第二章:『紫の人(むらさきのひと)』

第一話 島根の懐古

 大正十三年、四月。


 僕の名前は『島根』という。生まれながらにしての『美丈夫』だ。自分がそういう外見なものだから、僕はそう、昔から美しいものがひどく好きだ。とびきりに大好き。


 でも、新しく配属された研究施設は正直パッとしなかった。殆どは被検体で、それと年寄りばかり。看護婦は皆女でツンツンしているし、僕はこないだまで一緒だった先輩の忠治さんを恋しく思った。


 忠治さんは十から十五歳くらい年上の医者だ。僕が軍隊に入りたてのころ、世話になった先輩だった。線が細く頼りなさそうに見えるのだけれど、結構粗暴で足癖が悪いところも魅力的だった。


 そんな忠治さんと離れて、退屈な毎日。だからその少女が僕のいる施設に搬送されきた時のときめきは、今でもしっかりと覚えている。


 ずんぐりむっくりした人の良さそうな僕の先輩と、黒髪の見慣れない青年に挟まれて、ベッドに一人でチョコンと座っていた。彼女の名前は『斉藤さいとう志津香しずか』、妊婦であったがそんなことはど~うでも良かった。


 特筆すべき点は彼女の髪の色だ。薄紫色、京都の上品な着物の柄みたいな、春先に満開になる藤の花のような色だったのだ。そのふわふわとした鮮やかな紫色が高い位置に括られていて、もし先にカルテを見ていなかったのであれば、実験か何かで染めているのではないかと間違えてしまっていただろう。


「調子はどうかな」


 そう言ったあとで思い直したように、「はじめまして」と挨拶をした。貴重なサンプルの志津香は、僕に臆しもせずににっこりと全開に笑顔を見せた。


「こんにちは」


 N県の人知れぬ山奥に住んでいた先天的に紫色の髪色を持って生まれる人々は、明治のころまでは近隣の村で神様のように崇められていたのだけれど。元々身体が弱く、どんどんと病で血は薄れていって、大正の後期には誰一人いなくなってしまった……。と、思われていた。


 近年になって発見された紫の髪の妊婦。夫は数ヵ月前に、病でこの世を去っている。どういった経緯かは詳しくは分からないが、夫の亡骸は研究所では回収することができなかったらしい。


 彼女は、僕の先輩の担当下に置かれた。井上先生はこの研究施設で長く毒薬の研究をされていた方だ。元々は生き物の方が好きで、戦争で実用可能な『口外できないある生物の成分』の発見が認められ、彼女の担当に抜擢された。初診だけ、その変わった病状の見学に、この僕が加わったってわけ。


 斉藤志津香は透き通るように肌が白く、妊娠しているが顔はまだあどけなかった。不思議と日本女子特有の凛々しさと涼しさを併せ持っていた。とどのつまり、驚くほど美しく艶っぽかった。僕は余りにも気に入ってしまって、自分の担当でもないというのに頻繁に病室に顔を出したものだ。


 最初は、なぜか顔を見に来て話をしていくだけの研究医の僕に、彼女はその鋭い瞳で警戒した。でも外見が他の研究医より若く見えるのが幸いしたのか、雪解けのようにこわばりが溶けていくのを実感していた。


 いつしか彼女は、僕を心待ちにするようになった。入った瞬間に僕を見るその目は安心に満ち溢れていたし、興奮して頬を染めるさまで丸わかりだ。僕はそれを見るにつけ、何だか心底がっかりとしてしまった。


 僕は美しい女性は大好きだけれど、性的な意味では決してない。彼女は確かに可哀想だけれども、僕に想いを返して欲しいと期待する眼差しには応えられない。それを後ろめたく思って、僕の興味はどんどんと薄れていったのだ。


 『紫の人』は心に圧力が加わると肌に異常が顕著に現れた。皮膚が衣類に触れるたんびに拒絶反応を起こして発疹を作り、やがてそれは膿を孕んで水泡となり、いつしか破裂してしまうというものだ。聞いただけで見目はあまり宜しくない。


 彼女の重荷は臨月と、それと『僕』であっただろう。ごく稀に顔を見に行くと、だんだんとその夜間着の袖元をありったけ伸ばしたり、首元の合わせ目をきつくしたりするようになったことに気づいた。


 僕は医者だけれど、発疹も水泡もリンパ液も穢らわしくって大嫌い。それまで自然と彼女の部屋に向かっていた足は、パタリと止まってしまった。

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