第十八話 青い空、白い雲

 再び三人が主の部屋に戻ると、女はまるで葬儀場の泣き女のように自分の子供の枕元で嘆き悲しんでいた。布団から無造作に投げ出された包帯だらけの手を握りしめて、わずかに明るい室内でしどしどと涙を流し続ける。


「もうおしまい、あんたたちのせいでこの子は……」

「もういいのよ、母様。もういいの」


 子供の声は、口調は滑るように甘く、そして高かった。


「おんな……だったんですか」

「そうだ」


 島根の驚きに忠治は頷いて答える。


「何だぁ、忠治さんご存じだったので」


 島根は口をあんぐりと開けて、大げさに長い腕をばたらばたらと動かして大変うざったい。「わー」とか「うー」とか繰り返したあとで、「おっどろいたなぁ」と頷いている。忠治は呆れて島根を半分の瞳で見つめた。


「手を触ったし、見たからな。というかお前こそ研究者なんだから女体ぐらい気づかないのか」

「生憎興味がないもので」

「あ、そうだったな……悪かった」


 思わず手のひらを打ってから忠治は話を戻す。


「取りあえずここは代々『女性が主』の家ってことだ」


 二人のやりとりを尻目に、『少女』だった屋敷の主はゆっくり立ち上がる。肩に掛けただけだった着物がはらりと布団に上に落ちる。少女は着物の真ん中を割るように足を出して、忠治たち三人へと向かって一歩踏み出した。


 起きあがった身体は包帯だらけだ。しかしそれも足首から順に解けて少女の後ろに残されていった。現れていく彼女の肌はぞっとするほど白い。まるで包帯との境目なんてないみたいだった。


 三人の目の前までやって来ると、忠治も、島根も、千太郎までもが気圧されて道を譲った。すれ違う時少女は実に華やかに微笑んだ。母親に似て、とても美しい……しかし子どもらしく愛らしい顔立ちをしている。やがて彼女は襖を開けると、廊下に向かって急くでもなく、一人で歩いて行った。


「……、ねぇ」


 千太郎が大きく呼び止めた。しかし裸足の足音は軽快に遠くに消えていく。書生は舌打ちを一つするとポカンとする忠治と島根を置いて廊下に飛び出して行った。何か思うところがあったのだろう。


「か、かなめ」


 やっと我に返った母親が、少女の名前らしき言葉を呟いてヨロヨロと立ち上がった。忠治は律儀に彼女を助けて肩を貸すと、やれやれと言った形の島根とともに千太郎のあとを追いかけた。


 玄関には少女の姿も書生の姿も既に見えなくなっている。急いで外に出る途中にも包帯が彼女の名残のように長々と落ちていた。やがてそれも尽きて、その先に立ち止まる千太郎。その肩越しに裸の少女が緑の農道をゆっくり歩んでいた。


 夜が明けて、ちょうど満開になったその家の桜が、海からの強い風ではらはらと白い花弁を降り落としている。まるでそれが彼女の門出を祝うように辺り一面に瞬いた。白い花弁が、薄桃色の日差しの中で、それでも彼女の身体に一つも纏わりつくことがない。


 少女の振り解かれた髪の毛は茶色くまっすぐで、腰の辺りまで続いている。それが彼女の上半身を隠すように左に流れた。まるで小さな尻の下から伸びる太腿は、とても『太い』という言葉とは不釣り合いだ。


 千太郎はその場に立ちすくんでもう一度、


「ねぇっ」


と、叫んだ。


「君は一体、どこへ行くのさ」


 千太郎の質問に腰まである茶色い髪の毛を、まるで羽ばたかせるように少女が振り返った。正面を向いた幼い肢体には、余計な体毛など全くない。まっさらな身体だ。瞳の色まで淡い。それが憂いを孕んで細められた。雫は全く零れ落ちなかった。


「どこって『空』よ、ああやっと……」


 そう答えながら少女はぐらりと重心を失う。


「ああやっと、私。『死ねる』」


 そう口元で呟いて枯れ木のように倒れた。きっと軽いであろう体重に、わずかにしか土埃は舞わなかった。忠治は千太郎の背がびくりと震えるのを見て、連れて来なければ良かったと大層後悔した。恐らく年近い者の命が失われるのを見るのは、初めてに違いなかったからだ。


 きっと何もかも諦めなくてはならなかった彼女の、唯一無二の情熱の矛先が『死』だったのであろう。胸が掻きむしられそうな切なさとともに、忠治は「良かった……貴女はこれで」と心から安堵したのだ。


 母親がその時何を叫んだのか、最早忠治には理解できない。金切り声を上げて支えていた華奢な忠治を押し退けると、倒れ伏した少女の所まで走って行った。その姿は先ほどまで着物を美しく着込んでいた女性とは別人のように乱れていた。


 少女の小さな小さな頭を拾い起こすと、それに頬をすりつけてハタハタと透明な涙を幾度も幾度も流し続ける。ほどけた母親の黒い髪の毛が少女の白い肌に纏わりついて、執着の深さが窺い知れた。


 千太郎がそのさまに背を向けてこちらへ向かって来た。


「忠治さん、大丈夫ですか」


 逆光で表情は読み取れない。呆然としていて虚を突かれた忠治は、


「あ、ああ」


と、曖昧に答えて差し出された手のひらを掴んだ。先ほど母親に突き飛ばされて、忠治はみっともなく転んでいたのだ。握った千太郎の手のひらは、サラサラと乾いていて、そこからも何の感情も伺い知れなかった。


「……行きましょう」


 千太郎は忠治を立ち上がらせると、顎で島根に合図する。島根は真っ白い歯をニンマリと剥き出すと、実に愉快そうに二人に向かって歩き始めた。海の方からは疲れ果てた村人たちが戻って来ていて、呆然としたように親子を見つめて立ち尽くしていた。青い空には、白い雲だ。

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