第4話 ③

 黄緑色の巨大な何かがこちらに向かってゆっくりと近づいてきた。逆三角形の頭部に顔の半分ほどもある楕円形でまぶたのない双眼、額に生えた一対の細い触覚……何より特徴的なのは、両手のぎざぎざとした鎌である。全身をゆらゆらと左右に揺らしながら、そいつが目と鼻の先に迫っていた。

 雅彦は上半身を起こした。

 体長十センチ弱のカマキリが雅彦をじっと見上げていた。

 後頭部に痛みがあった。顔をゆがめ、カマキリから目を逸らす。

「大丈夫?」

 真央の声だ。雅彦のすぐ横で彼女が右膝を立てて座っていた。彼女の帽子とリュックが傍らに置いてある。

「真央さん……」

 初めて名前で呼んだ。違和感はなかった。

 そんなことより、真央の怪我である。

「真央さんこそ、その足……」

「歩くのはちょっと無理みたい。骨は折れていないと思うけれど」

 よほどつらいのか、真央の顔は引きつっていた。

「なんてことだ」

 自分の後頭部の痛みも気になるが、真央の右足の怪我のほうが重そうだ。

 雅彦は周囲を見回した。軽ワンボックス車は沈黙したままだが、唯や英美、金子ら、三人の姿が見えない。

「三人は?」

「飛火石山の登山道を頂上へ向かっていったわ」

 真央は答えた。

 ならば追わなければなるまい。

 雅彦は立ち上がろうとした。しかし後頭部に痛みが走り、上げかけた腰を落としてしまう。

「無理はしないで」

 いたわってくれるのはありがたいが、あの三人をほうっておくわけにはいかない。

「おれの母さんは、いったい何をしようとしているんですか? 唯さんをどうしようとしているんです?」

「またあれを……」

「あれ、って?」

 雅彦は答えを促すが、真央は苦虫を嚙み潰したような顔で首を横に振った。

「真央さん……」

 もう一度、答えを求めようとした。しかし、懊悩を振り払おうとする真央の表情を見て、雅彦は言葉を吞んでしまう。

 ふと、真央はうつむいた。

「唯と一緒に来るべきだったわ。あとから店の車で来て、だなんて頼んだのが間違いだったのね。唯はたぶん、店で待機しているところを襲われたんだわ」

「もしかして、唯さんとおれがここで……飛火石で会うように、というお膳立てだったんですか?」

「そうよ。さっきも言ったけれど、ここまでの道中で雅彦さんに警戒心を抱かせたくなかったの」

「そのための時間差?」

 雅彦が問うと真央は頷いて顔を上げた。

「あらかじめ、唯から雅彦さんの様子を聞いていたわ。そしてわたしなりに推測したの。英美さんが思い当たったことと同じだけれど、雅彦さんには順一さんから受け継いだ記憶がある、とね。それがどういった現象なのかわたしにはわからないけれど、受け継いだ記憶の中にまだ眠っている部分があるのなら、それを蘇らせることができるのなら、雑念は少なければ少ないほうがいい、と思ったのよ」

「受け継いだ記憶を蘇らせることって、そんなに重要なんですか?」

 真央や唯に利がある、とはとても思えなかった。

「ええ、そうよ。英美さんの心の底に何があるのか、どうすれば英美さんの怒りを鎮められるのか……そういったわたしの知らない部分がわかるかもしれない。あれの力を使わせずに済むかもしれない」

「あれの力?」

 理解できず、雅彦は眉を寄せた。

「とにかく」真央は登山道の先に顔を向けた。「英美さんは知っていたんだわ。わたしたち親子が飛火石で雅彦さんに会おうとしていたことを。というより、雅彦さんが有野さんの行方を追って飛火石へ向かう、ということ自体を把握していた」

 ならば、先ほどの英美からの電話は、飛火石へと向かう雅彦の様子を探るためのものだったのだろう。

「認めたくはないけど、それ以外に考えられませんね」

 雅彦はそう言うと、スマートフォンを取り出した。

「まさか、警察に通報するの?」

「当然でしょう。母さんが何をしようとしているのかわかりませんが、唯さんが危険にさらされていることは事実なんですよ」

「わたしは英美さんを説得したかったの。自首するように、とね」

「無理だったんですよ。母さんは異常です。金子さんだって、あんな様子だし」

 英美に罪を重ねさせないためにも、英美が殺人犯であるということを、雅彦は認めざるをえなかった。とはいえ、自分一人では手に負えないことも、わかりきっている。この後頭部の痛みでは三人を追うにしても走れそうにないし、目の前のワンボックス車が使いものにならないのは一目瞭然だ。

「これが母さんを救うことにもなるんです」

 断言した雅彦は、スマートフォンを操作しかけて、その手を止めた。

「雅彦さん?」

 不審そうに声をかけてきた真央に、雅彦は目を向ける。

「電源が入らないんです。充電しておいたのに……というか、買ったばかりの、まだ一カ月目のスマホなんですよ」

 啞然とする雅彦の正面で真央が眉を寄せた。

「もしかして」そして彼女は、リュックから取り出した自分のスマートフォンに目をやった。「そういうことなのね」

 ため息をついた真央に雅彦は問う。

「まさか、真央さんのスマホも?」

「どうやら、邪魔はさせないつもりらしいわ」

 これも何かのトリックに違いない。真央は超常現象とでも考えているようだが、惑わされていては英美の思うつぼである。

「真央さん、どうやら自分たちだけで決着をつけなければならないようです。おれは三人を追います」

 雅彦は今度こそ立ち上がった。後頭部の痛みをなんとかこらえる。

「雅彦さん、あなたは怪我をしているのよ。あの人たちを追うなんて、できるはずがないでしょう」

 そう指摘され、改めて怪我の具合が気になった。片手でそっとふれてみる。多少は腫れているものの、出血はない。

「唯さんを助けます」

 スマートフォンをカーゴパンツのポケットに戻し、ゆっくりと首を巡らせてみた。痛みは我慢できそうだ。全速力で走るのは無理だが、歩くだけなら支障はないだろう。

 足元のカマキリが草むらに向かって走り出したのを契機に、雅彦は足を踏み出した。

「雅彦さん」

 雅彦の背中に真央の声がすがった。

「唯さんが危険なんですよ」

 振り向かず、歩きながら言った。

「その道をしばらく進むと祠があるわ。そこを過ぎれば、神の領域……神域に入ってしまうのよ」

「神域?」

 心臓を突かれた気がした。足を止めて振り向く。

「飛火石山は女人禁制。あの人たちがその先に足を踏み入れていたら、大変なことになるわ。そのときは諦めて、すぐに戻っていらっしゃい」

 切迫した表情だった。しかし、迷信に惑わされている場合ではない。

「いい加減にしてください!」

 強い口調でそう告げ、歩き出した。

「雅彦さん……」と真央のか細い声がなおも追いすがるが、雅彦は振り向かなかった。


 活発なこの自分は本来の大谷雅彦ではない。自分の中に別の誰かが入り込み、その誰かの人格に影響されて本来の自分を見失っている――そんな感じだった。

 はたしてこの人格は父、順一のものなのだろうか。真央も英美もそうと受け取っているが、だとすれば、雅彦は順一の人間性を誤認していたことになる。

「この人格が誰のものにせよ、変わったのはおれだけじゃない」

 雑木林の中の緩い坂道を上りながら、雅彦は独りごちた。もし英美が近くにいるのなら、聞いてもらいたいくらいである。

「母さんだって変わってしまったじゃないか。藤田さんを殺したんだぞ。そのうえ、唯さんを脅して連れ去った」

 そして口を結ぶ。煩わしさを押しのけて憤りが湧き上がってきた。

 後頭部の痛みがわずかだが和らいでいた。歩調は自ずと上がった。

 進行方向に対して斜面が左から右へと落ち込んでいた。その斜面に、木々がへばりつくように生えている。

 登山道の表面は黒土だった。ほんのりと湿り気がある。よく見ればいくつかの靴跡があり、どれもが頂上方面へと向かっていた。

 やがて登山道は平坦になり、空が開けた。土砂崩れ跡の上端に出たらしい。雑草に覆われた斜面が道の右端から下のほうへと続いており、左を見上げれば、クヌギと思われる樹木を始めとして様々な木々が急勾配の雑木林を成形している。進行方向に視線を戻すと、侵入者に眺望を許さぬかのごとく、登山道は再び雑木林に飲み込まれていた。雑木林が途切れているのはこのおよそ五十メートルの間だけだ。

 土砂崩れ跡の上端を歩きながら、雑草だらけの斜面を見下ろした。真央とともに歩いた先ほどの道が、真下にあった。つまりあの道の下が、飛火石の集落があった場所ということになる。

 その風景からやや振り向くように視線をずらすと、先ほどの高台があった。荘厳な谷も手前の辺りだけが垣間見える。もっとも、真央の姿や軽ワンボックス車は、木々に遮られて見ることができない。

 荘厳な谷はわずかしか見えないが、標高を上げたおかげか谷の向こうの山並みは遠くまで見渡せた。写真を撮るなら間違いなく絶景ポイントの一つに挙がるだろう。とはいえ、すでに偽装としてさえレンズを向ける必要はなくなっている。しかも、カメラの入ったショルダーバッグは高台にほうり出したままだ。

 ふと、神域があることを思い出した。進行方向の道沿いに目を走らせると、すぐ目の前の左側に木製の小さな祠があった。

「これか」

 雅彦は祠の前で足を止めた。

 雑草に半ば埋もれている祠は雅彦の胸ほどの高さであり、正面の扉は開いていた。屋根や壁は、至る所が腐食している。

 神体らしきものは見当たらない。代わりに、陶器の皿が一枚、祠の中にぽつんと置いてあった。皿の上に載っているのは体長約二十センチの干からびた魚が一匹だけだ。二、三匹の蠅がたかっており、ほのかに生臭い。供物は深海魚のようだが種類までは特定できなかった。

 この先が神域なのだろう。英美たち三人はすでに神域に入っているらしい。真央の言葉が正しければ、手遅れというわけである。

「だからって、ここで諦めるのはおかしいだろう」

 そう吐き捨てた雅彦は、足元を見下ろして思わず目を凝らした。

 地面に染みがあった。なんらかの液体らしいが、コップ一杯ぶんほどの量だろうか。さらには小さないくつもの染みが、複数の靴跡とともに道の先へ点々と続いている。黒土の上であるため見極めは困難だが、雅彦にはそれら染みのすべてが赤黒く思えた。

 ――血痕?

 足を止めていてはいけない、と気づき、祠を背にして先へと走り出した。無論、和らいだとはいえ後頭部の痛みはまだ残っている。早歩き程度の速度が限界だった。

 登山道はすぐに雑木林へと突入した。背の低い下生えが張り出しているため道幅はやや狭くなったが、二人が横に並んだとしてもまだ余裕がある。

 神域に入ったはずだが特に変わった様子はない――そう思ったときだった。

 コオロギらしき虫たちが一斉に鳴き出した。十匹や二十匹では済まないだろう。

 息を吞みつつも足は止めなかった。

 かまびすしい鳴き声が、すっと遠ざかった。雅彦の走りに先行して鳴き声が先へ先へと進んでいく。虫自体が鳴きながら移動しているのか、伝言ゲームのごとく先のほうにいる虫たちが鳴き声を受け継いでいるのか、わからない。

 鳴き声が雑木林の奥へと消えた。聞こえるのは雅彦自身の息遣いと、トレッキングシューズが立てる弱々しい音だけだ。

 ――人が近づいたら、大概の虫は逃げることはあっても鳴き続けることはないよな?

 コオロギかほかの虫か雅彦にはわからないが、彼らの習性を考察しても事態は解決しない。考えるより、足を進めなければならないのだ。

 染みと靴跡はまだ続いていた。

 止まらずに靴跡を確認した。三足ぶんはある。ほかの登山者の靴跡かもしれないが、唯が無事という可能性もあるわけだ。

 ――諦めてはいけない。

 雅彦は速度を上げた。

 登山道は再び、緩い傾斜の上りとなった。


 雑木林の斜面を斜めに上っていた登山道は、いつしか斜面に対して垂直方向に延びていた。多少の蛇行はあるが、山の傾斜が道の傾斜でもあるということだ。このきつい傾斜のせいで足の運びが徐々に鈍くなった。

 雅彦は息を荒らげていた。速度が大幅に落ちている。これでは、早歩きにさえ届かないただの歩行だ。

 歩きながら見下ろした。染みはもう見えないが靴跡に異変があった。三足ぶんのうちの一足ぶんが、これまでとは違った形になっている。

 その靴跡が変化した位置を確認するべく、足を止めて振り向いた。しかし、新たにつけられた雅彦自身の靴跡が三足ぶんの靴跡を踏み消すかのごとくよたよたと蛇行しており、雑駁な状態だった。

 正面に顔を戻し、足を踏み出した。

 ――だまされないぞ。

 そして、もう一度、足元を見下ろす。

 形の変化した靴跡は左右ともつま先が二つに分かれていた。ソールパターンはそれ自体が存在していないらしい。この異様な靴跡といい、先の虫の鳴き声といい、精神的に落とし込むための罠としか思えなかった。

 ――全部、トリックなんだ。

 舌打ちをしつつ坂を上った。

 雑木林の中で徐々に標高が増していった。眺望は利かないが、山歩きの経験の少ない雅彦にもそれは実感できた。

 不意に、冷たいものが背筋を襲った。尋常でないものを地面に見たような気がした。

 おもむろに見下ろした雅彦は、思わず足を止めた。

 先割れの靴跡が先ほどよりも大きくなっているのだ。縦の寸法が四十センチはある。しかも靴跡が一足ぶん、減っているではないか。振り向くが、どこでこの状態になったのか、やはり確認できない。

 道端のどこかに唯が倒れているのでは、という勘ぐりはすぐに払拭した。登山道の両側の下生えはそれほど密に茂っているわけではない。いくら心身が疲れきっていようと、人が倒れていればすぐに気づくはずだ。

 雅彦は頂上を目指してよろよろと歩き出した。

 そしてそこから五十メートルも進むと、先割れの靴跡は一メートル前後のサイズとなっていた。その靴跡のへこみは、もう一足ぶんの靴跡のものと比較して倍ほども深い。うかうかするとそのへこみに足を取られそうになるほどだ。左右の間隔は一メートル以上はあり、歩幅に至っては二メートル近くもある。どう考えても靴跡などではない。巨大な蹄、という印象だ。

 精神的に落とし込むための罠だとすれば突飛すぎる。冗談もよいところだ。

 むしろ、早苗の死からここに至るまでのすべてが稚拙な冗談のような気がしてならなかった。


 雅彦は雑木林を抜けた。どれほど歩いたのか、わからない。

 灌木やススキが茂っていた。風はなく、地面に根を張るものは皆、沈黙している。

 前方を見上げれば、緩やかな傾斜で左右から立ち上がる稜線が、青空に接するかのごとく交わっている。そこへ向かってこの登山道がわずかに蛇行していた。

 登山道の表面は乾いていた。雅彦のぶんも含め、靴跡はもう判別できない。

 片や蹄の跡はさらに巨大化しており、乾いた地面に十センチほどもめり込んでいた。差し渡しは雅彦の背丈と互角だろう。一対のそれぞれは登山道の両端からはみ出しており、ススキの群れを踏み潰している。歩幅もそれに準じて大きくなっているようだが、その距離を目測できるほどの精神的な余裕はすでになかった。

 まもなく頂上にたどり着くだろう。だが、心構えなどできていない。どのような事態が待ち受けているのか、何もわからないのだ。

 息が切れそうだった。

 このまま倒れてしまえばどれほど楽だろうか。

 どうして自分はこうまでして飛火石山の頂上へ行かねばならないのか。

 責任か――いや、違う。

 義務――それも違う。

 ――どうでもいい!

 唯と英美を救い出すことに理由はいらない。

 雅彦は自分を取り戻した。止まりかけた足を前に出す。

 前方の地面に何かが見えた。道の右端だ。巨大なへこみの中に――蹄の跡の中に、何かが横たわっている。

 それのすぐ手前で足を止めた雅彦は、現状を認識するのに五秒ほどを費やした。

 金子だった。否、金子だったものだ。

「なんてことだ」

 どうにか出せた言葉だった。

 仰向けの金子は、顔も胴ものっぺりと横に広がっていた。左右の足も付け根の位置が外側にずれており、広がった股間から内臓が排泄物のごとく飛び出している――というより、排泄されるはずだったものも飛び出していた。そしてそれらのすべてが、巨大なへこみの底にめり込んでいた。左右の半開きのまぶたの中には眼球が飛び出さずに残っているが、表情はない。死の瞬間、金子は何を思ったのか、雅彦は想像だにできなかった。

 この惨状を見て逃げ出しても、誰にも咎められないはずだ。むしろ、先へ突き進もうとすれば、愚者である、と蔑視されるだろう。

 雅彦は愚者であることを選択した。こんなに巨大な蹄を持つ生物の存在などとても信じられないし、たとえそれが実在していようと、唯と英美を救い出す、という決意は変わらない。冷静な自分と熱い自分とが渾然一体となっていた。

 金子の遺体を避けて、雅彦は登山道を進んだ。

 巨大なへこみが続いていたのは金子の死体の位置までだった。

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