横山砦のぼうけん
柳生明希
横山砦のぼうけん
声を出すな。
おれであったからよかった。他のものなら、見さかいなく殺されていたぞ。よいか、ここにいて声を出すな。
大きな手が、左近の頭におかれた。ずっと前に、空高く抱き上げてくれたと同じ手だ。あのときは、青い山と青い空のにおいがした。今は、血のにおいが胸をむかつかせる。
あの牝ギツネめ、ガキどももろとも、刀のサビとしてくれる――
左近、おまえは利口な子だ。わかるな。おれは、おまえの母上のかたきを討つのだ。左近、おまえは助かる。おれの子だからな。だが、おとなしくしておれよ。仲間たちはおまえと見わけがつかぬやも知れぬからな。よいか、声を出すな。そこでじっとしているのだ。よいな。
血のにおい。やさしい父の、どこか狂った目。
子どもは、ふるえながらうなずく――
根雪の上に足跡をつけて、左近はじいっとしゃがんでいた。
彼が育った大和の国とはちがい、近江は雪が深い。寒さもきびしいが、左近には雪への興味のほうがつよい。
足の裏で、雪がずくずくとけてゆく。ひと月前にはこんなことはなかった。春がまぢかなのだろう。
「おおーい、左近!」
呼ぶ声に、左近はさっと顔を上げた。佐吉の声だ。
返事のかわりに、左近が指笛を鳴らすと、ぱたぱたとかるい足音が近づいた。
「うわっ。お前、寒くないのか?」
左近の姿を認めると、佐吉は棒立ちになって高い声をあげた。色の白い、人形のようにきれいな少年だ。
左近は佐吉に笑いかけ、雪からはだしの足を引きぬいて指さし、白い雪のおもてをふむ真似をしてみせた。
「雪に足跡をつけろっていうの? いやだよ、小さな子どもみたいなまねは」
佐吉は肩をすくめて首を振ったが、左近が同じ動作を繰り返すと、しぶしぶぞうりを脱いだ。
さくっ、と雪の中に足をふみいれる。
「そういうことか」佐吉がにっこりした。「雪どけはもうすぐだな」
左近は急いで指でいくつかの文字を作った。それから、首を横に振る。
「ひと月、前、ちがう……当たり前だよ。ひと月前には、地面まで凍ってたんだぜ」
すんなりわかってもらえたのがうれしくて、左近は大きくうなずいたが、佐吉はできの悪い弟をたしなめるように左近の頭を撫でた。
「足が腫れるぞ。早くぞうりをはけったら。これから横山のふもとのお寺におつかいに行くんだ。左近も来いよ」
∮
こいつはどういう素性の子なのかな、と、佐吉はときどき思う。寒がりで雪を珍しがり、おっとりと品のいい身ごなし。暖かいところの大身の家の子か。
左近は、佐吉の家で預かっている少年だ。こちらの言っていることはわかるが、ことばが話せなかった。ただ佐吉とはうまが合う。自然と、いつでも一緒にいるようになった。手指の合図で意思を疎通する術も、二人で考えたものだ。
おつかいの手紙とあいさつの菓子を持った佐吉と左近は、すぐ門をとおされ住持に出迎えられた。佐吉の父はこの寺と親密なつきあいをしている。
観音寺は、横山のふもとに抱かれるように建てられている。開山は古い。もともとは修行寺だったが、砦ができてから修行僧も減り、さびれてきていた。かたむきかけた講堂に近隣の子どもらを集めて学問を教え、その謝礼で寺の僧たちの生活がまかなわれている。
佐吉のすぐ上の兄、弥三もここに通っている。みんな七つか八つで通いはじめるのだが、からだが弱かった佐吉は行かせてもらえない。左近と共に、父から素読や手習い、算術などを見てもらっている。
二人は、火鉢で手をあぶりながら干し柿をご馳走になった。佐吉は眉をしかめている。甘いものが貴重な時代、干し柿は大抵の子どもの好物だが、ぜんそく持ちのかれは、薬代わりに食べさせられる干し柿があまり好きでない。
「石田の末の坊ちゃんが、ようここまで歩けましたな。おいくつになられた」
「ことし、十二になりました」
子ども扱いにいささかはにかみながら、佐吉は答えた。
「おお、ようお育ちになられた。あんなにお小さい赤子であられたに」
住持はにこにことつぶやいた。
講堂のほうが騒がしくなった。
「講義が終わったらしいな。兄上と一緒に帰られるかね」
「そうします」
佐吉は立ち上がった。左近もいそいで後にしたがう。
「ほ、そうじゃ、大事なことを忘れるところじゃった。佐吉坊や」
「はい?」
「さきほどお父上からいただいた手紙な、承ったとお返事申し上げてくれ」
わからないなりに、佐吉はうなずいた。おつかいはそういうものである。
境内は、講義から開放されてはしゃぐ子どもたちでいっぱいだった。
ほとんどが、近隣の家の子である。このあたりは街道沿いで京にも比較的近く、琵琶湖水運の恵みもあり、豊かな土地だ。大抵の家庭が、子どもを何年間か寺にやって読み書きを習わせるくらいのゆとりはあったのである。
「兄上!」
兄の弥三の姿を見つけて、佐吉は声を上げた。
「おや、佐吉」弥三は冊子に突っ込んでいた顔を上げた。「どうしてこんなところにいるんだい」
「父上のお使いです。手紙とお土産を、とどけに」
「ふうん、そうか」
「はい。兄上、お帰りならお供します」
弥三はまた冊子に顔を突っ込んだ。三つ年上の四角四面なこの次兄は、最近とみに本の虫だ。佐吉も本はきらいでないが、弟より大事というそぶりをされてはさすがにへこむ。
いまは浅井家につとめにでている長兄の弥次郎のほうが、どちらかというと佐吉には魅力的だ。彼は佐吉にないものを全部持っている。力持ちで、大酒のみで、正義漢で、詩人だ。
「なあ、佐吉ちゃん」
ちょいちょい、と佐吉の袖を引っ張るものがあった。佐吉がふりむくと、となり村の八郎だった。弥三がまた本から顔を上げた。
「遊んでくるなら、母上に言っとくよ。左近がついてりゃ心配はない。暗くなる前にお戻り」
「はい」
佐吉は弥三にぴょこんと頭を下げ、八郎に引かれてすみへ行った。彼を含め何人かの子どもは、佐吉の信奉者だった。
からだは小さく、虚弱ではあったが、佐吉は頭の回転がはやく面倒見もよくて、がき大将の器は備えていたのである。
佐吉の子分は、それぞれの地域で仲間外れになりがちな、おとなしい子が多かった。八郎も八人兄弟の末っ子のせいか、のんびりした少年だ。
「どうした、八郎」
「うん、こないだ、熊之介がさ、自慢してたんだ」
「またか。今度は何だ」
「横山の砦に上がったんだって」
「……え?」
これには佐吉も顔色を変えた。
横山の砦は、今や子どもらにとって禁断の地である。
この地方を治める浅井のお殿様が、姉川の河川敷で美濃のほうから来た織田なにがしといくさしたのは、半年ほどまえのことだ。
浅井の殿様はこのいくさで惨敗し、横山の砦は織田の武将に占拠されてしまった。
それまでの横山は、砦も古くなっていて、木が生いしげり自然に戻りつつあった。山菜やきのこ、薪など、手軽に取りに行けた。駐屯の兵隊ともなあなあで、ちょっと挨拶して入りこむのは簡単だった。ことに、子どもらには格好の遊び場であった。
それが、織田軍が占領してしまってからは、樹々は伐り払われすっきりと整備されて、強面の衛兵たちに睨まれ、山に入ることができなくなってしまっている。
「そりゃ、熊のやつのほら話じゃないのか」
「みんなそういってる。でも、太一も一緒だったんだって」
「太一がそういったのか?」
「うん」
「……じゃあ、本当かもしれないな」
佐吉はあごに手をあてた。熊之介は見栄っぱりでほら吹きだが、その親友の太一はそうではない。
「それでね、熊之介はね、横山でサルを見たんだって」
八郎は勢い込んでいった。
「サルだと?」
「うん。おっきなサルが、鎧を着ていばってたんだって」
佐吉は首をかしげた。
「織田軍の大将は、サルなのか……?」
浅井の軍は、サルに負けたのだろうか。
「熊之介のヤツ、すっかりいばっちゃってさ」八郎は、つまらなそうに地面を爪先でけった。「悔しかったら、おまえらもその目でサルを確かめてみろっていうんだ」
佐吉はちょっと考え込んだ。
「八郎」
「なんだい、佐吉ちゃん」
「熊がサルを見たのは、いつの話だ」
「三日前、だと思うよ。いばってたのはおとといだもの」
「ふうん」
佐吉は、裏手にすぐそびえている横山へ、すっと視線を上げた。視線を戻したひょうしに、当然のように傍にいた左近の視線に気づいた。
左近は首を振った。危険、という意味の手のかたちをしてみせる。
「八郎、おれの考えを聞きたいか?」
「うん、聞きたい」
「熊之介の鼻をあかすには、おれたちもそのサルをみるか、サルはいないって証拠をつかむしかない」
「うん」
「そのためには、おれたちが山へ登ることが必要だ」
ぐいっ、と左近が佐吉の袖をひっぱった。佐吉は振り返り、うむをいわせない口調で言った。
「左近、帰ってもいいが、家のものにみょうな告げ口はするなよ。したら、絶交だからな」
左近は哀しげに眉をよせ、「ついてゆく」という身振りをした。
「よし。八郎はどうする?」
「おいら、ついてゆくよ」
八郎は胸を張った。
∮
雪の山道は、子どもらには大した難所でもなかった。伊吹山麓のこの近所は、近江でも指おりの豪雪地帯で、雪はなじみのふかいものなのだ。馴れない左近も、連れの二人より体力はあった。
雪のお蔭で見とがめられることもなく、三人はずいぶん奥深く、砦に入りこんでいた。
佐吉の呼吸音が、やや耳障りになってきたのに、左近は気づいていた。佐吉ののどが弱いのは知っていたし、ここ数年はなりをひそめているぜんそくの発作が、いちど起こればかなりひどいということも聞き知っている。だいじょうぶ? と手で合図すると、にこりと笑みが返った。
そのとき、左近は目の端に人影をとらえ、佐吉の袖をひっぱった。
「! 八郎、かくれろ」
佐吉がさっと八郎を捕まえる。まごまごしている八郎ごと、左近は佐吉をひっかかえて身を伏せた。
見回りだろうか、足軽のみなりをした男がひとり、かなりそばを歩いていった。
「……危なかったな。左近、おまえ、よく気づいたな」
左近はあいまいに肩をすくめた。ものごころつくやつかぬころから、父祖の城郭をあそび場にしていた左近は、見回りの死角を本能的に熟知していた。ほめてくれた佐吉に、そのことを説明したい気分になったが、限られた手まねでは伝わることも少ない。
口がきけたらなあ、と思った。左近の緘黙は、生まれついてのものではないのだ。あの事件の日までは、左近は年の割に口数がおおいほどだった――
「よーし、先へ行くぞ」
佐吉が立ち上がった。ごほ、と奇妙なせきをする。左近ははっとして、佐吉をのぞきこんだ。
「……へいきだよ」
かえろう、という手ぶりに、佐吉は首を振った。
「お城のサルを見るまで、かえるもんか」
「でも、佐吉ちゃん、顔が青いよ」
のんびり屋の八郎が、やっと気づいて言った。
「そんなこと、ある……かっ、くふっ」
佐吉が口元をおさえた。たてつづけに咳き込み、背中を丸めて全身を震わせる。倒れかかるのを、あやうく左近が支える。
「さ、佐吉ちゃん」
八郎がおもわず大声を出した。
「なにやつだ!」
するどい誰何の声。見回りに見つかったらしい。
「うひゃああっ」
八郎が動転して、声をあげて飛び出した。
(ばか……!)
左近の口が動いた。声は出ない。
絹を裂くような悲鳴。
「こら、暴れるな! おまえ、どこから入った」
八郎の泣き声。斬られたのでないらしいと、左近は胸をなでおろした。
「なんだ、なんだ」
「敵か!」
「いや、ガキだった。迷いこんだだけらしい」
人が集まる気配がした。
八郎が泣きわめいた。ものかげから左近がのぞくと、小柄な八郎は足軽に襟首をつかまれて空中につりあげられ、じたばたもがいている。
(いち、にい、さん……)
足軽の数を、五人まで左近はかぞえた。
左近は考え込んだ。腕の中の佐吉は笛を吹くような呼吸音をさせながらぐったりと力ない。ぜんそくの発作だろう。早く手当てしないと命にかかわるかもしれない。かといって、八郎を置いていくわけにいかないし、だいいち、この人数の中を、ひとりならともかく、佐吉をかかえて切り抜けるのは無理と思われた。
「やだーっ! 佐吉ちゃん、佐吉ちゃァん!」
「ええい、うるさいっ! ぶった斬るぞ!」
ひとりが、まるで女のような甲高い声で言った。ぴたりと八郎の泣き声がやんだ。
「仲間がいるらしいな。何人だ」
八郎のしゃくりあげる声。
「ガキの肝だめしか?」
「油断するな。そうと見せかけて敵の斥候かもしれん」
「む……」
「そこの、おまえ! 隠れてないで出てこい!」
女のような声が叫んだ。
左近は動かなかった。慌てて出ていくほど状況は切迫していない。
その時、ひくっ、と腕のなかの佐吉がけいれんした。
(だめだ……佐吉がもたない!)
左近は意を決し、佐吉を抱えてかくれ場所から出た。
「……また子どもだ」
「おまえら、どっからきた」
八郎がしゃくりあげながら、めちゃめちゃなことを口走る。
「おまえは黙ってろ!」
女のような声の若い男が怒鳴った。
(……なんだ、子どもじゃないか)
左近は思った。背は大人よりすこし低い程度で、肩幅はもう大人なみにある。しかし、顔つきはまるっきり子どものものだ。左近たちと年齢はそれほどかわらないだろう。
「そこのおまえだ。だれに頼まれてここまできた」
少年は左近を指差した。左近は首を振った。口がきけないということが通じればいいのだが、相手にはわからなかったらしい。
「だんまりか。それもいい」少年は脇差の柄に手をかけた。「そんなら、ここで叩き斬っても文句はあるまいな」
左近の腕にもたれていた佐吉が、その時顔を上げた。
「八郎と……左近には手を出すな。おれが、ここまでふたりを連れてきた」
消え入りそうな声でそれだけ言うと、ひくっとからだを震わせる。左近はぎくりとして、佐吉の腕を強くつかんだ。
なんの脈絡もなく、左近の目の前に古い記憶がよみがえった。
小さな女の子が、泣きながら駆けている。
――いや、いや、いや、助けて。助けてェ、左近ちゃん!
左近は動けなかった。声も出せなかった。「声を出すな」と父は言った。仲良しのその少女が暴漢につかまり、小さなからだを真っ二つにされるのを見ても、声を出してはならなかった。
「では、お前だ。なまっちろいの」少年が、抜き身の刀をぴたりと佐吉に向けた。「言え。浅井の手のものか」
左近はキッと顔を上げた。
「やめろ!」
数年ぶりに上げた声は、自分でも多少おどろくほどすずやかだった。
佐吉が、驚いたように左近を見上げた。
「病人なんだ。はやく手当てしないと」
相手は、ばかにしたように笑った。
「きさま、ここまで来て、命乞いか」
「おれたちは浅井家のものではない」左近は落ち着いて言った。「この子は石田郷の長の息子だ。死なせたりしたら、正継様はおまえ達に野菜を売らなくなるぞ」
相手が信じるという確信はあった。この砦の兵が、石田家に菜っ葉や魚を買いに来るのを見たことがあったのだ。
遠征中の兵隊が食糧を得るには、自分で保存食を持っていくか、現地で略奪するのがふつうなのだが、この軍隊は地元の有力者から銭をだして買っている。大将がそれだけ、地元の民の心を得たいと思っているにちがいない、と左近は考えていた。
ききめがあったらしく、足軽たちは不安げに顔を見合わせた。
「石田……? なんだ、それは」
少年ひとりが、わけがわからないというように首をかしげた。
「なんじゃ、虎。何をさわいどる」
新たな声に、一同の空気が変わった。
「おやじさま!」
少年は叫び、ほかの足軽は慌てて地面におでこをぶっつけんばかりのお辞儀をした。
現れたのは、りっぱな陣羽織をまとった中年の男だった。
(……サルだ)
左近は思った。確かに、くしゃくしゃのあから顔はサルを思い起こさせた。身のこなしもせわしなくて、落ち着きがないと見ることもできる。が、真実は、むだのない、きびきびした立ち居振舞いだった。
「あ、サ、サル」
八郎が呟き、佐吉も目を上げて、「ほんとだ、サルだ」と囁いた。
∮
「話はだいだいわかった。ガキのくせに、おまえらいい度胸しとる」
大将の男はそう言うとからからと笑った。
「じゃが、この城の守りはそんなに甘かったかの。子どもにやぶられるようじゃ、忍びのものが入ってきてもわからぬわ」
一人ごち、まばらなのを無理やり伸ばしたようなヒゲをなでてみる。
短身、痩躯で、とても一軍の将の迫力はない。だが、目はキラキラ輝き、何か人を落ち着かなくさせるところがある。
八郎はびくびくとサル大将をうかがい見、佐吉はじっと眺めていた。火鉢に当たって温まり、勧められた薬湯が効いたのか、呼吸はおちついているが、まだ顔は青い。
「わしは木下藤吉郎というもんじゃ。この城をまかされとる。じゃが、三日前はこの城にはおらなんだぞ。こう見えても忙しい身じゃ」
「じゃ、やっぱり熊之介の言ってたのはうそだったんだ」
八郎が呟いた。
「そうじゃな。見回りの足軽が、おおかたわしの悪口でもふかしとったのを変に聞きかじったのじゃろ」
木下はくっくっと喉をならす。よく笑う男である。
「おやじさま、言われた通り使いを出したぞ」
先程の少年が、天幕の中へ入ってきた。
「おう、ごくろうだったな、虎」
佐吉はすっと背筋をのばし、虎と呼ばれた少年をにらみつけた。先ほどの非礼をまだ忘れてはいないようだ。
「……さっきは、悪かったな。おれは虎之助だ。おまえは?」
少年は、ぶっきらぼうに言った。仲良くしろと木下に言われたらしい。佐吉も、それでいちおうの警戒を解いた。
「おれは佐吉だ。石田佐吉という」
「八郎だよ」
みんなの目が、左近に集まった。いつもなら佐吉が紹介してくれるのになれていた左近は、声が戻っていたことを思い出した。
「……嶋、左近といいます」
まだ少し、しゃべるのにはどきどきする。
木下が、ほほうと身を乗り出した。
「おもしろい名じゃな。大和筒井家の、天下に名高いあの嶋左近と同じとは」
「筒井家中の嶋左近は、おれの父です。うちは、代々左近を名乗ります」
まわりの大人達がざわっとした。
「ほんに、大和の嶋の縁者かの? それがなぜ、このようなところに」
「いろいろ、つてをたどって。病気をしていて、転地療養がいいと、医師に言われたのです」
佐吉が、きょとんとして左近を見ていた。
取次ぎが、来客を告げた。石田郷の長とその妻だという。
「――佐吉!」
「母上、父上」
駆け込んできた夫婦に、佐吉は駆け寄った。抱きしめられ、怒鳴られ、また抱きしめられた。
「ほんに、この子は、ちょっと元気になったと思ったら、すぐこんなやんちゃを」
「どうも、ご迷惑をおかけしまして。ほれ、お前も頭を下げい」
せわしない親子を見て、左近は少し胸が痛くなった。
(世の中には、あんな仲むつまじい家族もいるのだな)
ふいに、大きな手を思いだした。
青空と、山のにおいのする、あの手を。
∮
「大和へかえる?」
佐吉は、わらをなう手をやめて左近を振り返った。
「どうして? 雪がとけたら、一緒に寺へ通うんじゃないのか?」
佐吉が編んでいたのは、通学用のわらじだった。雪解けとともに、寺へ通えることになったのだ。
口がきけないのでは不便もあろうと、通学を見合わせていた左近も、しゃべれるようになったので、佐吉と一緒に通ってもいいということになったのが、ついきのうのことだ。
「うん、でも、よく考えてみたら、勉強は大和でもできると思って」
「ふうん……」
佐吉はじっと左近を眺めた。にやにやしだしたので、「なんだよ」と聞いたら、
「父上が恋しくなったんだろ」
とからかった。
「そうだよ」
左近ははにかみながら、答えた。
「おまえんとこ、父ひとり子ひとりって言ったっけ」
「うん。母上は、おれを産んですぐ亡くなった。おれは祖父の後妻に育てられたんだ」
「へえ、ばば様に?」
「ばば様というには若いな。父上より年下だった。祖父とそのひととの間に、五人の子どもがいて、おれは兄弟に加えられたんだ。上にふたり、下にふたり、あと同い年の女の子がいた」
「……いたって?」
佐吉が眉を上げた。左近は頷いた。
「あの人は自分の産んだ息子が可愛くてね。長男であるおれの父上とじじ様が仲悪くなるようにしむけて、追い出しちゃったんだ。ま、よくある話だろ。おれは人質だったんだ、父上が余計なことをしないようにな」
佐吉はあいまいに首をかしげた。
「だけど父上はあきらめなかった。じじ様のるすを狙って、夜中に屋敷を襲撃したんだ。……火をかけて、郎党と一緒に暴れ回って、……かか様と、子ども五人と、使用人、みんなで九人、斬った」
「……」
「おれは物陰に隠れて声を立てるなって命じられて、黙って、ぜんぶ見てた。……七つだった」
左近は膝をかかえた。のどの奥がぐうっと痛くなって、膝のあいだに顔をつっこむと、暖かいものが手の甲に触れた。
顔を上げると、佐吉の顔がすぐそばにあった。ながい睫毛の奥で、黒い目がじっと見ていた。
「おまえ、それ、誰かに言いたかったのか」
「うん」
「だけど父上が言うなって言うから、それを守ってたんだな」
左近はうなずいた。佐吉の顔を見ていたら、ふわっと喉が軽くなって、代わりに涙があふれてきた。
左近は声を上げて泣いた。
∮
大和からむかえが来たのは、たんぽぽが咲き始めた日だった。
左近が出ていくと、むかえの男はすっと腰を低くしてかしこまった。
「おまえ、えらいんだな」
「えらいのは、おれじゃないさ」
佐吉と左近は目を見交わし、小さく笑った。
「じゃ、おれ、行くよ」
「うん。また、会おうな」
「うん」
左近は歩き出した。なごりおしくて何度もふりかえっていたら、佐吉が走り出した。
追いつくと、佐吉は気のきいたことを言おうと視線を泳がせた。
「あのな、おれ、おとなになったら、おまえよりえらくなるよ。だから、おまえ、おれの家来になれよ」
左近は目をまるくした。
「――いくらでやとう?」
意地悪を言うと、佐吉はちょっと考えた。
「折半だ」
「折半?」
「おれが百万両の長者になったら五〇万両やる。百万石の大名になったら五〇万石だ」
それは、雇っているといえるのだろうか。
でもとても佐吉らしい気がして、左近は微笑んだ。
「いいよ。待ってる」
「ああ、約束だぞ。来いよ。おれんとこ、来いよ、左近!」
∮
あれは元亀二年のことだから、もう三十年ちかくも昔の話になる。
思えば、あの体験が、彼の運命を変えたのだ。
左近はくっと苦笑いをした。なぜ、こんな場で、突然少年時代のことを思い出したのだろう。
「余裕だな、左近。傷が痛むかと、案じて来てみれば」
間近にいた主君の、呆れたような端正な顔に、少年の面影が重なった。佐吉、今の名は石田三成である。
「せかせかと、動き回られますな。御大将がそれでは、士卒が混乱いたしまするぞ」
左近はたしなめた。
「ふむ」
三成は髭をひねり、鼻をならすように生返事をした。このしぐさが、四十一歳の男にしては妙な愛嬌があり、憎めないという者もおれば、虎之助、現在の加藤清正のように、気に入らぬと毛嫌いする者もいる。一事が万事、三成という男はそうだった。敵も味方も多すぎるのだ。
「案ずるな、もうとっくに混乱しておる」
不意に三成は、開き直ったようにいたずらっぽい目をして左近を見上げた。子供のころと変わらない、澄んだ瞳だ。左近を魅了してやまない、きれいな瞳だ。
戦況は、最悪だった。
徳川家康率いる東軍に決戦を挑んだ関が原。万全を期したはずの作戦は、次々とほころびていった。ひるどきまでは優勢だったはずの三成率いる西軍は、毛利軍の怠慢によって次第に苦戦を強いられ、果ては小早川秀秋の裏切りにより、壊滅状態に追い込まれている。
それでも、三成の瞳は澄んでいた。
「覚悟は、お決まりですか」
佐吉と呼んでいた子供のころからの気性は、熟知している。左近は尋ねたが、ただの確認のつもりだった。三成の瞳は、美しい死を覚悟したものの透明さではなく、汚辱にまみれようとも生き抜こうと決意したものの明るさをたたえていたのだ。
「うむ。この場を抜け出し、大阪城を目指す」
左近はうなずいた。大阪城にはまだ、豊臣秀頼公がおわす。諦めるには早いし、自決は三成の性には合わない。
「大軍を率いての退却は不可能と思われます。算を乱して兵卒を逃れさせ、その中にまぎれてお逃げになるがよろしいかと」
「そのつもりだ」
引き続いて何か言おうとした三成を、左近は遮った。
「背後はお任せください」
死地を、左近は選んだ。
三成が生きるならそれでいい、と考えた。
来いよ、左近。
少年の笑顔で、三成が言った。目の前で肉親同士が斬りあう光景を目の当たりにして、心を閉ざしていた子供に、あの笑顔がどんなにまぶしくうつったか、彼は永遠に知ることはないだろう。
それでいい。
あの少年の日、左近の運命は決したのだ。たとえその先に見えるものが死であっても、自分はこの男を守り通すだろうと。
三成はなにか言いたそうにしたが、けっきょく口をつぐんで踵を返した。その後姿を見送りながら、左近もいつしか、少年の瞳になっていた。
-Fin.-
横山砦のぼうけん 柳生明希 @akkie155
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