雨と天秤
水卜みう🐤
①
195万都市のど真ん中、とある大学のキャンパスの中で
彼は国立大学の理系大学生と3人組ロックバンドのギターボーカルという二足の草鞋を履いていて、今まさにその草鞋を片方脱ぎ捨てるかどうかという選択を迫られているのだ。
「ねえ史人、本当に今が私たちにとって最後のチャンスかもしれないの。もうちょっと前向きに考えてほしい」
そう言うのは同じバンドでベースボーカルを担当する
実は彼ら3人組のバンドには良い話が舞い込んできていた。東京のとあるメジャーレーベルからデビューの話があり、一端のミュージシャンとして独り立ちできるまたとないチャンスに最初は皆喜んだ。
美鈴とドラムを担当する
「でも、デビューしたからといってこの先どうなるかなんてわからない。もし上手くいかなかったとき、大学中退なんていうどうしようもない経歴だけ残る。そんな不安定な生活なんて怖くてできない」
史人は典型的な公務員家庭に育っていて、自分も安定した公務員になってレールに乗った人生を送ることこそが幸せだと考えていた。それゆえ、自分のバンドが評価されてデビューしないかという話が来たこと自体は嬉しかったが、いざ本当に自分が音楽の世界に飛び込んで生きていけるかという勇気がなかった。
「そんなことばっか考えてるから女にモテないのよ。だいたい有名企業に入社したり公務員試験に受かったりすることよりメジャーデビューできるほうがよっぽど貴重なのよ?一度きりの人生でそんなこと躊躇ってどうすんのよ」
「俺もそう思うよ史人、ダメだった時の保険が欲しいなんて思うほど俺たち老いぼれてないだろ?ここは腹くくってデビューしよう。な?」
リズム隊の二人はなんとかしてカタブツ史人の心を動かそうと説得を試みるが、史人の気持ちはまだ動きそうになかった。
「ごめん、もう少しだけ考えさせてほしい。僕だってデビューの話が来たことはすごく嬉しいんだ。だからこそそれをじっくり天秤にかけて検討したい」
史人はそう言って先延ばしにすることしかできなかった。安定と音楽、どちらの生活を選んだとしても後悔が残りそうな気がしていたのだ。
もし自分がミュージシャンになりたいと言ったら両親と姉はどんな顔をするだろうか、快く自分を東京へ送り出してくれるだろうか。いままで並々ならぬ愛情とお金をかけて折角レールの上に乗った人生を送らせてくれた家族の期待を裏切ってしまいそうで史人は怖かった。
史人はメンバーと別れて家に帰ると、母親が夕飯の準備をしていた。
「史人おかえり、頼んでたアレ買ってきてくれた?」
「アレって何?」
母はスマホにお使いをしてくるようメッセージ送っていたらしい。完全に失念していた史人は母親のため息を聞くとすぐに買い物袋をもって近所のスーパーへ駆け出した。
道中雨が降り始めた。典型的な夕立ちで、大粒の雨が史人の全身を濡らした。
ずぶ濡れになった史人はとにかくどこかで雨宿りをしようととある整形外科医院の軒下へ逃げ込んだ。
雨足はまだ弱まる気配を見せない。史人は母へ『雨に降られたので少し遅くなる』とメッセージを打つと、雨が止むまでぼーっと突っ立ていた。
十数分ほど立っていると、整形外科医院の中から一人の男が診察を終えて出てきた。
「あちゃー、すげえ雨だな。傘持ってくりゃ良かった」
史人はその男の顔に見覚えがあった。高校時代に自分にギターを教えてくれた先輩、
「拓真さん…?お久しぶりです、どうしたんですかこんなところで」
「おお、史人じゃん久しぶり。そうかお前んちこの近くだったっけな」
拓真は高校を卒業して地元の工場で働いているということまでは知っていたのだが、卒業後に2人が会うのは始めてだ。拓真は髪を染めていかにもやんちゃな若者という風貌だったが、面倒見が良くて史人をはじめとする後輩たちの良き兄貴分だった。
「どう?いまもバンドやってんの?」
「ええ、おかげさまで少しお客も呼べるようになって楽しいです」
一介のバンドがお客さんを呼べるようになるのは並大抵のことではない。演奏技術やライブのステージングはもちろん、売り込みやインターネットを駆使したPRなどの戦略性も重要になる。史人たちは運もあったのかバンドコンテストで優秀賞を獲得したことで知名度が上がりお客さんが付くようになった。
「客呼べるとかすげえじゃん、俺なんて毎回毎回バカ真面目にチケットノルマ払ってたぜ」
お客さんが呼べないバンドはチケットノルマをライブハウスへ支払わないといけない。バンドをやるにもなにかとお金がかかる。
「あはは、お客さんがついたのは運みたいなもんですよ。拓真さんくらい上手い人なら呼べるようになりますって」
「そうだったらよかったんだけどな」
拓真はそう言うと表情が少し暗くなった。よく見ると彼の左手には包帯が巻かれている。
「実はさ俺、仕事で左手の小指と薬指やっちまったんだよな。ほれ」
拓真が左手を見せると史人はゾッとした。その左手には拓真の言う通り薬指と小指の第2関節より先が無かった。それはつまり、もう拓真はギターを弾くことができないということを暗に示していた。
「俺は右利きだから、家族にも医者にも『利き手じゃなくて良かった』とか言われるんだわ。でもお前ならわかるだろ?ふざけんなって」
史人は唾を飲み込んで自分の左手を見た。もしこの手の指が1本でもなくなれば、まともにギターなど弾くことはできない。尊敬している拓真がもうギターを弾くことができないという現実を史人は上手く飲み込むことができなかった。
「じゃあ、もう拓真さんはバンドを…」
「んなわけあるかバーカ、こんなロックンロール大好き少年が指なくなったくらいでバンドやめると思うか?」
そう言うと拓真は自分の鞄から何かを取り出した。それは史人もよく目にしたことのある道具で慶がよく使っているもの。
「ドラムスティック…?」
「そう、これなら指が無くても何とかなるだろ?デイブ・グロールもアヒトイナザワもギタリストでありドラマーなんだ。俺だってやればできるはず」
てっきり史人は拓真が絶望の淵にいるのではないかと思っていたがそうではなかった。拓真は少年のような目でドラムスティックを握っている。
指が無くなろうが腕が無くなろうが、心臓の鼓動が止まる最後の一瞬までロックンローラーであり続けたいと思う拓真の瞳がとても眩しかった。
その姿を見た史人は急に自分自身が恥ずかしくなってきた。下手をしたら命を落としかねない状況で指を失った拓真が、あきらめることなく必死にロックンロールを鳴らし続けようとしていたのだ。生活の安定がどうのこうので悩んでいた自分が実にバカバカしい。
「拓真さん、実は僕、メジャーデビューをしないかってお誘いがかかっていてですね…」
「マジか!そんなこと滅多にあるもんじゃねえよ?絶対デビューしてくれよCD買うからさ」
拓真は史人に食いついた。自分が手塩にかけて育てた後輩がメジャーデビューするかもしれないということに、嫉妬することなく純粋に応援してくれる拓真はどこまでも人格者だった。それゆえに指を失ってしまった神様のいたずらが本当に憎いと史人は思った。
「デビューするか悩んでたんです。売れるかどうかもわかんないし、失敗したら生活が行き詰まるんじゃないかって」
「まあ、史人はいい大学に入ったからな、もったいないって言うやつもいるかもな。俺は思わんけど」
「ええ、拓真さんと話して吹っ切れました。本当に会えてよかった」
「大げさだな史人は。なあに売れなかったら俺と一緒に鉄削って油まみれになって仕事しようや。紹介するよ」
「はい。ありがとうございます!」
「あほか、俺と一緒に働く羽目にならないように頑張れってことだよ。ちゃっちゃと東京で住む部屋でも決めてこい」
やがて雨が止むと、拓真は自宅へ帰ると言って行ってしまった。史人はそれを見送ると、スーパーに寄ることを忘れて自宅に戻った。
史人は東京に行ってミュージシャンになりたいと両親に言うと、母は心配し父は何も言わなかった。
ただ、史人が生まれてからの二十数年で、初めて史人が自身の意思を伝えてきたことに両親は喜んでいた。
「お前はなんでもそつなくこなす『いい子』だったから自分の意思表示をしてこなくて心配していた。今それを聞いて逆にほっとしている」
このままでは史人が機械のように中身のない人間になってしまうと父は少し心配していた。確かに親として自分の子が安定した生活を送ってくれることに越したことはないのだが、それに固執して中身のない人生を送ってしまうように強制してしまっているとしたら元も子もない。父も父で悩んでいたようだ。
「ちゃんと親孝行できるように全力で音楽をやってきます」
人生一気持ちの入った言葉を両親に伝えると、史人の瞳からはなぜか涙があふれていた。
そうして決心をした史人は、美鈴と慶へデビューする意思を伝えた。
二人はまさかデビューする側に史人の気持ちが傾くとは思っていなかったようで、てっきり東京に女でもできたのかと史人を問いただす始末だった。もちろんそんなことはなく、正直に拓真に会ったことを話すと二人は『それで一曲書けそうじゃん』と喜んだ。本当に商魂たくましい。
3人は退学届を大学へ提出し、ついに上京することになった。しばらくは下北沢近くの安アパートで貧乏暮らし、バイトを掛け持ちしながら音楽をやることになる。そんなぎりぎりの生活だが史人にもう後悔はなかった。
今はもう、全力でまっすぐぶつかっていくことしか頭にない。
雨と天秤 水卜みう🐤 @3ura3u
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