名残の花

山羊太郎

孤独な男は孤独な幽霊と出会った。

 目が覚めた。見覚えのある部屋だ。俺の部屋なのだから当然だ。時刻はおそらく昼前。いつも目覚める時間がそれくらいだからきっとそうだ。築四十年の安アパート。床に直に敷かれた安物布団から見えるのは大量の空の酒瓶。片づけが面倒で長い間放置してきた。そろそろ足の踏み場がなくなってしまいそうだ。


 息を吸う。カビと埃のにおいが強烈に鼻についた。それに混じって微かに香るのはシャンプーの匂い。これは俺がいつも使っているものだが、いざ風呂場からの匂いを嗅ぐとなると別物のように感じた。普段はこんなふうに香るのかと、ぼんやりとした頭で思った。


 だるい体を無理やり起こし、頭をかく。タバコを探して枕元を漁る。だがいつも置いてある場所にそれがない。昨日切らしたのを忘れていた。


「クソ」


 悪態をつくもどうしようもない。昨晩風呂に入り忘れたのでシャワーでも浴びて頭をすっきりさせよう。


 体が猛烈にだるい。酒がまだ抜けていないのもあるだろうが、昨日の出来事が散々だったせいでもある。最悪と言ってもいいだろう。普段の俺なら絶対しないからな。あれは事故だ。それ以外に言いようがない。


 酒瓶を何本か蹴飛ばしながら風呂場へ向かう。中からシャワーの音がする。どうやら昨晩の俺はなぜか風呂に入ろうとして力尽きたらしい。一晩中水を流しっぱなしという事実が後々俺をへこませる原因になるだろう。


 ドアを開け、そして俺はそこから動けなくなってしまった。


「なっ……!」


 俺は水を一晩中無駄にしていたわけではなかった。俺の知らないうちに、俺の知らない女が能天気にシャワーを浴びていたからだ。


 女は鼻歌を歌いながら頭を流している。やがて俺が開けたドアの冷気に気が付いたのかこちらを見た。


 その女は目をぱちくりさせ、ただでさえ大きい目を限界まで見開いたかと思えば何度も口を開けたり閉じたりして、鼻の穴が大きく広がり、やがて少し離れた俺からでもわかるほどに顔を赤く染めた。まるで一人暮らしの女の部屋に強盗が現れ、おまけに鉢合わせしてしまったかの如くどうしようもなく驚き、シャワーカーテンを使って己の体を覆い、やがて金切り声を上げて叫んだ。


「ちょ、わあああぁぁぁっ」

「誰だお前ぇぇぇぇーーーッ!」


 知らない女がそこにいた。






十八時間前。


「これは最高にぶっ飛びますよ」

「説明はいい。値段を言え」


 その男たちの会話は不愛想で、仕事を終わらせて早く帰りたいという気持ちがにじみ出ていた。


 俺も帰りたいが仕事はまだこれからだ。俺は自他ともに認めるめんどくさがりだから、かいつまんで説明する。


 俺はフリーの殺し屋だ。なんでも屋ともいう。主に誰かを殺して生計を立てている。凍えるような寒さの中、夜の倉庫のキャットウォークで身を潜めているのが俺だ。では下で会話をしている男たちは俺にとっての何物なのだろうか。


 麻薬の取引に熱が入り始めた野郎どもは確実に油断している。今どき映画くらいしかこんな場所で取引しないだろう。


 何はともあれ今晩は大金が動く。俺はそれを阻止しておじゃんにする。


「くそ……」


 手が震えてきた。これから暴れることを考えれば自然と死への恐怖がそうさせる。いくら慣れた仕事だとしてもこればかりは克服できそうにない。あとは如何ともし難い非常に個人的な理由なのだが、それはすぐに解決できる。


 ここに忍び込むときに一緒に持ってきたボトルのキャップを開け、中身を一気に飲み干す。すぐに体のけだるさ、手の震え、そして意識が覚醒した。


「それじゃ、仕事すっか」


 大きく深呼吸して懐から拳銃を取り出し、スライドを引く。こまめな手入れをしているので滑りは好調だ。ノープロブレムってやつだ。


 立ち上がり、キャットウォークから飛び降りる。巨大な倉庫だ。十メートルはあるだろう。奴らの手下がクッションにならなければきっと足の骨を折って終わりだったかもしれない。


 突然の重量物は手下の男にとって致命傷だったらしく背骨が折れる感触が俺の膝を通じて伝わってきた。


「誰だ!」


 もう一人の仲間がこちらに気が付き、自動小銃を構える。ここは日本だ。拳銃を持つ俺が言うのもなんだがそんな物騒なものは持ち歩くものではない。それにほら、慣れていない得物を使うのは非常に危険だしな。


「うぐっ」


 重い本体を持ちあげてマズいところを俺に向けるより早く、俺の拳銃が火を噴く。狙いは適当だ。どこに当てても奴はひるみ、そして隙を晒す。


 脇腹を撃たれた男は案の定、姿勢を崩して引き金に力を込める。戦闘しようという意思が暴発を招いた。いくつもの銃弾が天井へ命中し盛大な反響音が倉庫内に響いた。 


「やってやるぜ」


 ここまで音を立てたのだから、奴らはいい加減取引を邪魔しようとする奴が現れたのだと気が付いたようだ。静かにこっそりとやるのは俺の性に合わない。これでいい。生きるか死ぬかの瀬戸際に俺はいる。それがいい。


 膝で踏み付けたままの男の頭を至近距離から撃ち抜き、硬い床に脳漿をぶちまけた。それから勢いよく駆け出して、脇腹を撃たれた男が態勢を立て直す前に、その不安定な膝を外側へ蹴る。男は悲鳴を上げてその場に倒れた。後遺症は免れない大けがだ。これから楽にしてやろう。


 男のこめかみに銃口を向けると、彼は口をパクパクとさせながら悲哀に満ちた目で命乞いをしていた。乾いた銃声でそれらをなかったことにする。


 山積みになった資材の向こう側から複数の男たちが銃を手にして現れた。近場の荷物に隠れている時間はなかった。俺はその場で倒れ、先ほど楽にした男の死体の影に隠れた。完全には隠れられず、すでに姿も見られているものの、死体は便利な盾となる。被弾を少しでも減らせるなら十分だ。


 男の死体の影から銃を向け、引き金を引く。ここでは確実に仕留める必要がある。一人、二人、三人と数を減らすことができたものの、四人目の放った銃弾が俺の左肩をかする。


「いてぇな!」


 激しい銃撃に姿をさらすことができない。死体に命中した銃弾が肉を削ぎ、弾き飛ばして俺の服を血に染めていく。生きて帰ったらこの服は捨てないとならないだろう。洗うのは面倒だ。


 みるみるうちに敵の数は増していき、いよいよ俺の人生も終わりが近づいてきた。そのとき俺の視界に入ったのは奴らが進んでくる通路、それを形作る両サイドに設置された資材の山だ。巨大な棚のそれぞれに、鉄パイプがラッシングベルトによって束ねられて管理されている。


 銃撃戦になってしまったのだからこれからどれだけ被害が出ようと誰が気にするのだろうか。そんなわけで俺は死体の影からぎりぎり見えるベルトを撃って破壊する。


 耳を塞ぎたくなる轟音ののち、辺りは静かになった。人の気配がしないので俺はおそるおそる起き上がって周囲を確認する。鉄パイプの下敷きになり、上半身と下半身が織姫と彦星よろしく離れ離れになってしまっている者、頭蓋に食い込み目玉を失い串刺しになっている者、そして両腕のみ切断されて失血死している者。彼らはおそらく自分になにが起きたかわからないまま死んだのだろう。上等な死だ。苦しむよかよほどマシだ。


 わずかに残った生存者を楽にさせながら俺は次へ進む。途中、壊れていない自動小銃を見つけたが持っていかないことにした。こいつを使うことはできるが、取り回しが悪くなる。特にこんな狭い空間で使うのはあまり賢い選択とは言えないだろう。銃なんて撃てて当たればいいのだ。威力は二の次と言える。


 提示された今回の報酬はそれなりに高額で、きっとさらなる増援が俺を待っているに違いないとたかを括っていたが、案外この仕事は簡単に済みそうだった。壊れた通路を乗り越えて進むと、先ほどの会話の主がいた。


「う、うう、あ」


 白いスーツ姿の男が小便を漏らしながらへたれこみ、俺のことを見ていた。脇に小包を抱えている。これが商品のようだ。


「お前はバイヤーか。おい、もう一人はどうした」


 この男以外にスキンヘッドの男がいた。そいつが仕入れだ。キャットウォークにいたときにこの目でしっかりと確認した。この場にいないのなら逃げられた可能性がある。


「し、知らないッ」


 男は涙と鼻水を垂れ流してそう言った。


「じゃあ死ねよ」


 ろくに狙いもつけず、とりあえず俺は引き金に力を込めた。何発か胴体に当たり、間もなく男は死んだ。生かしておく理由がない。そういう仕事なのだから。


 崩れ落ちる体を横目に、俺は逃げた男の行方を捜す。といってもこの倉庫の出入り口は一つしかない。非常口は少し前に外側からセメントで固めてきた。だからもしこの倉庫から出るなら正面から出ていく以外にありえない。ここから十分に視線が通る出入り口を見張りつつ、俺は先ほど殺した白スーツが持っていたブツを手に取る。


「重いな」


 ダクトテープでこれでもかと巻かれたそれは見た目より重く、中身がぎっしり詰まっているようだ。これで殴れば人だって殺せるだろう。


「俺はこんなもんに頼らねぇからな」


 ぼそりと呟いたそのときだった。手の中の麻薬のパッケージが炸裂した。次に銃声が耳に入り、最後に中身が口と鼻の中にそれらが飛んで来た。


 俺のことを撃った奴は非常口の辺りから正面出入り口へと走っていく。息を吐いたところを狙われた。つまるところ俺は油断してしまったわけだ。


「ちくしょう」


 口の中の麻薬を吐き出すよりも先に、走り去っていく男の背中を目で追い、銃口を向ける。粉のせいで眼球が乾燥している。瞬きはあいつを黙らせてからだ。すばやく引き金を引く。硬い地面に平たい板を落としたような音と共に、十数メートルの距離にいる男は血を噴き出して倒れた。


 これで全員を殺し、俺の仕事は完了した。だが一つ別の問題が発生し始めていた。


「あ、やべっ」


 心拍数が上がり、呼吸が早くなる。動悸が苦しい。麻薬、おそらくコカインを、事故とはいえ吸ってしまった影響が出てきたのだ。まだ冷静なうちに俺は、拳銃の安全装置のロックをかけて懐にしまい、深呼吸をした。


「よっしゃ、帰るぞ!」


 己の頬を張ってから倉庫から家の方面まで全力疾走した。コカインは俺に対してよく効いた。



 だって俺めっちゃ幸せだし!


 らしくもないほどにテンション高いし!


 怖いものだってない!


 今なら何でも出来そうな気がする!





 現在


 俺の部屋に知らない女がいて、そいつは無警戒にシャワーを浴びてやがった。腐っても俺は殺し屋。何度だって殺されそうになった。こういう殺しの世界とは何も関係なさそうな女でさえ俺に殺意を向けてきたこともある。やられる前にやらないと、次の瞬間にはいとも簡単に死の世界に誘われてしまうだろう。


「風呂場に乗り込むとか大胆か!」


 何を言おうが今だけは俺の耳に入らない。そう言ってナイフを突き立てるつもりだろう。その前に足を踏み出し、やたら大きな胸を手で隠している間に、俺の手が女の喉を掴む。


 女は硬い壁に後頭部を打ち付け、意識を失うかひるむ。


……はずだった。


「あれ?」


 間抜けな声を上げたのは情けないことに、俺のほうだ。手のひらを勢いよく壁にぶつけ、衝撃が全身を駆け巡る。何が起きた。この女は何をした。一切動いていない女の首を掴むのはたやすいことで、子供だってできることだ。それなのになぜ俺はできなかった。女の体をすり抜けてしまったかのように。


「このッ」


 寝起きだというのに頭に血が昇り、腕を振り回してなんとか女の体に一撃入れようとする。振りぬいた右腕は女に当たることなく、シャワーヘッドを破壊した。


「ね、ねぇ……」

「なんだお前! なんなんだ!」


 熱いお湯が俺の服にかかる。もちろん女の体も濡らしている。その後何度殴りかかってもかすりもしない。当たっているのに触れない。何がどうなっているのか誰か説明してほしい。


「ねぇってば、おじさん」

「この野郎!」

「無駄だからやめなって!」


 女は壊れたシャワーヘッドを手に取り、噴き出すお湯を俺の顔にかけた。そこでようやく俺は冷静になれたというわけだ。


「なんで触れないんだ」

「その発言、かなり問題じゃない? あたし女子高生だし」

「女子、高生……?」


 女の体をよく見てみる。日焼けした健康的な肌。やたら大きな胸。腹回りの贅肉は、少しはあるようだ。顔つきはまだあどけなく、子供っぽさが残る。長い髪の毛を金色に染めており、もしもこいつが本当に女子高生ほどの年齢だとしたら、頭があまりよくなさそうに見える。いわゆるこいつはギャルというやつだ。


 そんな子供がなぜ三十路を超えた俺の部屋でシャワーを浴びているのか。そしてなぜ触ることができないのか。いや、妙な目的があってではなくて、敵として無力化できないと俺に勝ち目がない。


「とりあえずさ、おじさん。あたし服着たいから出てってくんない?」


 体の隠すべきところに手をやりながら頬を膨らませて女は言った。なんというか、ここまで俺が一方的に攻撃してきたが、対する女の方は何もしてこない。せいぜいお湯をかけてきた程度だ。何か隠し持っている様子もないし、何かの手違いで俺の風呂場を使っているのだ。絶対にありえないが、そう思わないとこれからどうすればいいのかわからなくなってきた。


 少しして、俺は外を歩いていた。女の着替えを律儀に待つ男ではない。ちょうどタバコを切らしていたので散歩がてら近所のコンビニへ向かっている。昨日の仕事着のままなので服のあちこちが埃まみれ、血まみれ、コカインまみれだ。冬なので上着を羽織ってなんとかごまかしているものの、長時間は出歩いていられない。


 店員に妙な目で見られたが酒とタバコを買い、俺のボロアパートへ戻る。十五分程度の軽い運動だ。錆びた金属の階段を登りながら俺は考える。あの女はどうやって俺の部屋に侵入したのだろうか。こんな仕事をしているとどうしても戸締りに関して敏感になってしまう。特に寝ている間はそうだ。昨晩俺はラリっていた。その程度で部屋の鍵を閉め忘れるのならばとっくの昔に俺は殺されている。何かミスをすると決して自分のせいではないと、他人のせいにしたくなる。俺の悪いところだ。とにかくこの疑問は謎の不思議ギャルに問い詰めればいいだけの話だ。もしまだ中にいるのならの話だが。


 部屋のドアを開け、鍵を閉める。この動作を忘れるわけがない。きっとあの女は何かしら俺の隙をついたのだ。ここを出払うまえに聞き出しておきたい。


「おい、クソギャル。まだいんのか」


 乱雑に靴を脱ぐ。ここにあるのは俺の靴だけだ。あいつ、まさか土足で乗り込んでやがるのか。ふざけやがって。


「おい聞いてんのか」


 勝手に人んちに上がり込むわ、風呂入るわ、靴も脱がないわで、俺の怒りはもう限界だ。どこの誰かなんて学生証でも見ればわかる。さっさと追い出してやる。


「返事を……」


 短い廊下を進み、居間の扉を開ける。


「あ、お帰り」


 あぐらをかいて汚いリビングの床に座り、そいつは俺に気が付きこちらを見た。学生服を着て、それでいてだらしなく気崩して、とにかく品性のかけらもない。だがこいつが手に持っているものはもっと下品なそれだった。


「おじさんすごいもの見てるんだね。ちょっとドン引きかも」

「お前、なにして、やめろ!」


 慌てて取り上げたそれは俺の秘蔵のブツだ。テレビ台の中にしまっておいたのに、わざわざ取り出してパッケージを床に並べ、それらを眺めている。俺は子供じみた絶叫を上げ、ブツを取り上げると手近にあったゴミ箱へ乱雑に放り込んだ。ゴミ袋をまとめ、簡単には取り出せないようにする。ここまで実に二秒程度だ。我ながら早業だと思う。


「あははっ、何今の。チョーすごいんだけど。中学生みたい」


 俺は黙ってけらけら笑う女の首根っこを掴んで放り出そうとした。しかし触れないのを忘れていた。きっと今の俺の顔は真っ赤なのだろう。


「無駄無駄。今まで私に触れた人いないから。それにしても女子高生ものが好きなんだね、おじさん」

「やめろ」

「清楚な子がいいの?」

「うるせぇ」

「じゃああたしは襲われないから安心だね」

「そもそも触れないだろが」


 屈辱のやり取りは案外早く終わり、女の方から別の話題を切り出してきた。「そう、そこなんだよ」と言って女は立ち上がり、俺の前に立つ。身長差が目立つ。風呂入ってないからあまり近づかないでほしい。


「あたしさ、きっと幽霊なんだと思う」


 急に真面目な顔するから何を言い出すのかと思えば、オカルトなこと言いやがる。幽霊だと? そんなもの、子供騙しの作り話だ。死んだら何も残りはしない。


「あ、まだ信じてないの? 現にあたしに触れないじゃん」

「それは、なんかのトリックだ。俺はテレビ見ないから流行りのネタとかわからん」

「トリックとかそんなわけないし。だってあたしが一番びっくりしてるんだよ? ありえなくない、これ?」


 この女、さっきから体を寄せてくるのはいいが、胸が当たっている。いや、透けているから当たらないけど、当たる位置だ。あまり大人をドキドキさせんな。


「そうだ、あたし物に触れるけど、頑張れば通り抜けられるんだよ! これ昨日知ったんだ」


 そう言って女は軽い足取りで玄関から出て行った。扉も開けず、体のどこもぶつけることなく外へ出た。


「こいつは……バッドトリップってやつか?」


 俺はクスリをやらないが、ひどい後遺症を患ってしまったのかもしれない。目頭を押さえて現実を受け入れる。やりたくもなかった薬物のせいで病気になるなんて、理不尽さに胸が苦しくなった。


 すぐに女が帰ってきた。出たときと同じくドアをすり抜けて俺の前まで戻ってくる。もはやこいつが土足だろうと気にしない。見たところ床も汚れていないようだし。


「ね、すごいでしょ?」


 こいつは笑っている。どうして自分のことを幽霊だなんて言い張って、笑っていられるのだろう。自分でそれを証明して現実を受け入れているつもりなのか。


「そもそも幽霊がシャワーを浴びるかよ」

「や、それは、あたしきれい好きだし。気が付いたら幽霊になってて、いつからお風呂に入ってないかわからなかったから気持ちだけでもさっぱりしたくて」


やっぱり自分のことをまだ人間だと思っていたい証拠じゃないか。無茶苦茶だ。本当に幽霊なのか、ただの俺の幻覚か。どちらにせよ俺たちはまともじゃない。

 俺は座り込み、コンビニで買ってきた酒の缶を手に取って開封する。


「こんな昼間から酒なんて不健康だよ?」

「うるせぇ。俺はこいつがあればまともでいられるんだ」


 酒を一気に飲み干し、頭が冴えていく。手の小さな震えが収まり正気を取り戻した。これであの女は消えているはずだ。


「それでさ、おじさん殺し屋なんでしょ?」

「ぐわっ」


 思わず手に持っていた二本目の缶を握りつぶしてしまった。わきの下に隠してある拳銃の重みが俺を緊張させる。


「なにを言ってんだ」

「だって昨晩そんな話してたじゃん」


 こいつは一体いつから俺のそばにいたんだ。女が言う『そんな話』とはおそらく仕事の報告のために立ち寄ったいつもの場所での会話だ。ラリってたからあんまり記憶がないが、あのときにはすでにつけられていたらしい。

始まりはどこからか考えていると、女子高生の方から答えを教えてくれた。


「おじさんが土手で話しかけてくれたじゃん? 覚えてない?」


 土手だと? 近所にあるが、帰り道にそんな場所通らない。昨晩の俺はよほどキマっていたようだ。深夜徘徊したあげく知らないガキに話しかけるほどに。


「何言ってるかわからなかったけど、あたしすごくうれしかった。誰にも見えないはずのあたしがわかるだもん」


 女は胸に手を当ててうつむいた。人々に気づかれない日々がどれだけ続いたか知らないが、きっとこれくらいの年頃には相当長く感じたことだろう。


「ところでさ、ところでだよ? 外にいる怖い顔したおっさん達はおじさんの友達?」

「急に話が変わるとついていけな、え?」


 言い切るよりも早く、俺の本能が危険だと察知した。未来予知に近いそれは精確で、いつも俺を助けてくれる。

 俺に友人はいないし、客人が来るはずもない。となればやっかいなことになりそうだ。女が俺の表情の変化に気が付いた。

 懐の拳銃へ手を伸ばした刹那、ドアが蹴破られた。鉄製のドアが轟音を立てて玄関へ倒れる。俺は犯人が誰であろうと引き金を引き、殺すつもりだった。

 だがしかし、まさか突入してきた奴らが防弾盾を構えているとは誰が思うだろう。俺が銃を持っていることは織り込み済みらしい。たった一枚の盾ごときに手こずってしまい、あっという間に距離を詰められた。それどころか防弾プラスチックの板を鼻先へお見舞いされ、俺はその場に仰向けで倒れてしまった。


「こんなにもあっけないとは」


 外から遅れて入ってきた男がそう言った。周囲を三人の男に囲まれながら首を動かしてその人物を見やる。見覚えのある顔だ。確か、昨晩の取引現場にいた売り手の男だ。逃げ出そうとしたから俺が撃ち殺したはず。


「街中を探したらすぐここがわかった」


男の肩に包帯が巻かれており致命傷となっていない。どうやら俺はしくじったようだ。二度撃ちしておくべきだった。


「あの取引は組織にとって重要なものだったのに、それをお前が邪魔してくれたせいでおじゃんになった。どう責任取ってくれるんだ」


 男は怒り心頭の様子だ。どうせ俺が何を言っても最後は殺すのだからここは潔くあきらめるべきだ。黙っておくことにした。


「お前を生きたまま解体してやる。手足の先からゆっくりとな」


 世の中にはどうにもならないことがある。これもそのうちの一つだ。殴り合いの喧嘩なら三人相手でなんとか勝てるかどうかだが、俺が倒れた状態からどうやって逆転できる?


 俺の人生はここで終わりなのだと思った時、ふと脳裏のよぎったのは俺の大切な存在。こんな俺に笑いかけてくれた唯一の女。今はもういないが、ここで死ねばあの世で会えるだろうか。何事もポジティブに考えるべきだ。死ぬのだって悪くないかもしれない。


「まだ死なないで!」


 この声は……あのクソギャルか。お前なんかになにができるのか、こいつは見ものだ。


 内心で嘲ると刹那、視界の隅に女が酒瓶を持って立っていた。いや、すでに振りかぶっている。そこからためらいもなく売り手の頭へ不意打ちの一撃を与え、事態は急変した。


 売り手の男は見えないところから殴られて悲鳴を上げてひるんだ。その隙に俺はそいつの両膝を蹴り、破壊する。


 俺は死なない。死ぬときは自分で死ぬ。俺にはまだやらなきゃならないことがあるんだ。放り出して死ねるか。


 残り二人の男が突然の出来事を受け入れるまで僅かながら時間が出来た。片方の男の足を引き倒し、同時に俺は立ち上がる。


 盾を持つ男が攻撃を仕掛けてきた。盾殴りをされる前に、こちらから体当たりする。それから乱暴に蹴りつけ、男は背後にあるガラス窓から落ちていった。ここが二階だとしてもその下は防犯用に先端の鋭い鉄柵がある。残酷な音が耳に入り、男はきっと安いスプラッター映画のように死んだのだろう。


 倒れた男が立ち上がる前に、俺は足元のガラス瓶を拾って寝ているそいつの頭へ叩きつける。俺の一撃は痛いぞ。瓶が割れるほどの力だ。たんこぶで済むとは思えない。そこから手あたり次第に瓶を拾って殴り続けた。十数本ほどの瓶を割ると、やがて男の頭の方が割れたようで血を噴き出してそのまま動かなくなった。ここまで瓶を放置しておいてよかった。


「恨む相手を間違えてんだろクソ野郎」


 残された売り手の男はこれまでの惨状を見て腰を抜かしていた。戦う意思は感じ取れない。そこで見逃せるならば少年漫画の主人公みたいでかっこよくて、そして反吐が出るほどに甘い。クソくらえだ。


 俺はそいつが何かを言う前に首をねじり殺した。ああ、ためらいはない。それが仕事で、ここまでが仕事だからだ。命がけの残業さ。


「うわぁ、殺しちゃったの?」


 女は口元に手を押さえてそう言った。目の前で起きたことが未だ信じられないようだ。そもそも始めたのはお前だろうが。


「あんたのおかげで俺は生きてる。命の恩人だ。俺は何をすればいい?」


 俺は恩を仇で返すことはしない。こいつに命を救われたのは事実なのだからしっかりと誠意を見せたい。


「あ、えっと、あたしを殺した人を知りたいな」

「殺しただと?」

「だって幽霊になったんだよ? きっと恨みがあるんじゃないかな」


 他人事みたいに言うんじゃない。だが女の言うことは一理ある。死んでもなおこの世に留まるなら何かしら原因があるはずだ。例え俺の頭がいかれてしまっていたとしても、それが治るならなんだってやってみせる。もしかすると女は今後の仕事にも役に立つかもしれないしな。


「それじゃあよろしくな」


 手を差し出し、女は恐る恐る俺の手を握った。女の手の感触はまるで無く、不思議な感覚だった。


「えっと、よろしく」


 こうして俺と幽霊女子高生の不思議な殺し屋生活が始まった。これからどうなるかは誰にもわからない。世の中そういうもんだろう?







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名残の花 山羊太郎 @Redemption123

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