第5話 ②
紐綴じの文献を受け取るなり、治夫は英美の体を求めた。祠の前での情交は二十分ほどで済んだ。
枝葉の間に覗くのは灰色の冷たい空だ。雑木林の中はその空よりさらに陰鬱であり、鳥のさえずりも風の音もなく、ほの暗さに満ちている。
英美はジーンズのファスナーを上げ、ブラウスのボタンを閉じた。そして、祠の陰に隠しておいた果物ナイフをそっと手にする。
――殺せ。
大いなる意思が、英美の意思と重なった。
――やるなら今だ。
白装束を纏い終えた治夫は、文献を丹念に調べている。英美の行動に気づいていない。
「おおかた、祝詞を覚えて真央の気持ちをつかもう、なんて考えていたんだろう」呆れたような声で治夫は言うが、彼の目は文献の紙面に向けられたままだ。「それにしても、順一くんを奪われた真央もかわいそうだが、順一くんも気の毒だな。おれに妻を寝取られてしまって……」
英美のナイフを握る右手が赤黒く変色し、ぶくぶくと膨れ上がった。
「ねえ、石原のおじさん」
普段の呼び方で声をかけた。
「ん?」
治夫が顔を向けた直後に、彼の左胸をナイフで突き刺した。
ただの果物ナイフが、肋骨を砕いた。その切っ先が、さらに奥へと進む。
英美の力もナイフの強度も、今は山神のものだった。
「英美ちゃん……何を……」
目を剝いた治夫が、文献を足元に落とし、英美の肩にすがりついた。
「復讐よ」
冷たく答え、治夫を突き飛ばした。
落ち葉を散らして仰向けに倒れる白装束姿が、滑稽だった。
鮮血のしたたる凶器を握ったまま、自分の右手を見た。腫れはすでに引いており、肌の色も元に戻っている。
英美はため息をつくと、左手で文献を拾い上げ、集落の方向にほうり投げた。雑木林の下生えに落ちたそれは、英美にはもう必要のないものだ。
仰向けの治夫を一瞥し、飛火石山の頂上へと至る登山道を歩き出した。
落ち葉を踏み締める足がわずかに重かった。ジーンズの固さもうっとうしい。なのに、右手に持つ血まみれの果物ナイフはやけに軽く、爽快さを与えてくれる。
治夫のうめき声が聞こえた。
英美は立ち止まり、おもむろに振り向いた。
小刻みに震えながら、治夫が這いつくばっていた。胸元は赤くぬれており、白髪交じりの髪は乱れ放題だ。両手で落ち葉と土をかきむしり、憎悪の目で英美を見上げている。
「あ……あう……」治夫は息も絶え絶えだった。「こんなことをして……ただでは済まされ……ない……」
英美はきびすを返して治夫に近づいた。
――早く死んでよ。
薄汚れた運動靴で、白装束の脇腹を思いきり蹴った。
「うっ」と声を漏らした治夫は、身を丸めるなり沈黙した。
焦燥も高揚もない。怠慢があるだけだ。
「あなたたちが敬ってやまないあれは、もうとっくに来ているのよ。残念だけど、あれはあなたたちの味方なんかじゃないわ」
粛正のときが来たのだ。
英美は背を向け、頂上を目指して歩き出した。
雅彦は言う。
「山神は男と交わりたかったんだ。治夫さんの脅しは、山神にとっても好都合だったわけさ。もしくは、そうなるよう、治夫さんが山神に導かれていたのかもしれない」
へたり込んだままの英美が、両耳を塞いでいた左右の手を地べたに落とした。
「二十七年も前ならば、治夫さんがおれの父親だ、なんてことは時期的にありえないね。それにもし治夫さんが父親だったら、おれは真央さんの弟であり、唯さんのおじさんだ」
噴き出しそうになった。自分の話が面白かったのではない。英美を蔑むこと自体が愉悦なのである。
「治夫さんを殺害した母さんは、そのままこの場所に来ると、神木の前で祈った。集落の全体に復讐するためにね。女性がこの山を登るのは本来なら禁忌破りだけど、山神と一体化している母さんだから平気だった。それに、山神もたくさんの生け贄を得ることができるんだし、母さんの行動が拒まれるわけがない」
英美は反応しなかった。打ちひしがれているようである。
「母さんの願いは受け入れられた。数分と経たないうちに、大規模な土砂崩れが集落を襲ったんだ。祠のすぐ前から崩れた地面が山津波となり、治夫さんの遺体と文献を飲み込み、集落の家々を押し流し、多くの住人や母さんの両親まで殺した。……父さんと真央さんは、母さんの計らいで集落の外にいたから難を逃れた。というより、母さんは復讐を終わらせるつもりはなかったんだよね。だから、二人を生かしておいたんだ」
ふと、雅彦を拘束する二本の腕が抜けた。
鈍い音がした。
振り向くと有野が仰向けに倒れていた。白目を剝いて口から泡を吹いているが、息はある。
かまわず、雅彦は英美に向き直った。
「母さんと父さんは火守里で落ち合い、東京湾を望む房総の地に移り住んだ。そして母さんは、真央さんが火守里の知人宅に身を寄せている、ということを知り、真央さんに電話した」
真央は復讐の対象に違いないが、彼女が暗い生活を送っていないか、英美は気になっていたのだ。たった一度の電話だったが、無論、順一には悟られぬように配慮した。
「会って話がしたい、と伝えたけど、真央さんは母さんに会うことを拒んだ」
拒まれた英美は、再熱しかけていた情愛を、惜しみつつも切り捨てた。そして、復讐を継続したのである。
「自分が山神に頼んで土砂崩れを起こしてもらった、だなんて言われたら普通は引くけど、真央さんは宮司の娘だ。集落の壊滅は自分がもくろんだことなのだ、と母さんが伝えると、真央さんはすんなりと理解してくれた。それが母さんには、面白くなかったんだよね。復讐の一環として言ったのに、真央さんに動じる気配がなかったんだから」
雅彦が英美から受け継いだ記憶は「復讐」という言葉で埋められていた。その事実に今さら気づく自分が、情けなかった。
「復讐を続けるために、母さんはさらに明かしたんだ。……自分が治夫さんを殺したんだ、とね。もっとも、治夫さんとの肉体関係があったことは伏せていた。それだけは知られたくなかったんだ。知られたら、淫売婦として見下されてしまう。復讐の対象である真央さんに負けたくなかった……というより、好きだった人に軽蔑されるのが怖かったんだ。殺人犯として見られるのは、平気なのにさ」
「復讐」という言葉が何度も雅彦の脳裏を駆け巡った。しかし考えてみれば、「復讐」というよりは「言いがかり」なのだろう。
くだらない――と思えた。
少しだけ熱さが冷めた、そんな気がした。
「でも、真央さんは母さんを責めなかった。自分は誰にも言わないから、もうあんな恐ろしいことはしないで……母さんにそう訴えたんだ。それからの母さんは、慎ましく、静かに、真面目に生きてきた。でなければ、今後の人生が破綻してしまう。やっと、そう気づいたんだ」
英美に取り憑いた禍々しいものは、飛火石の集落の壊滅以来、なりを潜めていた。順一と英美は、何ごともなかったかのように移住地での生活を営んだのである。
だが英美は、順一との生活に幸福を感じていたのではない。順一と真央が他人同士となっている現状にひたすら喜びを感じていたのだ。そんな英美の心情など、順一は知る由もなかっただろう。
「おれにわかるのは、ここまでだ」
つまり、雅彦は英美のそこまでの記憶を受け継いで生まれた、というわけだ。もっとも、何ゆえに雅彦が英美から記憶を受け継いだのかは、謎のままである。山神が英美の中に残ったままだったのか、どこかへ去ってまた戻ってきたのか、それも雅彦は知らない。
ともあれ、受け継いだ記憶はすべて吐露した。
一息ついた瞬間、とてつもない脱力感に襲われた。その場に倒れそうになるが、両足で踏ん張り、必死に体勢を維持する。
そして、飛火石山の頂上まで来た自分に違和感を覚えた。成り行きに任せてもよかったではないか、と思う自分がここにいる。先ほどまでの威勢のよさがうそのようだ。
「ううう……」
うめき声が聞こえた。女の声だ。
見れば、目を閉じたままの唯が、つらそうに顔をしかめている。
――生きている!
脱力感に浸っている場合ではない。発憤した雅彦は、へたり込んだままの英美を一瞥し、唯の元へと走った。
「唯さん!」
膝を突いて声をかけると、唯の目がうっすらと開いた。
「大谷さん……」
形のよい唇から、かすれた声が漏れた。
「もう大丈夫だ。真央さんが……君のお母さんが下で待っている。さあ、一緒に行こう」
雅彦はそう言って唯の上半身を優しく抱き起こした。
額の傷は痛々しいが思ったほどは深くなさそうだ。それでも、起こしたせいかじわじわと血がにじみ始める。
雅彦はミリタリージャケットを脱いでそれを唯の肩に羽織らせると、自らのロングTシャツの左袖を肩の縫い目で一気に裂いた。そして、裂いた袖を包帯代わりにして彼女の頭に巻きつけ、血の流れた跡を自分のハンカチでぬぐった。
うつむき加減だった顔が、ようやく雅彦に向けられた。何度かまばたきを繰り返したのち、へたり込んでいる英美と仰向けの有野とを交互に見る。
「英美さん……それに、あの人は?」
「おれの友人だ」
「行方がわからなくなった人ですか? 有野さん?」
「ああ、そうだよ」
「英美さんと有野さんは、その……どうして動かないんですか?」
最悪の事態が頭に浮かんだらしい。
「二人とも生きているよ」
雅彦が答えると唯は安堵の色を見せた。しかしそれも束の間のことで、彼女はすぐに顔を曇らせてしまう。
「有野さんは、わたしのことを探っていたんでしたね。藤田さんが雅彦さんの交友関係を探っていたように」
「真央さんは有野が行方知れずと知っていたようだけど」
「体調不良で会社を休んでいたわたしに、職場の上司から電話があったんです。有野という人が君のことを探り回っているから気をつけろ、って」
その上司は、有野は坂井の高校生時代の後輩である、ということを聞きつけたらしく、それも唯に伝えてくれたという。唯と真央は手分けして有野の身辺を調査した。そして、雅彦や早苗との繫がりに至ったわけである。
「実は、わたしが上司から電話をもらったのと同じ日に、お母さんに電話があったんです。お母さんの高校生時代の友人……女性からでした」
それが英美ではないことは、言うまでもないだろう。
唯は続ける。
「やはり、用件は有野さんのことでした。有野という人が真央さんの経歴を調べているから気をつけたほうがいい、とお母さんに警告してくれたんです。その人は有野さんに何も教えなかったとのことでしたが、有野さんはすでにお母さんの出身地を知っていたそうなんです」
唯はそこで言葉を切り、深呼吸をした。
そのタイミングで、雅彦は仰向けの有野に目を向ける。
「なんてばかなことを」
友人を弁護する言葉が一言も思いつかない。
「それで」唯は再び言葉を紡いだ。「おそらく有野さんは飛火石へ向かうだろう、とお母さんは推測したんです。そのうえでお母さんは、坂井さんを通じて有野さんを止めなさい、とわたしを諭しました。でもわたしは、そのあとのお母さんの話を聞いて、おじけづいてしまったんです」
早苗を殺害した犯人は英美かもしれない、と唯は真央から告げられたという。真央や英美の過去の詳細を聞いたわけではないらしいが、事件にかかわることを避けたくなるのも無理はないだろう。
「見かねたお母さんが、なんとかしようとしてくれました。ですが、わたしと同じ会社でも他部署である坂井さんにお母さんが連絡するのは、あまりに不自然です。そこでお母さんは、手を尽くして有野さんの職場の電話番号を調べ上げて、そこに電話してくれたんです。でも、有野さんは仕事を休んでいるとのことでした」
電話口に出たのは有野の上司だったらしい。有野の上司は機嫌が悪そうで、やけになったためか、真央からの電話の直前にも有野の友人を名乗る男から電話があった、ということをほのめかしたという。そして真央は、その「友人を名乗る男」が雅彦であると目星をつけたのだ。
「お母さんは、有野さんが飛火石へ行ったのは間違いないし、大谷さんも有野さんのあとを追って飛火石へ行くだろう……と考えたんです」
「すごいな……」
感心している場合ではないが、サスペンスドラマの種明かしのシーンを見たような気がするのは否めない。
いずれにしても、有野の執拗さに当惑してしまう。雅彦の交友関係を探っていた早苗も、有野と同様に執拗がすぎたわけだ。友人である二人が揃いも揃って他人の事情を掘り起こし、事件を複雑にしていたのだから、やるせないとしか言いようがない。
「とにかく」唯は言った。「わたしは、大谷さんや藤田さんのことまで調べてしまったんです。大谷さんに宿った不可解な記憶の内容を大谷さんから聞き出しましたが、それだけじゃなかった、ということです。自分が探られるのは不愉快だったのに……本当にすみませんでした」
力なくうなだれた唯は、しおれた百合の花のようだった。
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