第七話 紫の遙

 島根が鼻で嗤う。そうしてこうも続けた。


「と言うことで和臣。彼女に僕たちを会わせてくれよ」


 和臣はとても嫌そうに顔をしかめつつ、頷いて廊下を先に歩き始めた。長い通路を、窓越しに例の塔を見ながら進む。階段を一つ降りて、白い部屋の一つにたどり着く。


「遙」


 和臣の声がわずかに高まった気がした。それは安心させるような、愛情に満ちたような、そんな声だった。


「開けるよ、井上先生のお友だちが来たんだ」

「はぁい、どうぞ」


 中から聞こえてきたのは少女の可憐な声だった。驚いて島根を見上げるが、嗤いもしないで立っていた。


 扉を開けて、忠治の目に飛び込んできたのは紫陽花のように鮮やかな紫色だった。


 部屋中には白い日日草の鉢植えが並べられている。鉢の色も花の色も白く、壁や天井、部屋全体が白いものだから。紫は美しく見栄えがした。その髪色に包まれた少女の顔もまた白く、少しだけ朱がさしているのが愛らしかった。


「こりゃまた……」

「洋介が沢山持ち込むんですよ、花が一番喜ぶと思っている」


 和臣は少し呆れたように少女の周りの鉢を少し動かした。少女は「まぁ、まぁ」と口の中で声を弾ませて、忠治たちが自分に近づいて来るのを、目を輝かせて待っていた。仕方なしに忠治は帽子を脱いで胸に当てると会釈した。


「どうも、町で開業医をしております。今日は勉強のために院内を見学させていただいております」


 横で千太郎も辿々しくお辞儀した。一人だけ棒立ち状態なのが島根だ。紫色の髪の少女は忠治と千太郎などには目もくれず、島根だけを見つめている。彼女の細い首元には、細かく儚いチェーンが煌めいていた。ペンダントか何かをつけているようだ。


「おい」


 珍しい無礼さに忠治が肘で島根の外套を押すと、やっとと言った形で島根は笑み、恭しく帽子を脱いだ。女に本当に興味がないやつであったが、表向きの人の良さを今日は忘れているようである。外地では率先して子供と遊ぶような男だったはずなのだが。


「はじめまして、綺麗なお嬢さん」

「まぁ、まぁまぁ。貴方は島根様ですわね、お母さんの日記に頻繁に出てきておりました。一目で分かりましたわ」

「僕の方も驚きました、いやお母様にそっくりだ」


 そう島根が言うと、少女は嬉しそうに頬を薔薇色に染めてはにかむ。まるで久し振りに大好きな父親に逢ったか、もしくは恋人に再会したかのような反応だ。白い顔の周りを揺れる藤のような紫、部屋に咲き乱れる白い花。


「……綺麗だね」


 呟くように千太郎が言うのを、忠治は『珍しいな』と心の中でこっそり思いつつ同意した。和臣は、それを何とも言えない苦々しい表情でただ見つめている。


「いなくなる前に何か変わったことはなかったかな。変なこと言い出したり……変なことをされたり」


 忠治は少女に向かって殊更優しく聞いた。少女は首を傾けてその紫色の髪を下に垂らすと、不思議そうに答えた。


「井上先生ですか、特にありませんでした。夜眠る前には毎日の通りに本を読みに来てくださいましたし。お話は、何だったかしら。毎日、それはもう毎日ですから忘れてしまいました」

「毎晩本を読んでもらっているの」


 本好きの千太郎が尋ねる。彼女のベッドの傍らには、おびただしい文庫が並んでいる。千太郎はそれをわずかに羨ましそうに見下ろしている。


「はい、お恥ずかしながら。先生に朗読していただけないと眠れないのです。十六年間そうやって生きて来たので」

「同い年だ」


 千太郎が別段驚いた風でもなく、誰に言うでもなく、ただ感想を漏らした。少女の目は一気に大きくなり、瞬時に喜びに細められた。まるで花が綻ぶように笑うのだ。白いベッドから身を乗り出して千太郎の顔を覗き込んだ。


「同い年ですって」

「うん」


 少女の確認に千太郎は素直に頷く。千太郎は特に年ごろの女子に照れるでもなく普通に接する。はて、自分の時はどうだったろうと忠治は考えを巡らせるが、何しろ昔過ぎて途中で諦めた。


「まぁ嬉しい。他の『患者』さんは皆酷く年上か年下で、一番年が近くて事務員の『洋介』さんくらいかしら。それでも私よりは年かさだわ」


 忠治は少し身じろいで、棚の上にあった白い鉢に肘を当ててしまう。これを全部『洋介』という青年が用意したとなると、彼の遙に対する気持ちが透けて見える気がした。少し過度に思えるほどに……。


 しかし鉢植えは入院する病人に、『根づく』という意味合いで嫌われるのではなかっただろうか。そこまで考えて遙が普通の『病人』なんかでは全くなかったことに気づいて、忠治は嫌な気持ちになった。


「島根」


 忠治が玄関で逢った無愛想な白衣の青年を思い出していると、唐突な呼び声がした。呼ばれてもいない忠治が振り向くと、和臣が廊下に出掛かりながら島根を少し待っている。早くこの部屋から彼を出そうとしているようにも感じられた。


「はいよ」


 島根はニヤニヤしながら、大分性格が異なりそうな研究医の後ろについて部屋を出て行った。すると一息の間もなく、


「忠治さん」


と、今度は扉から首だけを出した島根にこっそり呼ばれた。それで話に弾む千太郎と遙を残して忠治はこっそりと部屋を出て行った。


 何となく淡い初恋を垣間見るような、もぞもぞとした心地になっていたものだから丁度良い。忠治はこそこそと部屋から退出した。二人は忠治に気づかないようだった。

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