第十三話 夜這い

* * *


「……やめろ」

「『やめろ』ですって」

「島根」


 忠治の上に乗っかっているのは島根だ。いつもは後ろに撫でつけられている髪がわずかに額に降りてきている。そのせいか四十代に見えないくらい若作りに見えた。障子からの月明かりで、彫の深い顔が鮮明に分かる。忠治はさっと頭が冷えるのを感じた。


「いやぁ久しぶりだな、忠治さんに触るの」


 そう言って島根は鼻先を忠治の首筋に差し込む。顔の産毛が首に触れて、忠治はぞわりと顔を背けた。


「貴方が軍医をお辞めになってから、もしかして初めてかもしれませんね」

「……あの時のことは仕方がなかったんだ」

「ぼくらがあの土地で四年もの間『梅毒』に罹らなかった理由を、よもやお忘れじゃないでしょうね」


 そう告げて島根は喉を鳴らす。五十を過ぎた老人に欲情するなんざ、気が狂れているとしか思えなかった。忠治は大暴れする気力もなくて、言葉で島根を追い返すことにする。


「俺じゃなくてさ、若いのにしておけよ」

「おっと書生を差し出すんですか……意地の悪いお方だ。でもまぁ油断しているし、悪くもない選択かもですね」


 二人の目線の先で、千太郎が大いびきをかいている。千太郎は聡い少年だが、眠っている時は気を許した猫のようにだらしなく、鈍感だった。島根はそれを見つめてイヤラシく舌なめずりをすると、のっそりと反対側の布団へ向かって行った。忠治は壁に向かって背を丸めて書生の無事を祈ろうと思う。しかし、その考えもすぐに改って、小さいながらもハッキリと名前を呼んだ。


「……千太郎」

「うっわっ、てんめぇ、何しやがるっ」


 ゴガンっと島根が蹴り上げられる音がした。忠治は巻き込まれないように布団を被って反対側の壁の方へ転がる。すると、すんでのところで島根の大きな身体がこちらに吹っ飛んで来た。


「いったぁ……」


 島根が襖の手前で顎を抑えてうずくまる。どんな攻撃を受けたのかは不明だが、恐らく肘であろう。肘と膝は拳よりも攻撃力が高いと軍人であれば皆知っていることだ。


「さっきまで起きる素振りすらなかったのに……」

「何なんですか、コイツは忠治さん。『鶏』野郎なんですか」


 ワナワナと布団の上で千太郎が仁王立ちする。もし千太郎が寮生活になるのであれば、遅かれ早かれ通過する儀礼であったかもしれない。でもそれに対する耐性が、彼にはまだなかったようだ。


 『鶏』とは『鶏姦』を行う者、つまり主に同性愛者を指した隠語だ。忠治が「鶏肉」と口にした島根に『共食い』と脳内で称したのはそんなわけだった。

 そして幼いころから千太郎は、忠治が名前を呼ぶとどんなに深く眠っていても目を覚ますのだ。忠治は千太郎が手を出されるのを哀れに思って、結局のところ声を掛けたのだった。


 不意に。忠治の視界に、畳部屋の灯り取りに何かが映った。それは深夜の時間帯にしては明るい光を放っている。人魂と言うよりは情熱的で荒々しい色彩だった。


「しぃ」


 騒ぐ二人に手を広げて静める。


「外が騒がしい……息を潜めているが足音は隠せていないな。どういうことだ島根」

「ズラかりましょう」


 島根は忠治の質問には答えずに、すぐに上着を身に着けた。千太郎も竹刀袋を懐に引き寄せる。忠治はキッパリと行動を示す島根を信頼して、土間とは反対側の襖を静かに開けた。


 冷えきった空気がすぅっと忠治たちの部屋に入り込んで来る。お陰で頭がスッキリした。先に千太郎が滑り出て行く。暗闇は思ったよりも深くなく、外からの灯りのせいか物にはぶつからず済んだ。


 裏からは幸いに人は入り込んで来ていない。土間の方では人の気配が盛んで、もう村人たちは自分たちの存在を隠そうともしていないように思えた。


「っち、靴が土間の方だ」

「こんなこともあろうかと」


 島根が上着を前でパックリ開くと、千太郎の草履や忠治と島根の革靴がボロボロと零れ落ちた。転がるそれを、千太郎が驚きもせずに捕まえて足に装着した。


「お前の用意周到さは何と言うか、神掛かっているな」


 忠治は呆れとともにため息を漏らした。それに革靴を履いた島根が引き戸に手を掛けて片目を瞑ってみせる。しーっといった塩梅に、忠治の言葉を遮った。


「それは褒め言葉として受け取っておきますね。それでは宜しいかな……、せーのっ」


 掛け声とともに勝手口の引き戸を開けた瞬間、島根は長い脚を伸ばしてそこに立っていた男を豪快に蹴り飛ばした。次いで暗闇から飛び出した千太郎が、水場に掛かっていた布巾で男の口元を瞬時に縛る。

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