第四話 千太郎

「……これ、何」


 いつのまにか階段を降りて来て、書斎に入り込んでいた書生は、上目遣いに島根に尋ねた。キヌさんは「あとで料理しますからね」とだけ言い置いて、そのまま素知らぬ顔で水場の方へ向かって出て行ってしまった。


「君へのお土産だよ」


 島根なりの冗談のつもりだったのであろうが、しかし『千太郎』と呼ばれた書生は黒目を瞬かせると、

「ありがとうございます」

と短く謝礼を言って、包みに手を伸ばした。それを忠治が靴底で跳ね退ける。


「莫迦を言うな、腹を壊すぞ」

「ちょちょ、蹴らないでくださいよ~、忠治さんったらお年の割に、相変わらずに足癖酷いんですから~」


 あわあわと島根が取り戻そうと手を伸ばし、物凄い早業で懐に再び仕舞う。身体は大きいが島根は意外に俊敏で動きに無駄がない。書生はその動作を黒い前髪の隙間からチラリと垣間見て、諦めたのか肩を落としながら書斎を出て行った。


 忠治は妙に安堵してため息を吐く。島根は心配そうに元上司を覗き込んで尋ねた。


「どうされたんですか、急に荒ぶって……今度はため息なんて吐いちゃって」

「いやにあっさり諦めたと思ってな。アイツはああ見えて結構食に関して妙な執着心があって……」


 言葉を続けかけて、忠治はガタッと椅子から立った。年を取ったとはいえ、昔から鼻は良かった。何か甘い芳香が移動した匂いだった。驚いて仰け反る島根は無視をする。そうして書斎を抜け出して病院の裏手に凄い勢いで駆け出した。建物は『コ』の字型になっていて、奥は忠治の住居となっている。


 忠治の診療所は中庭を設けていて、待合室や診療室から季節の花々を楽しめるようになっていた。今の季節は山吹と木蓮が満開だ。


 山吹のまるでひよこのように濃い黄色い花と、木蓮の白くて品のある蕾の姿は女性の患者たちにとても人気があった。春なので他の花々もだんだん咲き始めている。


 これらの花を育てているのもまたキヌさんだ。自分の家に庭がないとかで、診療所に色々持ち込んでは世話をしていた。彼女には夫がいるが、子どもがいなかったので、診療所と庭と忠治の世話を焼くのが丁度良いようである。


 一度だけ彼女の旦那に逢ったことがある。若い時分から独り身の医者の所に通い詰めでも、キヌさんを全く信用しているようで「いつも家内が押し掛けてすみません」と逆に頭を下げられたものだ。


 中庭の手前の台所には、もう焦げた酷い匂いと煙が充満している。まな板の上には、恐ろしい早業で鱗のような部分をこそぎ落とした痕跡と、わずかに血痕がついたなたが放置されていた。ドタドタと、島根が慌てたように忠治のあとをついて来る。


 忠治の後方、台所の入り口に左手をついて頭を突き出すと、鼻をひくつかせた。生ものが焼ける匂いが辺りに漂っていても、見上げた先の島根は涼しい顔をしている。


 忠治と同じくしてこういった匂いに『慣れている』のだ。顔をしかめもしないで、殊更『面白いことが起きたぞ』と言わんばかりにニヤニヤとしている。この男のこういった野次馬根性は、部下時代から注意しても、一向に直る気配がなかった。


 忠治はそのまま中庭に続く勝手口に向かう。途中すれ違ったキヌさんが、

「先生この匂いは何なんですか」

と非難めいた声を出していたが、それを確かめに向かっているのだ。既にそこへの扉は開いていて、真っ白な木蓮が咲き乱れる木の下に、モクモクと煙を出す大きな陶器が見えた。


 白い陶器に青い牡丹の柄が入った火鉢は、勝手口の脇に置いて片づけの途中であった。網を置けば餅なども焼けるようになっている。肉はその上にあった。


 忠治はその勢いのまま走って行って、結構大事にしていたはずの火鉢を蹴り上げた。その上に焼け焦げていた肉が青空高く飛んでゆく。


 中庭にしゃがみ込んでいた千太郎は顔色一つ変えずに、落ちて灰塗れになる肉片を見つめている。少しだけがっかりしたようにペロリと舌なめずりした。


「……、いつの間に」


 あーあ、と勿体な気に島根は腰に手を当てた。


「お前の後ろを通った時だ、この莫迦たれが」


 忠治は長身の島根の頭を飛び上がってピシャリと叩きつけた。それにも全く動じずに、島根は短く嗤ってから思い出したように平手を打った。


「おっと、早く回収しないと洗ってまた食べようとするかもしれないですね、彼」

「それは大丈夫だ、アイツはああ見えて美食家でね。あんな状態の肉を食うわけがないよ」


 忠治が腕を上げて島根を制すると、彼は目を凝らしてから呆れたように少し息を吐いた。


「本当だ、埋めてる」


 千太郎は残念そうに俯きながら灰塗れの肉の上にさらに土を被せている。黒髪の彼はしゃがみ込むと大変小さく纏まり、まるで黒猫が餌でも隠しているようだと忠治はこっそり思った。


 飼っていた小動物を亡くしたかのように南無なむと手を合わせる千太郎を見つめて、島根が大変感服したように忠治に問うて来る。


「にしても全然抜き取られた気配を感じなかったな。どういう教育をしているんですか」

「世話をするのは今日からだ……まぁ何だか知らんが腕は立つよ、それは俺も保証する」


 島根は目を輝かせて再び手のひらを打つ。忠治は瞬時に、そのロクデモナイ閃きに気がついて顔をしかめた。そんな心も知らず、三人の頭上では鳥が高く鳴いている。


「それじゃあ彼も連れて行きましょう。引っ越して来たばかりでしたら荷も纏まっていることでしょうし」


 島根はそう言いながら忠治の襟首を引っ掴むと、中庭に千太郎を一人残して診療所の中へとそのまま引きずって戻って行く。忠治はもう諦めて目を閉じるしかないのだ。島根の向こう側、つまり『国』。しかもこの時勢に忠治が逆らう術などないのだから。

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