第二話 島根
『もしもーし。忠治さん、寝起きですか』
「またお前か……、今度は何だ」
『まーた、またぁ。そんな腐った声出ーさないでくださいよー』
電話の向こうの男は胡散臭く嗤った。
「
『島根』という男は、忠治の陸軍軍医時代の部下だ。今も陸軍に律儀に勤めている。陸軍と言っても、いわゆる『特務機関』と呼ばれている機関に勤めている。
『わーかってますよぅ忠治さん。だから僕はお忙しい忠治さんを
「この電話でか」
私事な誘いでこの電話が鳴った試しがない。まぁ、そんな電話を素直に書斎に設置している時点で、忠治の方には断る権利なぞないのだ。
忠治が軍を離れた理由は色々とあるが、戦時中見てはいけないものを『見て』しまった、これが一番大きい。本来であれば国に処分されそうなものであったが、それを救ったのが『島根』だった。
彼に助けられて、それを理由に国の『特殊な仕事』を嫌々手伝っているのである。
『まぁ、はい。そこは取材みたいなもんです実は、正直に言うとですけどね』
「お前のソレは、治らんのか。年上へのその態度は」
『まぁいいじゃないですか、忠治さん僕に『借り』があるでしょう。それじゃあ頼みましたよ。これからすぐに迎えに行きますので、その時詳細をお話しましょう』
そう勝手なことを言うと電話は向こうから切れた。書斎の棚の硝子戸に、うんざりした表情の五十代が写っている。ガナガナと痩せぎすで、羽織っている着物も粗末な物だった。
そんな自分の外見にもため息を吐いた忠治は、億劫な仕草で身を捻ると身支度をするために風呂場へと向かった。今日は朝から島根の他に人が来る予定だったのだ。そちらの方はもう随分前から決まっていたことだった。
* * *
「おい、島根。いい加減にしてくれよ」
白衣を引っ掛けた忠治は、玄関先に訪れた長身の旧友(というか後輩)を蹴り出さない勢いで出迎えた。白衣は最早、肌寒い時の上着のように定着している。年齢が五十を越えてから、体温調節が難しくなった。忠治はシシャモのように痩せた、猫背で白髪の中年であった。
「お前のせいで今日は休診にしたんだぞ」
「まぁ、そう言わないでくださいよ」
気障な帽子を被った大柄な紳士は、彼の性格にしては小綺麗に着こなしている上着を脱ぎながら勝手に入室して来る。白い帽子を脱いで現れた顔は、外国人のような彫の深いものだ。性格とは裏腹に、キネマに出て来る俳優のように美しい顔立ちをしている。彼はその美貌で、色々と難所をくぐり抜けて来た。
忠治が渋々と書斎に通す最中、二人の頭上でカタンっと僅かに木の鳴る物音がした。その存在が物音を出す自体珍しいことだ。恐らく己の存在をこちらに伝えようと、わざとしているのだろう。
「……誰か他にいるんですか」
物音に気づいて、島根が上に目を向けた。薄暗い二階から漆黒の影が現れて、こちらをぬたりと見下ろしている。猫や動物の類いではなく、一人の少年だった。真っ黒い前髪で、視界が大分遮られている。その隙間を縫って、興味深そうに黙って二人を見下ろしていた。
年は十代後半といったところだ。やけに白い鼻がその黒髪から飛び出して僅かに鼻を鳴らした。そうしてただひたすら押し黙って挨拶すらもしようとしない。島根はそれを見上げて、ヒラヒラっと軽快に手を振ってから忠治にコソコソ詰め寄った。
「忠治さん、見直したなぁ、小性ですか」
「お前と一緒にするな、今日から世話することになっていた書生だ」
玄関から拾って来た新聞を右手に、眼鏡をかけた忠治は煩わしそうに返事する。
「しょせーい」
大げさな素振りで顎に手を当てながら、島根は揶揄った声を出す。
「昔からの知り合いの息子なんだ。生家よりここからの方が学校に近くてね、どうにも断れなんだ」
「学生寮だってあるじゃないですか」
「……お前みたいになったらどうしてくれる」
「『通過儀礼』みたいなもんだと思いますけどね。どのみち将来軍人にもしなるなら尚更なことだ。それにしてもこの時勢に時代遅れもイイトコですな。しかし美形だ、悪くない」
チラリと一瞥しただけで、よくもまぁそれが分かるものだ。うん、うんと島根が頷くのをため息で返して、忠治は書斎の机を指先でノックする。いい加減に着席するように促したのだ。その形相に恐るおそるといった形で、島根はようやく忠治の前の席へ腰を降ろした。
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