第十五話 瓶の中身

 屋敷は人の気配がまるでしなかった。あの喋れない青年は、松明を持ちながらあの女主人の傍にいるのが見て取れた。ここにはあの干涸びた女中と、包帯巻きの若い主人しかいないのかもしれない。


 島根は土足のまま玄関に上がると、懐から小さな懐中電灯を点けて二人の先導を切る。ぎっしぎっしと古い木の床は軋んで、忠治たちが家に侵入したことを隠そうともしなかった。綺麗な廊下の終点で、その部屋からはチラチラとした情熱的な灯りが踊っている。その合間に、確かに人の気配がした。


 千太郎が襖の傍にしゃがみ込んで、聞き耳を立ててから指をふちにかける。襖を細く開けると、そこには二つの影があった。一人はあの妙齢の女中で、かめの中から、何か液体を匙で掬って若い主に飲ませている。


 その動作は酷くゆっくりとしていた。女中の動きは年のせいか心許ないというのに、袖を少したくし上げて主の口元に匙を運ぶ動作はしっかりとしたものだった。少しずつ、確実に飲ませようとする意思が感じられる。


 時折、若いあるじは酷くむせた。それで液体が彼の布団や白い包帯に細かく散って染みを作る。それは赤黒く滲んでいるように見えた。忠治はまるで見てはいけない場面を目撃してしまった気持ちで、長い瞬きをした。


「おっと、何を飲んでらっしゃるんですか」


 島根は両腕で襖をガラリと開けると、革靴のままドカドカと布団に近づいた。女中は三人の男の唐突な登場に、短い悲鳴を上げると主を置いて奥へ向かって逃げて行った。みっともない摺り足が聞こえなくなったところで、屋敷の主は朗らかに口を開いた。まるで少年らしさはなく、妙に落ち着いている。


「やぁ、明日の昼間お会いすることを楽しみにしていましたのに、どうされましたか」

「そういう風にお約束をされて、今までに『次の日』にお会いできた方々はいましたか」


 島根の質問返しに、少年は唯一大きく包帯から逃れた口元で笑んだ。あれ、こんなに赤い色をしていただろうか。彼の唇は。


「……まぁありませんでしたね、そう言えば」

「この水は、何」


 千太郎が瓶に人差し指を突っ込もうとすると、


「触らないで」


と、少年は強い声を出した。千太郎はビクリとまるで脅かされた猫のように動きを止める。


「それは普通の人には『毒』です。その水が『薬』になるのはこの家の者だけなんです」

「……どういうことですか」


 忠治は投げつけられた匙を懐から取り出した布巾でそっと包んで、他の二人が触れられないように瓶の傍にそっと置いた。傍にあった木でできた蓋で瓶を閉めながら、優しく少年に問いかける。


 主はそんな忠治の一連の気遣いに気づいたのであろう。少しだけ唇に笑みを乗せて、己の身の上話を静かに話し始める。


「祖父や父が同じ病だなんて、嘘八百なんだ」


「と言いますと」


「この家の『主』になる者は、不思議と日の光に弱い。日差しに直接触れると呼吸が徐々に細くなって、やがて死ぬのだと思います」


 主の声は切なそうだ。千太郎までも同情したように聞きながら眉を下げた。忠治も主のゆく末を思って同情的な気分になる。そんな症状は、長く医者をやっているが心当たりはなかった。主が言う通り、遺伝的な『ナニか』なのであろう。


「そうでなくても、苦しい日はある。だから代々『主』になる者はこの湧き水を飲んできました。味は慣れたとは言っても酷いものだ。これを飲むことで生き永らえて、次の『主』候補が生まれてやっと開放される。……子が生まれると不思議と病気が緩和されるそうなんです」

「へぇ、変な話だな。男なんて放出するだけで、子ができるできないにかかわらず、身体に変化は起き難そうに感じるが」


 島根は首を傾げたが、忠治はそれで酷く納得していた。きっと先代の『主』はあの母親だ。そしてこの家の『主』は代々……。


「じゃあ君も、結婚して子どもができれば病は治るの」


 千太郎の言葉に、包帯の主は少しの間だけじぃっと書生を見つめてから諦めたように笑った。その意図に気づいて、忠治は一人だけ胸を痛めた。恋をする暇もなかったのだろう。ころ合いを見計らって村の者を充てがわれたのではないだろうか。


「いや、私にはまだ、子は成せないでしょう」


 そう言って一呼吸置いてから泣きそうに引きつった声を出す。


「何もかも人と同じにはできませんでした。でも唯一、しぬ、死ぬ、死ぬる、『死ぬこと』だけは、他の皆と同じようにできる」


 何という哀れな身の上だろう。忠治が思わず主の手のひらを握ると、驚いたように瞬きされた。皮膚や目の周りが乾いているのだろう。パシリと睫毛が肌を打つ音が全員に聞こえるほどだった。


「それをこの家の者以外が飲むとどうなるか知っていますか」

「……もしかして鱗が生えるの」


 島根に続けて千太郎が確信をついた質問をすると、主は『否』とも『応』とも答えなかった。少し沈黙してから、決意したように包帯の隙間から忠治を見つめた。


「見てきてください、それで済むと思います。私ももう、自分でこの病気は終いにしたいのです」


 子どもは何とかそれだけを絞り出すように言った。『終わりにしたい』という言葉の裏に、主の『生』への諦めが見て取れて忠治は切なく思った。


「わかった」


 千太郎は自分が言いつかったように背を向ける。そのままハキハキと未だ座り込む忠治と立ち竦む島根に指示をする。


「二人ともこっち、ついてきて」


 やれやれと言った形で島根が千太郎のあとに続く。忠治が部屋を出る時に主が、


「壊してください」


と、力なく言ったのをわずかに耳で拾っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る