第5話 ③
考えてみれば、有野と早苗だけではなく、真央も英美も唯も雅彦自身も、それぞれがそれぞれの立場で他人の事情を探っていたのだ。その品性のなさに真っ先に気づいたのは、やはり唯なのかもしれない。
「それはお互い様だよ。おれも反省しなくちゃいけない」雅彦はそう伝えると、表情を引き締めた。「それより、君は早く真央さんのところへ戻ったほうがいい」
「戻るって……そういえば、ここはどこなんですか?」
尋ねた唯が辺りを見回した。
「飛火石山の頂上だ」
「頂上……ということは、神域!」
目を見開いた唯が、注連縄が巻いてあるクヌギに目を向け、息を吞んだ。しかし、神域にいることを憂慮してもしかたがない。まずはここを立ち去るべきである。
「立てるか?」
「はい」
答えた唯に雅彦は左手を差し伸べた。
「さあ、つかまって」
唯の右手が雅彦の左手を取った。
ともに立ち上がったところで、雅彦は再度、尋ねる。
「下まで歩けそうか?」
「大丈夫だと思います。でも、このまま手を握っていてくれますか?」
心細いのだろう。唯は雅彦の反応をじっと窺った。
「もちろんだとも」
雅彦の承諾を受けた唯が視線を。落とした
「あの、この袖……すみませんでした」
「君は謝ってばかりだな」こんな状況でなければ、雅彦はきっと笑っただろう。「気にしないでいいよ」
「英美さんと有野さんは、どうするんです?」
尋ねられた雅彦は、思うままに答える。
「ほうっておこう。君を真央さんのところへ連れていったら、そのあとでおれがまたここに来る」
英美と有野はどちらも危険である――とは、あえて口にしなかった。雅彦も今の今まで狂気に駆られていたのだ。そんな自分を棚に上げるなど、とてもできない。
いずれにせよ、冷静に判断が下せるのだから本来の自分に戻っているはずだ。唯が死んでいると早合点したのも、英美を殺そうとしたのも、英美の人格から来るあの「熱さ」が影響していたようである。英美から受け継いだ記憶に介在していた「山神の意思」に刺激された、という可能性も否めない。もっとも、さらなる往復に雅彦自身の体力が持つかどうかは無策のままだった。
唯が英美と有野を一顧した。
「でも、本当にいいんですか?」
念を押された雅彦は、迷わずに頷く。
「大丈夫だよ」
「なら、いいんですが」
「さあ、行こう」
促すと、思いのほかしっかりとした足取りで唯は歩き出した。
ともあれ、唯の安全を確保することが優先だ。彼女は怪我をしているのだから、先を急ぐのは当然である。
「あの……」唯が周囲に目を配った。「金子さんの姿が見えませんが」
金子の身を案じるというよりは、彼を忌避しているらしい。
「祠の前で英美さんに切りつけられて、それからのことを覚えていないんです」
唯のそんな言葉を受け、雅彦は煩悶した。ならば唯は、金子の最期を知らなくて当然だろう。しかし登山道を戻れば、すぐにあの現場に差しかかってしまう。
どう答えてよいのかわからないまま、雅彦は英美の前で足を止めた。
「大谷さん?」
唯が雅彦の顔を覗いた。
「これを預かっておくんだ」
左手で唯の右手を握ったまま、空いている右手でナイフを拾った。自分の腰にブレードバックを当てて折りたたんだそのナイフを、カーゴパンツの太もものポケットに収める。
「ふっ」とため息をついた雅彦は、英美の今後と自分の今後について考えた。英美が有罪の判決を受けるのは疑う余地がない。そして雅彦は、加害者家族として好奇の目にさらされるだろう。少なくとも、目の前の未来は明るくない。それを乗り越えるにはどうすればよいのか、そしてさらには、英美に対する気持ちをどのように整理すればよいのか――思慮を巡らせるが、答えは一向に出なかった。
かぶりを振って「行こう」と言った雅彦は、歩き出そうとした。
「ここはどこだ……」
声がした。
握り合った唯の手に力が入る。
二人揃って振り向けば、有野が上半身を起こしてこめかみを押さえていた。
また襲われるかもしれない。雅彦は有野の出方を待った。
「え……なんで?」有野は雅彦に目を向け、こめかみを押さえる手を下ろした。「大谷じゃないか……それに隣にいるのは……まさか、沢口さん?」
「正気に戻ったようだな」
雅彦が愁眉を開くと、一方の有野は眉を寄せた。
「正気……って、どういうことなんだよ? おれは確か、何かに追われて、飛火石山の林の中を走っていたんだけど……ここは?」
「その飛火石山だよ。飛火石山の頂上だ」
雅彦は答えた。
「頂上? いつの間に……っていうか、どうして大谷と沢口さんがここにいるんだ? しかも、手なんか繫いだりして」
冷やかしでないのは理解できた。
繫いだ手を見下ろし、顔を上げた。
唯と目が合った。
双方に恥じらいはない。
握り合う互いの手にさらに力が入った。
雅彦は有野に向けて言う。
「今はこの手を離すわけにはいかない。諸々のことは、あとで話そう」
「そう……なのか」
得心がいった様子ではないが、それ以上の詮索はなかった。
「おい」有野は英美に目を留めた。「あの人は?」
「あの人のことは、そっとしておいてくれ。とりあえず、いったん山を下りよう。話は歩きながらでもできる」
金子の死体の前でも説明を求められるはずだ。そのときも答えを先延ばしにするしかない、と覚悟する。
「何を言ってんだよ。あの人、具合でも悪いんじゃないのか?」
へたり込んでいる英美を見ながら、有野は立ち上がった。
雅彦も自分の母に目を投じる。
放心したようにうつむいている彼女だが、口を動かして何やらつぶやいていた。
「とにかく、今はおれの言うとおりにしてくれ、有野。あの人は、あとでおれが連れていくから」
有野にさえ英美を任せるわけにはいかなかった。雅彦はそれほどまでに、英美は危険である、と認識していた。
雅彦の訴えに渋面を呈する有野は、雅彦の「おれの母親だ!」という叫びを覚えていないようだ。とはいえ、このうらぶれた女は雅彦の母である、と知れば、彼女を置いていくことに意見するだろう。そればかりか強引に連れていこうとするかもしれない。
顔を雅彦に向けた唯が、そっと頷いた。趣旨を読んでくれたらしい。
「しゅ……ぐらす……」英美のつぶやきが耳に届いた。「いあ……ぶ……にぐ……」
正気を失ったのだろうか。あまりにも哀れな姿だ。たった今まで自分が殺意を向けていた相手、とは思えない。やはり英美は自分の母なのだ。
「何が起きたのかよくわからないけど、大谷の言うことを聞くよ」
有野は心細そうに言った。英美の様子にただならぬ気配を感じたらしい。そして彼は、唯に目を向ける。
「沢口さんもどうかしたのか? 頭に布切れなんか巻いて」
唯に代わって雅彦が答える。
「怪我をしているんだ。だから早く山を下りたいんだよ」
「そうなのか……だから大谷の袖がないんだな。わかった、急ごう」
三人は揃って先へ進み出した。
「いあ! いあ! いあああ!」
それは絶叫だった。
三人とも同時に足を止めた。そして全員が振り向いた。
英美がへたり込んだまま顔を空に向けている。
唯の震えが、繫いだ手を通じて雅彦に伝わった。
「母さん」
つい、口走ってしまった。
「母さん?」目を丸くした有野が雅彦を見る。「おまえのおふくろさんなのか?」
「有野、頼むから母さんに近づかないでくれ。おれの母さんは危険なんだ」
懇願した。これ以上の犠牲は出したくない。
だが、有野は首を横に振った。
「意味がわからないぞ」
「そうよね。あたしが危険だなんて、意味がわからないわよね」
こちらに顔を向けた英美が、暗い笑顔を見せた。
「うあああああああああ!」
すぐそばで声が上がった。男の声だ。
雅彦は目を配るが、唯はもちろんのこと、有野にも声を上げた様子はない。むしろ、二人とも雅彦と同様に驚愕している。
「今の、耳元で聞こえたぞ」
有野は言った。
「ああああああ!」
再び声が上がった。
雅彦が困惑していると、有野が自分の背中に両手を回してもがき始めた。
「有野?」
「背中がもぞもぞするというか……何かがくっついているんだ。大谷、ちょっと見てくれないか」
有野が雅彦と唯に背中を見せた。
「きゃあああ!」
今度ばかりは唯が悲鳴を上げた。
雅彦は叫びこそしなかったものの、声を吞んでのけぞってしまう。
有野の背中に金子が背中合わせの状態でへばりついていた。しかも金子は潰れたままであり、下半身がない。
「うわあああ!」
平べったい顔が三度目の叫びを上げた。
「大谷、おれの背中をよく見てくれよ。おれの背中はどうなっているんだ? ちゃんと説明してくれよ」
わめきつつ、有野は背中を近づけてきた。
金子の頭部から脳が飛び出していた。左の眼球はどこかに置いてきたらしい。彼の上半身の下部から三十センチほど垂れ下がっている内臓が、ゆらゆらと揺れている。
「いやあああ!」
唯が顔を背けた。
何かが雅彦の中で弾けた。それは英美から受け継いだ記憶による作用ではなく、雅彦本来の意思による反応だった。
唯の右手を引き、雅彦は走り出した。
「おい大谷、待ってくれ!」
友人の悲痛な声を耳にし、雅彦は走りながら振り向いた。
こちらに向かって走り出したばかりの有野が、足を滑らせ、仰向けに転倒した。
「げぼっ」
その声が有野のものなのか金子のものなのか、雅彦は判別できなかった。
転倒した有野の向こうで、へたり込んだままの英美がこちらに笑顔を向けていた。
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