第4話 ②
三十秒ほど経っただろうか。
「理不尽よ」英美は顔を上げて口を開いた。「あたしばかりが惨めな思いをしたわ。あたしのうちは飛火石では最も貧しかった。両親は揃って頑固者。そんな両親のせいで、あたしは誰にも相手にされなかった」
他人を妬むような母ではなかったはずだ。しかし目の前にいる英美は、雅彦の知らない闇の側面を剝き出しにしている。
「あなたは恵まれていたわよね、石原真央さん……いえ、沢口真央さん」
英美は真央に目を向けた。
「その姓で呼んでくれたのは、初めてね」
真央がそう返すと英美は目を細めた。
「知ったのは最近よ。雅彦の交友関係を探り回っている藤田さんという人がいたから、逆にその藤田さんの交友関係を調べてやったわ。そうしたら、沢口唯さんの名前が挙がって、その唯さんの母親が経営するガラドリエルというお店を知ることになったのよ。ネットのオフィシャルサイトで沢口真央という名前を見て、すぐにぴんと来たわ」
「隠しきれるものじゃない、ということね。……ええ、確かにわたしは、英美さんから逃げていた」
「そう、そのおかげで、真央さんがお店をやっていることを、あたしはずっと知らないでいた。一方で真央さんは、以前からあたしの住所を把握していた。順一さんが他界したときは、一年後だったけど、香典を送ってくれたじゃない。でも、送り主の住所は、すでに存在していない住所……あなたの実家の住所だったわ。そして名前も、石原真央のままだった」
「だからって、英美さんを監視していたわけじゃないのよ。事実、順一さんの訃報を知ったのは、一年後だもの」
「そうよね、真央さんは他人の生活を監視するような人じゃないわ。だからこそ……飛火石での毎日があたしにとってどれだけつらかったか、あなたにはわからないのよ。わかるはずがない」
その言葉を受け、真央は悄然とする
「そうね……英美さんの言うとおりだわ。雅彦さんにも言ったけれど、わたしは本当に気が利かないのね」
「石原家は飛火石でも屈指の豪家だったわ」英美は言った。「真央さんの父親は飛火石神社の宮司で、みんなから尊敬されていたし、母親は気立てがよくて誰からも好かれていた。美人で明るい真央さんだって人気者だったわ。あたしだって美人に生まれたかった。裕福な家に生まれたかった。みんなと仲よくしたかった」
大粒の涙が英美の頬をこぼれ落ちた。
小さな集落とはいえそれなりの格差はあったのだろう。そのうえ、多感な時期を惨めな思いで過ごしていたのだ。確かに不憫ではある。しかし、背徳な行為は許されるはずがない。
雅彦は悟った。記憶の中であの果物ナイフを握っていたのは、この状況と同様、英美だったのだ――と。
「母さん」たまらず、口を開いてしまった。「昔もナイフを人に向けたよね? 誰を脅したんだよ? 真央さん? それとも、父さん?」
「どうして雅彦が……」目を丸くした英美が、すぐに真央に視線を移した。「あなたが言ったんでしょう?」
信じてもらえるか否かわからないが、ここで打ち明けなければならないだろう。雅彦は思いきって言う。
「違うよ。二週間前から、おれの頭の中に、おれの知るはずのない光景が浮かんでいるんだ。山を背にして立つ若い頃の真央さんや、石原真央というフルネームまで」
明らかに言葉足らずだ。これでは信じてもらえるわけがない。
案の定、雅彦に視線を戻した英美が、疑わしそうに眉を寄せる。
「変な取り繕いはやめてよ」
「うそではありません」唯が言った。「大谷さんは……雅彦さんは、初めて会ったわたしを、石原真央と呼びました。このわたしを、わたしのお母さんと見間違えたんです」
「あなたは黙りなさい!」
英美は声を荒らげた。
「黙りません。だって、雅彦さんは石原真央の顔と名前を知っていても、その人物がどこの誰なのか、わからなかったんですよ。なら、雅彦さんが真相を知りたいと思うのは、当然じゃないですか。わたしがちゃんと説明していれば……雅彦さんにも藤田さんにもちゃんと話しておけば、こんなことにはならなかったんです」
今の唯をさいなんでいるのは、自分の窮地ではなく、悔恨なのだ。しかし雅彦は、彼女に非はないと思った。状況に流されてしまっただけなのだ。
唯はなおも続ける。
「藤田さんが雅彦さんの交友関係をあちこちで尋ね回っていたのを、わたしは止められなかった。藤田さんの探偵ごっこは倫理的にいけないことだとわかっていたのに……そのまま見過ごすとよくないことが起きそうな気がしていたのに……楽しそうに調べている藤田さんに、何も言えなかった。余計なことを言ってしまったら藤田さんに嫌われてしまう、そう思った。内向的なわたしにいつも優しくしてくれる藤田さんに、嫌われたくなかった。それに……それに……藤田さんが殺されたあとは、事件にかかわりたくなくて、雅彦さんを避けてしまった。だから、こんなことに……」
唯が涙声で訴えると、すでに涙の乾きつつある英美が、すっと表情を和らげた。
「そうか……順一さんだわ。順一さんが持っていたはずの記憶……そういうことだったのね」
英美のその言葉に対して真央は静かに頷いた。
――父さんが持っていたはずの記憶?
話が理解できず、雅彦は眉を寄せた。
「それが藤田さんの好奇心を煽ったのよ」英美は言った。「雅彦が唯さんを石原真央という名で呼んだ……だからそのわけを知りたかった藤田さんは、雅彦の中学生時代のクラスメートに会ってまで雅彦の交友関係を調べていたのね」
「おれの中学生時代の?」
初めて聞いた話だ。雅彦は詳細を尋ねようとするが、その前に英美が言う。
「雅彦のお友達の佐々木くんから電話があったのよ。雅彦本人には言わない、って藤田さんと約束したらしいけど、何があったのか不安だったみたい。それであたしに相談してきたのよ」
「それがきっかけで、英美さんは藤田さんの行動を知ったのね」
真央がそう言うと、自由にならない首で、唯がわずかに頷いた。
「藤田さんは事件の前週の木曜日に休暇を取りました。そして雅彦さんの故郷まで出向いて、雅彦さんの交友関係を調べたんです」
「佐々木くんがあたしに訊いたのよ」英美は話を再開した。「石原真央という女の人が雅彦の知り合いにいないか、ってね。佐々木くんには、気にしないでほっときなさい、って伝えたけど、あたしの心境は穏やかでなかったわ」
「まさか」否定してほしいと願いながら、雅彦は尋ねる。「藤田さんを殺したのって、母さん?」
「ええ。あたしが殺したわ」
英美の顔に狂気が蘇った。
「そんな」
願いはかなわなかった。これではすべてを受け入れられるはずがない。
「あの頃の悲しさや悔しさをほじくり返されるなんて、とても耐えられないもの。でもね、藤田さんを殺したら、気持ちが楽になったのよ。そればかりか、体の随から力が湧き出てくるような、そんな感覚を味わったわ」
狂気の中に笑みがあった。恍惚とした表情にも窺える。そして「そうね、久しぶりの感覚だったわ」と付け加えた。
「久しぶり?」
雅彦は疑念を呈したが、英美はそれに応じず、唯のこめかみに突きつけているナイフを揺らした。
「藤田さんを刺したナイフが、これよ。きれいに洗っておいたけど、また汚してしまうかもね」
「母さん、もうこんなことはやめろよ。早く沢口さんを自由にしろよ。……藤田さんを殺したのが母さんであるはずがない。母さんが殺人犯だなんて、おれは認めたくない」
そして雅彦は、歯を食い縛った。英美はたった一人の肉親なのだ。こんな悪夢のような話を受け入れたら、もう何も信じられなくなってしまうではないか。
「認めなさいよ。そして、さっさと受け入れなさいよ」
英美は言い放った。
受け入れてしまえば自分の母を憎むことになる。自分のこれまでの何もかもが意味をなくしてしまうだろう。
「ふん、認められなくても、事実は変わらないわ」そして英美は、真央を見た。「順一さんの持っていた記憶が雅彦に移ってしまったことがいけないのよ。……そう、こんな呪いをかけた人のせいよね。全部、石原のおじさん……真央さんの父親のせいだわ」
「それは英美さんの思い違いよ。わたしの父は呪いなんて――」
「違わない!」英美は真央の言葉を遮った。「雅彦は順一さんから記憶を受け継いでしまったのよ。これが呪いならば、説明がつくわ。真央さんの父親が……あの宮司が、雅彦をここに導いたのよ。あたしを破滅させるためにね」
聞けば聞くほどわけがわからなくなってしまう。だが、すべてを受け入れられなくても唯を救わなければならない。雅彦は正面から英美を見つめた。
「母さんは精神的に追いつめられてこんな行動を取ったんだ。それだけわかれば十分だよ。とにかく、沢口さんを離してくれよ」
「だめよ。だって、雅彦はすべてを受け入れていない」
英美は首を横に振った。
「沢口さんを解放してくれたら、素直に東京に戻るから」
力を込めて訴えた。
しかし英美は、首を縦に振るどころか口を引きつらせている。
「そんなに唯さんが愛しいの? あなたたち二人は愛し合っているの? いつからそうなったのよ?」
「母さん、おれたちはそんな関係じゃないよ」
「あなたたち二人は、あの頃の順一さんと真央さんにそっくりなのよ! 顔も声も、何もかもがね! そんなの、あたしは認めない!」
興奮するあまり、唯の首に回している左腕に力が入ったようだ。唯が白目を剝いている。
もはや猶予はなかった。ナイフを握る手に素早く飛びつく以外に手立てはない。
「きゃっ!」
雅彦の横で声が上がったのは、そのときだった。
バイザー突きの帽子が地面に落ちた。
真央が右足の脛を両手で押さえて倒れており、片膝立ちの金子が、太い枝を右手に持っていた。
「早苗の望みだ……叩いて……殴るんだ……」
金子の声を聞きながら、雅彦は英美に視線を戻した。そして英美の左腕が緩んだのを、見逃さなかった。
英美に飛びつこうとした雅彦は、自分の横に金子が立っていることに気づいた。
同時に、後頭部に激痛が走り、視界は闇に閉ざされた。
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