資料を閉じて瞳を閉じる。具体的な言様に、忠治の脳裏にもその時の光景が目に浮かぶようだ。顔は平坦だが、何年も前の出来事を何一つ忘れていないという風だった。


「『志津香』のその症状は悪化していて、発疹の浸食は徐々に彼女の美貌を蝕んでいった。どんなものでさえ食べ物でも衣類でも、身体が拒絶してしまった。ケロイドのようにただれた皮膚の面積は、酷くって、それで体力はどんどんと消耗して……。あんなに白かった肌はやっぱり赤黒く変わってしまった。ガリガリに痩せた手足はもう彼女とは分からなかった。それでも俺は彼女といたのに、最期にひび割れた唇で、お前の名前を呼んだよ。なのに、島根……お前は」

「『僕はもう彼女には逢いに行かなかった』……そうだろう」

「貴様」


 和臣が自分より上背のある島根の襟首に掴み掛かる。


「やめなさい」


 和臣が島根に右腕を上げて殴り掛かったので、忠治は間に入ってそれを止めた。腐っても元軍人だ。ずっと研究だけをやっている和臣を跳ね返すのはわけがない。


「落ち着きたまえ、今は井上先生を捜すのが先だろうが」


 忠治に間に入られて、尻餅をついた和臣はゆっくりと起き上がって両手のひらで顔を覆う。震える指先は、それでも美しいまま彼を失っていないように感じられた。


「……大変失礼しました。お三方はこの部屋に泊まってください……、夕飯時になったらまた御呼びしますので」


 和臣はそう言って、フラフラとその部屋から逃げるように出て行った。その時に初めて、彼の白衣の肩が黒くわずかに汚れているのが目に映った。あの汚れ方は忠治にも覚えがある。『白髪』を染めて、少し経っても落ちきれなかった染め液が服に付着することがあった。和臣の顔は若く見えるが、やはり島根と同じ四十代で髪の毛も染めているのであろう。


「大丈夫なのか、彼は」

「和臣ですか、出会ったころからあんな感じですよ。妙齢の女みたいに常に情緒不安定。ま、そんなところが好きだったりもしたんですけどね」


 殴り掛かられたのに、島根は気にするでもなく仁王立ちで誇らし気だ。襟を正してふははと嗤い上げる。


「お前は何だ、節操はないのか」

「まぁ時間が来たら坊主も連れて食堂に行きましょうや忠治さん。僕がいたころのままでしたら、ここの食事は施設食にしてはちょっとしたものなんです」


 忠治の質問に答えもせずに片目を瞑る島根に、どっと疲れてしまった忠治は、ベッドの一つにゴロリと倒れ臥した。「俺はここにするぞ」と言うと、「じゃあ僕もそこにしようかな」と返される。


 もう突っ込む気力もなくして目を瞑ると、なぜか蒸し暑さが襲って来た。そうだもうすぐ季節はあの時と同じなのだ。あの夏の日と。

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