第三話 人魚の肉

「今度は何だ」

「いや、下町の方でこんなモン流行ってましてね」


 机に無造作に抱えていた包みを転がした。油紙に包んだそれは、冷気を放ってカチコチだったが、独特の臭いを放っていた。忠治にはなじみ深い消毒液と、冷凍室のすえた臭いがする。


「先程、研究所の冷凍室から出して来たばかりですよ」


 島根はそう言うと、油紙を指先で剥いて中身を忠治に見せつける。忠治は眼鏡を再び掛け直した。


 その『肉』は、厚さ三センチほど、肌色の皮は付いたままで毛はなく、その代わりに皮膚の上を透明な桃色の鱗がビッシリと覆っていた。不思議と悪臭はしない。市場で買った新鮮な魚のような、肉屋で買った削ぎ立ての肉のような、わずかな芳香がするのみである。


 忠治には思い当たる症状・病名が一つだけあった。


「おぃおぃこりゃあ……皮膚病の一種だ。可哀想な患者の肉をよくもまぁ持って来れたもんだな」

「莫迦を言わないでください、僕がそんな不謹慎なものを持って来ると思ってるんですか。まぁ手に入れるのは、ちょっとだけ苦労しましたけど」


 島根はわずかに唇を尖らせて、ずずいとこちらに肉を突き出して寄越す。桃色の鱗は貝の内側のように真珠質に光っている。忠治は、キャバレーで踊るダンサーの衣装に付いている、スパンコールのようだなと思った。


「苦労とは」


「数量限定なんですよ。凄い人気で、すぐ売り切れてしまう。しかも買うのにちょっとしたが必要でしてね」


「ほぅ」


「下町の露天で売られるんですが、曜日はきっかり水曜日。路地裏の端もはじで、目印なんかもなく魚を広げている」


「今日は月曜日だぞ、買いたてじゃないのか」


「何を残念そうにするんです。部下をずっと張らせて、何とか手に入れたってのに。まぁいいです、店先に行って『鯛をください』って、そう言うんです。『米寿べいじゅの祝い』だから鯛をってね」


「ふむ」


「色を訊かれるので、そこで『桃色を』と答えて、ようやく手に入るわけです」


「とどのつまり、何なのだ」


「『人魚の肉』って触れ込みでしてね。やっぱり日本も戦争になりそうなのが人々は不安なんでしょうね、『人魚の肉』は不老不死の妙薬と言われていますし」


 そう島根は言って、大げさに『困った』という仕草をする。


「もうすぐ大きな戦争になるかも知れないのに、こういう物が巷で流行ると、何と言うか困るんですよ、分かるでしょう」


 島根は公言はしていないが陸軍の『特務機関』に属している。最近では『戦争前に天皇への忠誠心を欠くような案件の抹消』に奔走していた。ここにその件で来るのも、実は初めてではないのだった。


「……出どころは分かっているのか」


 忠治は油紙ごと手元に肉を引き寄せてじっくりと観察し始めた。鱗はわずかにシャリシャリとガラス片が重なるような音を出して、それが全て同じ方向に流れている。正直に言うと巷の者たちが飛びつきそうな美しさが、その『人魚の肉』とやらには確かに在った。


「はい。どうやら海沿いの村みたいなんです。ってなわけで忠治さん僕と一緒に……」

「断る。書生が越して来て今日はバタバタするんだ。さ、帰ってくれこれも持って行け」

「なぁんですか。休診にしたってことは僕の頼みを聞いてくださるためでしょうに」

「話を聞いて、気が変わった」


 肉を包みごと放り投げると、島根は唇を尖らせながらもそれを受け取った。断ったというのに、何だか楽しそうにしているのである。


「困ったなぁ。僕の上司がこういった不確かな物がお嫌いなのは、忠治さんだって良くご存知でしょう」

「知ってるからって、どうこうしてやろうとは思わんね」

「あらー、島根さんいらっしゃい」


 割って入るように声を出したのは、忠治の小さな診療所のたった一人の看護婦だ。『キヌさん』は看護婦の仕事と、通いの家政婦のような役割もしている気の良い女性である。


 今日は休診にしたので断っても良かったが、朝訪れた際に「そんならば家事をします」とキッパリと言い放って仕事をしてくれている。開けっ放しの書斎の入り口から、ひょっこりと大きな図体を覗かせている。


「大層な包みね、中身は何かしら」


 ベラベラと先程の詳細を語りかねない島根を忠治が睨みつけたので、彼はキヌさんに愛想良く嗤いかけてから白々と答える。


「『鯛』ですよ。書生さんが今日からだと伺ったものですから」


 咄嗟に嘘と分からないほど自然に、島根は包みの中身を偽った。キヌさんには島根が忠治の陸軍時代の後輩であることを正直に伝えてある。


 こうやって島根が面倒ごとを診療所に持って来る際に、二人は今までも幾度か顔を合わせたことがあった。キヌさんは男前で愛想の良い島根の、腹黒い内を早々に見抜いていた。かと言って嫌っているでもなく明るく接してくれている。


「まぁ。『千太郎せんたろう』さんが来たお祝いに鯛をだなんて、島根さんも良いところあるじゃないのさ」


 キヌさんがバッシーンと、恰幅の良い身体から凄まじい平手を繰り出すと、島根が抱えていた油紙から包まれた肉片が飛び出した。凍った塊は机の上をツーっとわずかに滑る。

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