第三話 島根の来訪

昭和十五年、六月。


 小雨の天気が続くようになって来た。忠治の診療所の中庭には紫陽花が咲き始めている。たわわに青い花をつけて、それを重そうに雨の中揺らしていた。


 診療所の中庭は土壌が酸性だ。よって殆どの花が青い中、なぜか一角だけ赤い花弁が咲いている。根元に死体なぞ埋まっていなくとも、土がアルカリ性になり、花が赤くなることだってあるだろう。


 一緒に住み始めて二ヵ月経つ、書生の千太郎は元気がないようだった。特に梅雨に入ってからいけない。今日は休日だというのに、級友と遊びにも行かず書斎の隅で膝を抱えている。


 今日は休日なので急患が来ない限り休みだ。朝方、例の男から来訪の旨があった。だから千太郎はまるで番犬のように忠治の傍らに居座って離れない。


 すると診療所の入り口側の呼び鈴が鳴った。瞬時に書生の少年が飛び出して行くのを、忠治は止めることができなかった。来る予定の人物を、彼に伝えていたのがいけなかったようだ。


 二人はこの間の一件からとても仲が悪い。と言うか千太郎が島根を一方的に嫌っているのだった。この間の『休暇バカンス』の謝礼はたんまり受け取って、時勢にしては忠治の家は潤っているというのに不満らしい。


 案の定玄関先で島根の「ぎゃっ」という短い悲鳴と、わずかな騒音が聞こえたと思ったら、扉が勢い良く内側から外に叩きつけられる音がして、ようやく忠治は注意の声を出した。


「千太郎、ほどほどにしておけよ」


 それでも目線は新聞から離さない。すると、思ってもみない方がそれに返事して濁った声を出した。


「もっと言ってやってくださいよ」


 やれやれとため息まで吐いていた。島根が千太郎の白いシャツの襟首に、大きく美しい指を突っ込んで彼を持ち上げたまま入室してくる。まるで猫のように観念した顔をして、引きずられるままになっている書生を目にして、忠治は思わず吹き出した。


「ほっ、意外だな。お前の方が負けるだなんて」

「『エモノ』を忘れた」


 苦々し気に言い訳した千太郎の大事な竹刀袋は、忠治が今までいた書斎のテーブルに立て掛けてあったはずだ。彼は剣がないと、すばしっこいだけのただの餓鬼だ。対する島根は現役で陸軍に勤めている(持久力はないが、腕っ節が強いのである)。


「そうか。それで今度は何だ」


 諦めたような忠治の声に、島根はその場にドッシャリと千太郎を落としてから嗤った。電話では「今日、行きます」とだけ伝えられていて、要件は聞いていなかった。


「井上先生が『消え』ましてね」


 島根は椅子に腰を降ろしたと同時に忠治に告げる。


「『井上』……誰だ。俺も知っている男か」

「年ごろが近いので、知ってらっしゃるんじゃないでしょうか。ちなみに海の近くの研究所に長らく勤めていて、そこで『失踪』したんです」


 島根の言い方には、長年つきあっている忠治にしか分からないような空々しさがあった。忠治はわずかに首を捻る。こいつは何か『隠して』いる。


「うむ、その研究所のことは流石に知っている。『紫の人』を初めて捕らえたところだろう」

「捕らえただなんて聞き捨てが悪いなぁ。『保護』したんですよ。その際丁度、僕もそこに勤めていたんですがね、いやあれは見事なものでしたねー」


 まるで薔薇か百合のように『人』を褒める元部下に、忠治はいつも通りげんなりとする。しかし自分も昔から興味がないわけではないのだ。


「お前がいたところなのか」

「ええ、そうなんです」


 その時にほんのわずか、忠治だけが分かりそうな微妙さで、島根の表情が暗くなった。もしかしたらいなくなったその男と、仲が良かったのかもしれない。


「辞めてからもう十六年でしょうか」

「そうか……お前心当たりはないのか」

「それがないんですよねー、研究内容とか持ち出されたらアレなんで軍の方でもう血眼なんですよ、ちまなこ」

「……お前楽しそうだな」

「僕としてはそんな役に立つ研究には思えませんがね」


 身振り手振りをつけての軽快な言いざまに、忠治は眉間に皺を寄せる。確かに島根の言う通り、『紫の人』の実験結果なんて、敵のどこの国が欲しがるというのだ。


「楽しいだなんてめっそうもない、忠治さん僕と一緒に行ってはくださいませんか。研究内容とか失踪の状況とか、僕も聞いただけでは掴めないので、一緒にいてくださると正直大変助かる」


 そう言ってテーブル越しに両手で手のひらをくるまれた。島根の手のひらは忠治ほどじゃないが乾いていて、温度も低く。その昔戦場で触れた若く脂っこい肌と比べると、大分年を食ったように感じられた。それで哀れに思ったのかもしれない。


「……分かった」

「はぁ。正気ですか、忠治さん」


 千太郎が背後で悲鳴のように抗議するが、忠治ときたら話はついたとばかりに椅子から立ち上がって奥の書斎へ向かい始めた。荷物を診療鞄に詰めようと蓋を開けると、書斎からまたいさかいをしている声が聞こえてきて、忠治は思わず口角を上げた。

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