第十二話 山の記憶

 松があれば、そこは故郷だ。忠治がそこにいた時分は、自分と母親と妹が住むその小屋の周りは、深緑色の松が生い茂る崖の中腹だった。風に煽られながら不安定に立っている掘建て小屋だ。海は近かった気がするのに、魚は大抵その崖下の川で獲っていた。漁のおこぼれすら貰えないような身の上だった。


 母親は美しくて、妹は母親に似ていた。自分は誰に似たのか、どの男の種なのか、それは全然知らないのだけれど。どうすれば子種ができるのかは、物心ついた時には既に知っていた。


「う……っ」


 呻いたり声を上げたりするのは、いつも男の方で。母親はたまに甘く嗤い声を立てる程度だった。もしかしたら彼女は『母親』ではなく『姉』だったのかもしれない。それくらいに忠治の母親は美しく、年若かった。


「兄さん」


 袖を引くのは年近い妹だ。多分父親は違う。肌の色は母親よりも忠治よりもぐっとずっと白かった。その子供が長い黒髪を揺らしながらこちらを見上げている。忠治の妹の表情は、黒目の割合がやたら大きく、普段鹿や羊のように分かり難くはあった。ただ愛想笑いは母親から覚えていたのか得意なのだ。


 男たちが訪れるのは夜と決まっているわけではない。欲が溜まればそれは日中いつでもお構いなしだった。母親はこの山奥の村の一角に、質素な掘建て小屋を充てがわれて春をひさげていた。


 周りは松林で、歩くとチクチクと足裏が痛い。忠治が編んだ草履はもう小さいようで、殆ど素足で山を行くような塩梅だった。


 母親は孤児だ。ある日気づいたら、山の中に立っていたというのだから出生は良く分からない。しかし物心ついた時から同じ日常の忠治にとっては、自分の母親の出生と、その生業についてなどはどうでも良いことであった。


「外へ行こう」


 妹にそう言って。その白く丸い手のひらを自分のガサガサとした指で包むと、土間の裏から外へ出た。外は枯れ葉色で季節はいつの間にか秋になっていた。


 鷹が高い所で回っている。忠治たちを見下ろして、まるで見はっているような感じがした。春先に赤黒い蔓を伸ばした植物も、今は薄紫色の大きな実をつけている。


「栗、芋、あけび」

「なぁに」

「すぐ食べられるようになるさ、空腹ももう、おしまいだよ」


 それを言った途端に、妹は心から笑った。そう、そのころは自分たちがいつか、母親と同じことをすることになろうとは夢にも思わなかったのだ。


 雲行きが怪しくなったのは、忠治に精通が来てからだ。朝、汚してしまった下肢を力なく見つめていると、母親はニマニマと『それ』について、ことあるごとに彼をからかった。


「どれ、母さんがしてやろうかね」


 それを断れるぐらいには、忠治は母親のことが嫌いではなかった。だからそれが慣習になるころ、興味の矛先が若い妹の方へと向かうのは自然なことであった。


 戯れに差し入れた着物の合わせ目の中身は、母親とは違う感触を忠治に与えた。だからそれに夢中になった。妹は眉間に皺を寄せてそれに耐えていたようだった。


 大事に至る前に、母親の客の一人が忠治を貰い受けることになった。十一歳の春だ。忠治はその男の種であったらしく、子どもができないその家に入ることになったのだ。


 不思議な話だが、その男は村の者ではなかった。どこか別の所へ旅している途中の男が、村人の仲介で山小屋で母親を買った。にわかに信じられない話ではあるが、忠治とその男とは指の形までもそっくりだったのだ。


 別れの日、土塊の道の上で妹は顔面をぐしゃぐしゃにして、テトテトとおぼつかない足取りで必死について来ていた。土の色は白っぽい黄色で、妹の剥き出しの肌の色に近い気がする。


「お前の草履では、向かないよ」


 山を降りるのも、俺について来るのも。


 やんわりと振り向いて言いはしたが、妹は涙をほとほと零しながら俯いた。しかし忠治の着物の裾を握る手は緩めないのだ。


 少し前に一度だけ接吻をしたことがあった。もう母親で女を知ったあとだ。粘膜同士の何でもない触れ合いだけの口づけを交わしたあと、


「ああ駄目だ、俺は。妹とはあんなことはできない」


と痛感した。それぐらいに妹は純粋で汚れを知らず、だからこそ誰よりも幸せになって欲しいと願ったのに。


「どうして」


 小さい彼女の赤い唇が震えた。まるで夏時のグミの果実のように白い顔の上で赤が艶めいている。母親に似て来た。それは幸か不幸かは忠治には分からない。

 その唇が紡いだ言葉で、忠治は絶望した。


「どうして、母さんと同じにしてくれなかったの」

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