第5話 ①
頂上と思われる場所にたどり着いた。前方に雑木林はあるが、下生えに覆われた地面を見る限り、それより先は下り斜面だ。左右はススキと雑草の群れに囲まれており、中央の直径三十メートルほどは土が剝き出しである。
雑木林の手前に、木立から離れて一本のクヌギがあった。幹の直径は五十センチほどであり、樹高は十五メートル弱だ。幹の地上から一メートルばかりの辺りに薄汚れた注連縄が巻いてあった。
雅彦はクヌギの前で立ち止まった。
間違いなく、今朝の夢で見た場所だ。それどころか、訪れたことがあるような気がしてならない。
向かって左の景色に目を投じた。方角としては西だろう。茂みの先にはどこまでも連なる山並みばかりがあり、地平はほんのりと霞んでいた。この方角の視界に人工物は一つも認めることができない。
その反対の東を見てもやはり似たような風景である。しかし茂みの手前には、英美が立っていた。その瞬間まで、雅彦は英美の存在に気づいていなかった。
ためらいを隠せない雅彦に向かって、無表情の英美が口を開く。
「ばかねえ。やっぱり来ちゃったんだ」
「母さんや唯さんを、ほうっておくわけには――」
言いかけて言葉を吞み込んだ。
英美の足元で仰向けに倒れているのは、紛れもなく唯だ。両目を閉じたままの彼女は微動だにしない。それどころか、その額が髪の生え際から眉の辺りにかけて無残に切り裂かれているではないか。血の固まりが傷口にこびりついており、傷口から顎にかけていく筋かの血の流れた跡が残っていた。
「唯さんに手をかけたのか!」
唯と英美を救うために息を荒らげながら登山道を上ってきたのだ。それなのにこんな光景を見せつけられてしまうとは――。
「だって、生け贄だもの」
英美は薄ら笑いを浮かべた。右手に提げるナイフが赤く染まっている。
「それに」英美は言った。「きれいな女性はここの神様に嫌われるのよ。こうやって醜くしてから神域に連れ込まないと、あたしまで大変な目に遭っちゃう」
「生け贄だなんて……母さん、どうかしているぞ。金子さんも生け贄にしたっていうことかよ」
どのような手段を用いたのかは謎だが、金子の死に英美が関与していることは訊くまでもない。
「あの人は生け贄なんかじゃないわ。子種はきちんといただいたから、もう用済みだったのよ」
支離滅裂だった。意味を追求しようとするが、英美は話を続ける。
「ぼろぼろで下僕としても使いものにならないんだってさ。神様がそう言ったのよ。だから踏みつけてやったの」
「踏みつけてやった? 誰が踏みつけたって?」
「あたしがよ……あれ? 神様かな?」英美は笑みを浮かべたまま眉を寄せていた。狂気じみた表情だ。「ええと、どっちだったかしらねえ。とにかく、唯さんは生け贄で、金子さんは用済みなのよ」
「何を言っているんだ……」
英美の話は理解しがたいが、いずれにしても、生け贄だの用済みだのと、人の命を奪う理由ではない。
雅彦の中で落胆が怒りに転じていた。人の命を粗末にした者に生きる資格はない。それが道理というものだ。だから自分は、英美の命を奪わなければならない。不意に湧いたこの殺意は本来の自分のものなのか、自分の中に入り込んだ別人格のものなのか、もうわからないし、どちらでもよいことだった。
自分の矛盾を強引に正当化した雅彦は、英美に飛びかかろうとした。
しかし、何者かによって背後から左右の腋に二本の腕を通され、一瞬で身動きを封じられてしまった。これもまた夢と重なる流れではないか――。
「藤田さんにちょっかいを出すな!」
金子の声ではない。だが、聞き覚えのある声だ。
肩越しに見えたのは肉塊ではなく、血走った目を剝き出している有野だった。有野は雅彦のうなじで左右の手を強固に組んでいた。
「有野!」
有野の両腕を振り払おうとしてもがくが、鋼の腕を相手にしているかのごとく小揺るぎもしない。
「離せ有野! あれは藤田さんなんかじゃない! おれの母親だ!」
「おまえも藤田さんに気があるのか? ふざけんなよ。おれは大学生のときから藤田さんのことが好きだったんだ。それなのにあんな金子みたいなやつと恋人同士だなんて……そんなの許せるかよ! 藤田さんにちょっかいを出すおまえのことも、許すもんか!」
有野が早苗に恋心を抱いていたとは、雅彦でさえ気づかなかった。だが、知ったことではない。雅彦は自分の憤激のままに動かなければならないのだ。
「おれはなあ、今から自分の母親を殺さなきゃならないんだよ」
そう吐き捨て、英美を睨んだ。
「なんなの……あたしを殺すだなんて」
英美の顔から薄ら笑いが消えた。鬼女のごとく、眉を吊り上げ、目を見開き、口を引きつらせている。
「順一さんは若くして逝ってしまったけど、あたしは頑張ったわ。あなたには不自由させなかったはずよ。それなのに、自分の母親を殺めるだなんて。そんなことを言うような人間に育てた覚えはないわ」
「おれは正しい! 間違ったことなんて言っていない!」
自分の母を貶めることに罪悪感はなかった。長年に渡って息子を欺いていた女は、息子の手によって成敗されなければならないのだ。
「だったら、いいわよ」ナイフの切っ先が雅彦に向いた。「殺される前に殺してやるわ。母親のこの手で、情けない息子を殺してやる」
英美はそう宣告すると、雅彦に向かってゆっくりと歩いてきた。
「おれは殺される側じゃない! 殺す側だ!」
何度ももがいたが、有野の腕は雅彦を離さない。
――これじゃ夢のとおりになってしまう。
事実、英美の右手に異変があった。ブラウスの袖から出ている部分が、赤黒くにじみ始めている。
「おれたちの恋の邪魔をするからいけないんだ」有野が言った。「おまえは殺される側なんだよ。藤田さんに殺されるんだ」
「藤田さんはもういないんだ! あれはおれの母親なんだって!」
「諦めなさい!」
英美が声を上げた。
鋭い刃が陽光を反射する。
――殺されてたまるか。
そのナイフは自分にこそふさわしい。
赤黒く膨れ上がった手でそれを握らなければならない。
不意に、雅彦の脳裏に順一の顔が浮かんだ。笑顔だったり、寂しそうな表情だったり、怒りを表していたり。どれもが在りし日の父である。
雅彦は悟った。それらは、雅彦のよく知っている人物が、己の目で見て己の脳裏に焼きつけた記憶である――と。
その人物が見たこと、聞いたこと、感じたこと、それら蓄積された情報が、次々と脳裏になだれ込んできた。
飛火石の山並み――。
飛火石の集落――。
高校の入学式――。
教室と校庭――。
寄り添う恋人同士――。
傷心――。
憤懣――。
怨嗟――。
復讐――。
復讐、復讐――。
復讐、復讐、復讐――。
復讐、復讐、復讐、復讐――。
復讐、復讐、復讐、復讐、復讐――。
復讐、復讐、復讐、復讐、復讐、復讐――。
ほんの一瞬が永劫の時間にも感じられた。悲哀が強烈な憎悪へと転じ、やがて一人の人間の過去が明らかとなる。
「やっとわかったよ」近づいてくる英美に向かって雅彦は言った。「この記憶を誰からもらったのか」
「ふん。自分の父親からもらった記憶だということを、ようやく受け入れたのね」
英美は呆れ顔で返すと、雅彦の目の前で立ち止まった。
「違う。おれを悩ませたこの記憶は、母さんからもらったものだ」
「あなたのお父さんからもらった記憶でしょう」
嘲りを包含した反駁だった。
「唯さんに初めて会ったとき、おれの脳裏に、さっきの場所……谷を見通せるあの崖っぷちに立つ若い頃の真央さんの姿が浮かんだんだ」
「雅彦の脳裏に浮かんだ場所って、あそこだったのね。なるほど、順一さんはあそこで真央さんと会ったことがあるみたいだし」
英美は得心した様子だった。
「母さんが唯さんと車で乗りつける少し前に、おれは真央さんから話を聞いた。真央さんはあの場所でおれの父さんに別れを告げたらしいね。だから、母さんからではなく、父さんから記憶を受け継いでいたとしても……真央さんが父さんに別れを告げる場面が、おれの中にあったかもしれない」
雅彦の言葉に英美は首を傾げる。
「受け継いでいたとしても? 受け継いでいたとしても、じゃなくて、受け継いでいるのよ、順一さんからね」
その目には息子に対する愛情など微塵も浮かんでいなかった。もっとも、英美も雅彦の目に同じ色を感じているのかもしれない。
「いいや。真央さんが父さんに別れを告げたとき、その場に母さんもいたんだ。今になってようやく、真央さんの前に立つ父さんの後ろ姿が見えたんだ。……考えてごらんよ。父さんの後ろ姿を父さん本人が見られるわけがないだろう。この様子を見ていたのは父さんじゃない、っていうことだよ」
とたんに、英美の顔から覇気が抜けた。
「真央さんに言い含められたんでしょう? そうよ。そうに違いない」
「じゃあ、真央さんの知り得ないことを言えば、納得するのかな?」
「真央さんの知り得ないこと、ってどんなこと?」
その声には焦燥が潜んでいた。
「おれの中にあるそれらの記憶……母さんから受け継いだ記憶は、たぶん、母さんの高校生時代からおれが生まれる直前にかけてのものだ。だからそれ以前とそれ以降に母さんが記憶したことについては、おれにはわからない。でも、おれの中にあるこの記憶でわかる限りでは、母さんはそれを誰にも打ち明けていない。なら、受け継いだ記憶では知り得ない期間……つまり、おれにはわからない期間、に母さんが誰かに伝えていなければ……そのことは母さんしか知らないことになる」
ナイフの切っ先は雅彦に向いたままだった。しかし陽光を反射するそれは、がたがたと震えている。そして、右手の赤黒いにじみがすっかり消えていた。
「母さんは父さんを愛していなかった」
雅彦が言うと、英美は一歩、あとずさった。
「うそばっかり……そんなの、うそよ」
「うそじゃないさ。だって、母さんが愛していたのは、真央さんだったからね」
これだけでも打ちのめしてやった気分だった。
「でたらめだわ。雅彦の作り話よ」
かぶりを振りつつ、英美はさらにあとずさった。
「母さんは真央さんへの思いを秘匿していた。誰にも言えなかったんだ。自分の周囲の大人たちは、古い考えに固執する者ばかりだった。そんな集落だったし、時代的にもそうだった。同性愛が成就するはずがない」
「やめなさい……」
ナイフばかりでなく、声までもが震えていた。
それでも雅彦は続ける。
「そのうえ真央さんは、大谷順一……おれの父さんと恋人同士になった。真央さんを取られて、母さんは父さんに嫉妬したんだ。だから、二人の仲を引き裂こうと思ったんだ。復讐しようとしたんだよ」
「やめなさいってば」
「復讐を果たすためには、山神の力が必要だった。だから、山神の祝詞を記した文献を石原家から盗み出した」
「やめて」
「あの祠の前までなら神域の外だからね。毎晩のように祠の前で祈りを捧げたんだ。おかげで母さんは、山神に降りてもらえた。つまり、山神に取り憑かれたわけだ」
赤黒く膨れ上がった右手が、雅彦の脳裏に浮かんだ。
「山神に取り憑かれた母さんは、真央さんを脅した……あたしの愛する順一さんと別れろ、とね。そうしないと真央さんも順一さんも二人の家族もみんな殺してやる、山神の災いがある、って言ってさ」
ナイフを握った醜い右手が、若き日の真央の正面にあった。
「逆らえるわけがないよね。あんな醜悪なものを見せられたらさ」
若き日の真央が諦念の色を浮かべていた。
「だから真央さんは、脅されたことを隠したまま、父さんに別れを告げたんだ。そう、あの場所でね。母さんがすぐそばの木の陰でこっそり見ていたことを、父さんは気づかなかったに違いない。でも、監視していることをあらかじめ伝えられていた真央さんは、終始、苦しそうだった。……苦しそうな表情で……哀愁を湛えた瞳で、父さんの肩越しに、木陰に潜む母さんを見つめていたんだ」
「本当にやめて」
英美は哀願し、その場にへたり込んだ。
「二人の仲を引き裂いた母さんだったけど、まだ足りなかったんだよね。復讐を続けるために、失恋で落ち込んでいる父さんに言い寄り、父さんの気持ちを惹き、付き合い、結婚までした。父さんを言いくるめて、付き合い始めて二カ月も経たないうちに結婚したんだ。時期を置かずに結婚に持ち込めば、より大きな精神的ダメージを、真央さんに与えることができるからね。もちろん、母さんが真央さんを愛していた、という事実は父さんにも真央さんにも隠したままさ。でも一人だけ、母さんの真央さんに対する思いに気づいた人がいた」
「もうやめて」
か細い声で訴えた英美が、へたり込んだまま力なくうなだれた。
だが、雅彦は容赦しない。
「真央さんの父親だよ。石原
「お願い……」
「治夫さんは母さんを脅したんだ。……うちの娘に変な気を抱いていることも、文献を盗んだことも、全部わかっている。それを広められたくなかったら、英美ちゃん、おれの女になれ……ってね」
「いやよ」
「治夫さんに脅されたことで、母さんの怒りは再熱した。以前の悲しみやつらさが蘇った。集落のみんなが、憎く思えた。腹を決めた母さんは、二十七年前の初冬のあの日、父さんと真央さんを別々の場所に呼び出しておいた」
「いやっ」
ナイフが地面に落ちた。英美は両耳を塞いでいる。
「そのうえで、治夫さんを飛火石山の祠の前に誘ったんだ。自分のこの体を自由にしてかまわない、文献もそこで返すから、と言ってね。そして、祠の前で治夫さんを待っていた母さんは、のこのことやってきた治夫さんを油断させるために……治夫さんを確実に仕留めるために、山神に言われるまま、その祠の前で治夫さんに自分の体を差し出した。母さんは新婚早々で不貞を働いたんだ」
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