第十六話 赤い湧き水

 島根の電灯で照らしながら、真っ暗な屋敷の中を進むと、飴色の木で囲まれた台所に出た。夜目にはまるで、血で染まっているような錯覚を受ける。


「ここの床だよ」


 千太郎が指し示す場所には、貯蔵庫の入口があった。何と言うことはない。忠治の診療所にだってあるものだ。キヌさんがとても小綺麗に管理している。瓶詰の酒や漬け物などが美しく並んだ素敵な空間であった。しかしこの家の貯蔵庫の蓋をぎしぎしと上に開いて、中を見た忠治は閉口した。


「階段だ」


 縦に、まるで潜水艦の中に潜るように鉄の階段が伸びている。それは唐突に現れた岩肌に深く突き刺さって、どこまでもどこまでも続いているように見えた。


 まるで奈落の底のようだ。多少怖じ気づいた忠治の背中を、まるで励ますように千太郎が軽く手を当てた。島根は二人の様子をニヤニヤ笑いながら眺めると、懐中電灯を千太郎に渡す。


 顔をしかめて受け取ると、それを口に咥え、千太郎はその縦穴にするりと入って行った。不安な心のまま。忠治、島根がそのあとに続く。


 長い階段を下り終わると、そこには鍾乳洞の洞窟が広がっていた。耳を澄ませると、波の音が聞こえる。そして外地では嗅ぎ慣れた悪臭もした。


 千太郎を先導に入って行った海沿いの洞窟は真っ暗だ。手にした懐中電灯を頼りにしても目が慣れるまでは奥の方が見通せない。


 しかし千太郎は夜目には昔から恐ろしいほど強く、そして一度行った道は絶対に違えない。忠治は絶大な信頼を持って彼の後ろに続いた。


 急に書生は立ち止まる。そうして奥に向かって指を一本指し示した。そこは三つに穴が別れていて、その内真ん中の一つを指差して忠治たちに振り返った。


「ここを抜けて行くと祠の裏側に出る。左は行き止まり、右には赤い湧き水と……」


 千太郎が意味深に言い淀む。忠治が右側の入り口の前でまごついていると、「はい、忠治さん」と島根がパシリと上着の腰付近を押して来る。


 仕方なしに忠治は千太郎と島根の背を追って右側の洞窟に入って行った。洞窟の奥に小さな湧き水があるようで、水の音がわずかに聞こえる。


 その音が聞こえる洞窟の壁に、近寄って行った千太郎が懐中電灯をかざすと、どうやら湧き水には色がついているようであった。


「鉄分を含んだ温泉か何かですかね。異様に赤い、まるで血みたいだ」


 島根が顔をしかめたのはその水の色のせいだけではない。辺りには何とも言えない生臭い匂いが立ちこめていた。しかもそれはきっと腐乱している。


「忠治さん、これ。本当に血なんじゃないの」


 千太郎がそう聞いたところで、忠治たちが来た方角からチラチラと明かりが見えた。忠治は、その明るさで見えて来た自分たちの背後に気づいて飛び上がった。


 千太郎は叫びそうになるの忠治の口を手で覆うと、来た道とは違う横道へ忠治を抱き込んで隠れた。二人に覆い被さるような形で島根が続く。千太郎の口元に人差し指を一本押し当てると、着ていた外套ですっぽりと二人を覆い隠してくれた。


「誰かにここを突き止められたのね……そうなんでしょう、何とか言いなさいよ、ひな

 叫ぶようにしてその空間へやって来たのは屋敷の主の母親だった。後ろについて来たのは例の唖の青年だ。初めて彼女が青年を呼んだので、ようやく名前が知れた。


 バタバタと空洞に走り込んで来て、忠治たちが身を潜めていることには気づかぬようだ。そうして二人して湧き水を覗き込んだ。


「……大丈夫のようね」


 女は胸を撫で下ろした。『雛』と呼ばれた青年は冷静に松明を、湧き水の反対側にかざす。そこには大きな魚のような躯が倒れていた。


 体中びっしりと鱗に覆われているのが見て取れた。それは松明の灯りに照らされて、岩肌にジャリジャリとした影を落としている。鱗の一つひとつは透けて投影されて、宝石のように煌めいている。


 千太郎の手のひらが少々苦し過ぎて、忠治の口から妙な吐息が漏れた。それと同時に修羅の表情と化した女の鋭い声が飛んだ。


「雛」

「はい」


 喋れないと聞いていた男が返事をした。凄い勢いでこちらにやってくると、左手で三人を捕まえて、まとめて横になぎ倒す。松明の下転がされた忠治の細い首に、雛と言う男の足が乗った。


「忠治さん」


 千太郎の叫び声に答えようとするが、喉が抑えられていてそれも叶わない。一番弱い老人が狙われるのはいたし方ないことだろう。

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