異形『怪』道中

森林公園

第一章:『浜唄(はまうた)』

第一話 深夜の記憶

 大正十二年、八月。


 硝子窓の向こうに大きな一匹の蛾がバタバタと暴れている。水から逃れたかったのだろうか、ほどなくして雨が診療所の薄っぺらい屋根をトタントタンと叩き始めていた。


 開業医である忠治ちゅうじは昼間のカルテを整えている。彼は元は陸軍の軍人であるが軍医としてシベリアに渡り、戻って来たあと除隊して内科を開いた。


 元々ここに住んでいた人間ではないが、昼間は有り難いことに繁盛している。自分より年上の女性たちが、朝も早くから並んでは待合室に集ってお喋りをしていた。


 生憎とここまで嫁は得られなかった。いや、敢えて娶らなかったというのが実際正しいかもしれない。女は嫌いではないが、若いころ色々とあって敬遠している。


 通いの看護婦もとっくに帰っている。だから忠治はだらしなく猿股に単物ひとえものを引っ掛けただけの姿で、胡座をかいて団扇で己を扇いでいた。暖色の電球の下は殊更湿度が高いように感じられる。看護婦が夕方水を撒いていってくれたが、全く効力は発揮できていないようであった。


 鼻の脂で丸眼鏡が滑る。年をとって、身体中の油分が失われつつあるのに、不快な部分ばかりそれが残っている気がしている。濡らした綿の手ぬぐいで顔を拭いてから、眼鏡を掛け直すと同時に、扉を強く叩く音がした。ダムダムダムと、些か粗暴な音である。


「誰だ……こんな時間に」


 目線を上げると、柱時計の時刻は夜中の二時を回っている。丑三つ時という時間に、嫌な呪いの慣習を思い出して忠治は僅かに身震いした。紐を引いて廊下の電球を灯して、さらにぞっとする。奥に見えた鐙色の廊下の先。玄関の硝子戸の向こう側に、明らかに『何か』がいる。


 それは白い装束を纏った女のように見えてしまって、なおさら身動きも取れなかった。女と思わしき影は、暗闇の中で手探りのように手のひらを硝子戸に這わせて、中の様子を伺っているようだ。忠治が音を立てずにゆっくりと、踵を返そうとした瞬間。気配を感じたのだろう、向こうから声を掛けられた。


「もし……」


 鍵など掛けていない。カラカラと勝手に開けられた引き戸の向こう。聞こえた声は、意外にも透き通っていて好ましい。灯りの下で見るとなんと言うことはない、白いアッパッパを着た若い女性であった。西洋かぶれの赤い紅を唇に引いて、人懐っこそうに笑んでいる。顔立ちは幼く、化粧さえしていなかったらまるで少女のように思えただろう。彼女が裸足でいたことも、その印象に拍車をかけるようだった。白いひらひらとしたスカートの裾は、鮮血で僅かに染まっている。


「助かりましたわ、怪我をしてしまって。困っていたのです」


 そう女性は答えると、断りもせずに玄関のふちにドスンと腰を降ろした。忠治は少女の横暴さに、些か気圧されながらも心配して尋ねる。結局のところ、どこまでもつまらない医者でしかないのだ。それが忠治の良い部分ではあるのだけれど。


「君、靴はどうしたのだね」

「脱いでしまいましたわ」


 あっけらかんと言い放つ姿は幼子のようで心許ない。髪の毛は艶やかに胸の辺りまで長く、悪びれぬように大きく口を開けて笑っている。投げ出された両足は生白く、健康的とはほど遠い雰囲気であった。まるで精神疾患の患者が病院を抜け出して来たようにも思える。


「こんな深夜に、どうされました」

 忠治がため息混じりに聞くと、

「子宝に恵まれなくって」

と、これまた分野ではない相談である。忠治が「ん」っと言葉に怯むと、女はかまうことなく続けて口を開く。


「義母様が私たちは子供を望んでいないって、だからできないって、そう仰るのよ」


 おおよそ忠治の質問の答えとはほど遠い。しかし忠治は、女性のこういった唐突な会話についていく耐性はある。それは診療所の客に、話の長いお年寄りが多いせいと言えなくもなかった。


「ほぅ、それは医学的根拠はお有りで」

「勿論有るはずもないわ、そんなもの。だのに自分の息子には非がなくて私に原因があると、そう言いたいのよ」

「それでこちらで調べたいと」


 忠治はやれやれといった心地で、気休めに隣に腰を降ろした。


「そうは言いますけどね、奥さん。うちは産婦人科ではないわけで」

「夫だって心当たりがあるのですわ。毎夜全く私には手も触れず、怪しげな研究ばかりしているのです」

「つまり自分には『非』がないと」

「ええ」


 とどのつまり。


「試してみてくださらない」


 成るほど、やはりそういうことだった。


 そんな昔を夢に見た朝。忠治は、久しぶりに反応した年甲斐もない己の一部に、ため息をつくこととなる。


* * *


昭和十五年、四月。


 目が覚めたのは下履きの不快さのせいではない。書斎からけたたましいベルの音が聞こえたからだ。布団の中で顎を撫ぜると、元気なく髭が生えかけている。年を取ると髭の勢いまでも衰えるようだ。


 普通の家にはあまり普及していない黒電話が二台、なぜか忠治の家には設置されている。それというのも忠治は町の診療所というのをやっているからなのだが。急患や患者用とは別に、書斎にも隠すように一台置かれていた。そしてそれが鳴ると、大抵ロクなことがないのだ。


「もしもし」


 薄い寝間着の上に、厚手の上掛けを羽織って電話に出る。すると受話器の向こう側で間延びした声が響いた。甘ったるい声色には覚えがあり過ぎる。

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