第五話 村
歌は嫌いではない。でも生憎自分にそれを聴かせてくれる人は幼い頃からいなかった。だから戦場から町へ戻って来て開いた診療所で、そこ、ここで耳にする人の歌声を好んで覚えた。
目の前にいる優男は、時たま長い睫毛を伏せて歌っている。いつもはペラペラと胡散臭いことをまくしたてるだけの男なのだが、歌う時だけは威風堂々としていた。戦場で伴っていた時からそれは変わらなかった。しかし忠治はそれをいつも煩わしく感じていた。
「五月蝿い」
短く感想を述べる。
「え、そうですか。忠治さん、ご機嫌が斜めですね。こーんなに天気が良くてこーんなに空気が澄んでいるってのに」
歌っているのは島根。反対側で仏頂面のままついて来るのは書生の『千太郎』だ。白いシャツ姿で、背には竹刀袋を背負っている。彼は幼い頃から剣道を習っていた。確かに空は晴天で春らしく小鳥もさえずっている。三人が黙々と歩いているのはどこぞの村、水田の脇だ。
青く、小さい可憐な花が、まるで絨毯のように忠治たちの足下に広がっていた。幼い頃こんな花はあぜ道で見たこともなかったが、昭和に入ってからぐっと姿を見るようになった。確か名前は『オオイヌノフグリ』だとかいう。それを千太郎が踏まないように器用にステップを踏んで歩いている。
村は、三人が歩く農道の右脇に家の群、中央に水田と田畑が広がっている。まるで川向こうのように、水田左側にも家の群が遠くに見える。そしてその家々を背に、海が広がっていた。
村の者が漁でもしているのだろうか。沖に
ここまで乗って来た島根の車は、村の入り口に停めたままだ。ピカピカの黒い車は砂埃まみれで、それでも松林の間に停めると凄く違和感があった。誰かに悪戯されないと、良いのだけれど。
島根はそんな忠治の心配をよそに大きな身体をぐるぐると回して辺りを伺っている。
「ちょろちょろするなよ、前を向け。怪しまれる」
そう言って彼より背の低い忠治は、腕を伸ばして島根の意外にも形の良い頭(その中身はきっと、良からぬことを考えているのだが)を掴んで前へ押しやった。
水田で雑草を抜いている女が中腰のまま怪訝そうにこちらを見つめている。顔は日に焼けて真っ黒だが、きっと見た目より若そうだ。急に現れたよそ者に警戒して、忠治と目が合うと急いでまた腰を屈めた。
頭を掴まれた島根が、くすぐったそうに身を縮ませる。忠治は島根が苦手だが、こうして少しだけ接触するのは何かを思い返すようで悪くはなかった。忠治には息子がいた。こんなに背丈は大きくはないけれど、年は、同じくらいのはずだ。
「奇遇ですね、僕の妻も頻繁にそんなことを言うんですよ。『チョロチョロしないで』って」
「……奥方が気の毒だな」
「どういう意味ですか」
千太郎が、無理矢理連れて来られてから、初めて二人のやりとりに質問して来た。この書生は元々はそんなに無口なほうではなかったが、島根をどうやら警戒してのことなのだ。その判断は間違っていない。
忠治は少しだけ目を泳がせて、「その内分かる」と答えるので精一杯だった。すると絶妙の間で水田の方から「ブオー、ブオー」と鈍い声がした。
「おや、『ウシガエル』ですね。そういえば産卵の時期だ」
「……海の向こうでは食用だったか」
忠治の返事に、ええ、と島根は肩をすくめる。
「鎌倉の方で養殖しているみたいですよ、最初は帝国大学の『渡瀬先生』が取り寄せたみたいなんですが」
「『渡瀬庄三郎』か、何年か前に退職したようだったが……俺は蛙を食うのは好かないな、鶏肉に味は似てるとは思うが生臭くてかなわん」
「感想があるってことは、忠治さん食べたんですね。僕もありますけど僕も鶏肉の方が好きだな~」
『共食いだな』。今度思いついた言葉は、傍らにいる書生の質問を恐れて飲み込む。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます