第五話 塔

「私も『忠治先生』とお呼びしますね」


 笑顔で道案内を始める和臣という医師に、忠治は「もしかしたら島根と同じ『ケ』じゃあるまいな」と言う考えをこっそり抱いた。そうとも知らないで和臣とやらは人が良さそうに説明を続ける。


「一応結核のサナトリウムの体で運営しています、地元の結核患者を受け入れないのでらい病の隔離施設じゃないかって噂されているんです……」

「医師は何人いるんですか」

「『研究医』は全部で三人ですよ、いなくなっちゃった井上先生も加えてですけど。本部からの通いの研究医はいますが、いやーどこも人手不足ですよ、本当の隔離施設と同じくらいに、ですね」


 それには島根がしゃしゃり出て来て答える。『お前には聞いていない』と、忠治は眉を下げた。


「難儀なもんだな」

「忠治さん、一つどうです。ここに勤めてみるってのも」


 『一つ枠が空いてますし』と言わんばかりの島根に、反吐が出そうに感じて忠治は目線を逸らした。


「俺は下町の爺婆の面倒で手一杯だよ、コソコソ暗躍していないで、お前こそ一ヵ所に勤めたらどうなんだ」

「ここですか。それは和臣が許さないんじゃないかな~、ねぇ和臣」


 島根に胡散臭い顔で微笑まれて、和臣は明らかに怪訝な顔をした。しかしすぐに忠治たちに気を使って笑顔に戻る。成る程、一緒に働いている間に手でも出されたりしたのだろう。それこそ忠治には痛いほど気持ちが分かった。


「……こちらです」


 千太郎と忠治に向けて、さりげなく手をかざすと誘導を続けた。


 廊下から階段へと移動する。病院はどこもかしこも白く、長細い長方形の窓が多い。建物の外側に向かって、それらがずらずらと並んでいた。


 忠治が思い描いていたよりも、中は清潔そうでずっと日が差していた。しかし階段を上る前に垣間見た一階の窓には、もれなく鉄格子がズラリと嵌められている。


 まるで刑務所のようであるが、理由は忠治だって良く理解しているのだ。検体が外に逃げないためであろう、それこそ『凄惨』な実験が行なわれていたことを知っていたのだ。


「井上先生は大正二年の創立時から、ずっとここ一ヵ所で研究をされて来ました。最初は『生物兵器』、次に『紫の人』……。研究医の居住区域は三階になります」


 長い階段を上り終わると廊下を少し進んで、中ほどの部屋の扉を和臣は開けた。辺りに人気はなく、この時間帯は全員業務に赴いているのが伺える。一階や二階よりももっとぞっと静寂が感じられた。


「こちらです」


 その部屋は小綺麗を通り越して何もなかった。窓はわずかに開いているのにカーテンは閉まっているようで、内側に向けて白い布がはためいている。寝台の上は白く清潔過ぎて、まるで病室のようにも感じられた。


「ここで本当に生活されていたのか」


 にわかに信じられなくて忠治は念を押すように和臣に尋ねる。忠治は少し雑多なくらいの空間が好きだ。己がここに閉じ込められたら、発狂するような気持ちであった。研究医である彼もこのような部屋に暮らしているというのだろうか。


「そうです」


 和臣は忠治の質問に頷く。そして翻るカーテンをいっそ盛大に開けて、タッセルで一つに纏めあげた。そうして出て来た窓の外の光景に、千太郎と忠治は驚いて、口をあんぐりと開けた。


「な……『何』ですかこれは」


 忠治は力なく外の『それ』に指をさす。


「何って『塔』ですよ」


 島根が何でもないことのように答える。普通の事象さえ殊に大げさに話す彼なのに、その態度は逆に忠治と千太郎の不安を煽った。一同の目の前、窓の外にそびえ立つのは洋風の『塔』だった。季節は丁度夏の手前で、その根元は青緑の蔓で深く覆われている。石の煉瓦で組み上げられたその建造物は、物凄く古くからあるように感じた。


 研究所はコの字型になっていて、その塔は中庭に建っている。丁度忠治たちがいる三階と屋根の高さが同じくらいの低い塔であった。中庭には黄色い花がところどころ咲いているのが見える。あまり整備されていないのか、中庭一杯に蔓植物が蔓延っているように見えた。


「改築工事の時に古い資料なんかが大量に出て来たんです。……勿論世に出ては駄目だけれど、捨てるには忍びないものが殆どでした。それを一ヵ所に纏めるために十年くらい前に井上先生が建てたんですよ」


 和臣もまた淡々と説明する。神経質そうな少し高めの声に耳を傾けながら、内容に忠治は急に焦ったように声を出した。


「君、いいのか。私たちは部外者だぞ」

「島根を伴っている時点で部外者とはほど遠いですよ。それに外地での『お噂』はかねがね聞いておりますしね、『忠治先生』」


 そう言って和臣はにっこりと微笑んだ。まるで女性のように美しい笑顔なのに、忠治はなぜかぞっとする。誰かに似ていると思ったらアレだ。大分前に死んでしまった忠治の息子の『嫁』に似ているようだった。


 千太郎が黙って窓の方へと歩いて行く。そのままベチャリと顔や身体を押しつけて外を眺めて感嘆の声を上げた。


「『髪長姫ラプンツェル』みたいですね」

「何だ坊ちゃん、『グリム童話集』何て読んでいるのかい。こっどもだな~」


 島根が喉を鳴らして言うと、千太郎は眉間に皺を寄せて黙ったあと、窓を全開に開いた。忠治は診療所で千太郎に充てがった部屋に、冨山房ふざんぼうのグリム童話集が置いてあったことをうっすら覚えていた。

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