第十九話 舞い散る包帯
車は元の場所に悪戯もされずキチンと戻っていた。ただ島根の部下の姿はなく、夜中本当のところずっとここにあったのではないかと錯覚するぐらいだった。
そう言えば島根の口頭で頻繁に『部下』という言葉が出るが、実際忠治はその者に逢ったことがなかった。まるで本当は実在しないかのように姿すら想像できない。女か男かも分からないが、そんなわけで優秀な人材であることだけは感じ取っていた。
黒光りする車(海からの風で、砂埃がついていないのが逆におかしい)を怪しんでジロジロと見つめていると、後ろから少し弾んだ島根の声がする。
「さて、行きましょうか、もうあの『肉』が出回らないのであれば、僕の上司も満足でしょう、それにホラ」
「お前……」
島根は人差し指第二関節ほどの小瓶を忠治の顔面に突きつける。そこには洋酒より少しばかり明るい色の、紅い液体が満たされていた。殴り掛りそうな忠治に向かって、島根がさも楽しそうに嗤いながら車の扉を開けた。
「はいはいっと。僕の立場も考えてください。何かしら報告で持ち帰る義理があるもんでして、これでやっと『解決』ってやつですね」
「……本当に糞みたいな男ですね、忠治さん。さっさと帰ろう」
そう言って、千太郎も少し怒ったように車に乗り込んだ。忠治も助手席はちょっと嫌になって、千太郎の脇の後部座席に乗り込む。着席すると同時に、車は砂埃を上げて走り出した。運転席に座る島根は、相も変わらずニヤニヤと嗤っている。
走り始めた車の中で、今朝気になったことをようやく忠治は口にした。
「お前、あの娘に追いつくのなんて容易かっただろう。途中で立ち止まって見つめていたのはなぜなんだ」
すると千太郎は気まずげに目線を逸らせたあと、こんなことを答えた。
「彼女が彼女の足で歩くのって多分最期だって分かったから、朝日は昇ってきていたし、桜は満開だったでしょう、だから……」
『邪魔をしてはいけない』。書生は瞬時にそう悟ったようだ。同じ年ごろの、しかも見目の麗しい青年に見届けられて、彼女も少しは幸福だったのではないだろうか。
「『べっとうさん』といい、『雛さん』といい。いやぁ中々粒ぞろいの美青年にお会いできて僕は幸福でした」
「お前の幸福なぞ聞いておらんぞ」
「はは、まぁいいじゃないですか。ほぼ徹夜明けですからね、お二人とも後ろで眠っていても良いですよ」
思わず車から降りたい衝動に駆られたが、横に座る千太郎が今にも死にそうに顔を歪めつつ、それでも文句を言わなかったので忠治もそれに
海沿いを走る車。途中で千太郎は窓を開けると、あの少女が纏っていた白い包帯をスルスルと風に向かって解いていった。それはとても長かったのに、不思議と防風林の松のどれにも捕まらず、ただ空へと逃げてゆく。
まるで天使の羽衣のように青い空へ消えて行く白い布は、まるで解き放たれたあの少女のようだ。千太郎と忠治は眠ることも忘れて、いつまでもそれを目で追っていた。
<第二章へ続く>
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