第4話 ①
カーゴパンツが汚れるのもかまわず、雅彦は高台の雑草の上であぐらをかいていた。真央が口をつぐんでから三十分は経過している。雅彦はその間、一度だけ傍らの茂みで小用を足したが、真央は依然として谷に向かって立ち尽くしていた。
真央が腕時計を見た。
「遅いわね」
そして彼女は、ようやくこちらに正面を向けた。不安げな面持ちだった。
空腹を感じた雅彦も、自分の腕時計で時刻を確かめる。正午を四十三分、過ぎていた。
暑くはないが日差しがまぶしい。帽子を持参しなかったことを後悔しながら、道端の小さな木陰に移動しようと腰を上げた。
そのときだった。
遠くから音が聞こえてきた。タイヤが大地を蹴る音と、排気音だ。
真央が東のほうへとこうべを巡らせた。
「来たようよ」
安堵の声だった。
これで事態が進展するはずだが、雅彦にはぬぐいきれない懸念があった。この女、石原真央は、早苗の殺害に関与している可能性があるのだ。ならば、証言してくれるという人物も、同様に事件にかかわっている可能性がある。
ナイフと赤黒く膨れ上がった右手が脳裏に浮かび、雅彦は自ずと身構えた。
一台の車が火守里の方角から走ってきた。白い軽ワンボックス車だ。
出迎えるつもりらしく、真央が林道の中央へと歩み出た――が、軽ワンボックス車に減速する気配はなかった。
雅彦はとっさに真央の腕を引いた。
二人の目の前を猛スピードで横切った軽ワンボックス車が、十数メートル先で急停止した。小石が跳ね、土煙がもうもうと立つ。
「どうしたっていうの?」
真央が驚愕の目を土煙へと向けた。
不意に、軽ワンボックス車がバックした。またしても尋常でない速度である。
つかんでいた真央の腕をさらに引き寄せた雅彦は、彼女とともに草地へと倒れ込んだ。
二人が立っていた位置を通り過ぎた軽ワンボックス車は、再度急停止し、今度は前へと急発進して右に向きを変えた。
「そっちはだめ!」雅彦の手を振り払って真央は立ち上がった。「止まりなさい! 止まるのよユイ!」
「ユイ?」
雅彦も立ち上がった。
飛火石山の頂上へと至る道に猛スピードで突っ込んだ軽ワンボックス車が、右カーブを伴う緩い傾斜の上りに差しかかった。車一台ぶんほどの道幅はあったが、いかんせん凹凸の激しい道である。派手に跳ねた軽ワンボックス車はカーブを曲がり損ね、大きな杉の図太い幹に正面から激突して動きを止めた。
「ユイ!」
真央が走り出した。
遅れて走り出した雅彦は、ばたつくショルダーバッグをほうり出し、真央を追い抜いて彼女より先に軽ワンボックス車にたどり着いた。
軽ワンボックス車は左のヘッドライトが割れていた。フロントガラスに至っては全面にひびが走っている。しかも、大木に激突しただけでなく、大きな石に車体の底が乗り上げてしまい、リアタイヤは左右とも宙に浮いていた。
焦燥を抑え、運転席側の「ガラドリエル」と記されてあるドアを開けようと、ドアノブに手をかけた。
ドアガラスに日光が反射しており、中の様子は窺えなかった。だが、唯の顔ばかりが脳裏に浮かび、確認もせずに「沢口さん!」と叫んだ。
力を入れるまでもなく、ドアのほうから開いてくれた。
「あんた――」と声を吞み込んだ雅彦は、ドアノブから手を離し、あとずさった。
そんな雅彦に並んだ真央が、運転席から降りてきた人物を凝視する。
「あなた、誰?」真央は声を震わせた。「まさか、金子さん?」
「はは……ははは」
運転席から降りた男、金子信也が、ドアも閉じずにほうけたように笑った。
開いたままのドアの奥を真央が覗いた。助手席の様子を確かめているらしい。
雅彦も金子の肩越しに目を投じるが、ひしゃげた助手席に人の姿はなかった。左右の席ともエアバッグが膨らんでいる。
「あなたは金子さんでしょっ!」真央は叫び、金子のスーツの襟を両手でぐいと締め上げた。「金子さんよね! テレビのニュースで写真を見たからわかるわよ! どうしてあなたがこの車に乗っているのよ! ユイはどうしちゃったの!」
真央を豹変させるほどの予想外の事態らしい。
「ははは……あんた誰だよ……おれはあんたなんか知らない」
襟を締め上げられたまま、金子はへらへらとした態度を見せた。
そんな金子を真央は激しく揺さぶる。
「わたしは、ユイの母親よ!」
ユイ――すなわち、沢口唯のことなのだろう。だとすれば、沢口唯と若き日の石原真央が瓜二つであるのも頷ける。
自分はどういった行動を起こすべきなのか――雅彦は考えた。真央に代わって自分が金子を締め上げたい、という気持ちはある。それどころか、殴り倒したいほどなのだ。もっとも、このままではらちが明かない。とりあえずは真央を落ち着かせるべきだろう。
修羅場に割って入ろうとした雅彦は、ふと、気づいた。やはり日光が反射しており、はっきりとは確認できないが、スモークガラス越しの後部座席に人影らしきものが動いている。
そして、助手席の後ろのドアが開いた。
「真央さん、やめなさい!」
車体の向こう側に降りた何者かが声を上げた。女の声だ。その何者かが軽ワンボックス車の後ろを回ってこちら側に姿を現す。
「どういうことなんだよ」目の前に立った新たなる二人を見て、雅彦は愕然とした。「なんで母さんが……」
雅彦の母、大谷英美だった。そしてもう一人は、沢口唯である。
「英美さん……」
啞然とした様子でつぶやいた真央が、金子の襟を解放した。とたんに金子は、その場にへたり込む。
自分の母と石原真央が既知の間柄であることは驚愕すべき事実だが、雅彦をさらに翻弄させたのは、後部座席から降りてきた二人のそのありさまだった。
ブラウスにチノパンというよそ行き姿の英美は、唯を自分の前に立たせており、左腕を唯の首に回していた。そればかりか、英美は右手に握る折りたたみ果物ナイフで唯のこめかみをじっと狙っているのだ。
そんな窮地に立たされている唯は、苦悶の表情で口を結んでいた。髪は出会ったときと同じポニーテールにしてあるが、そのポニーテールや脚線美をあらわにしたジーンズが、がたがたと震えている。そして、ニットカーディガンの下の胸が激しく上下していた。緊迫した状況がこれ以上続けば彼女の精神は崩壊してしまうのではないか――そう取れるほどの怯えようだ。
唯も英美もアクティブな装いであり、取るものも取りあえず来た、というよりは、それぞれが飛火石での行動を意図していた、と見るのが正しいのかもしれない。いずれにしても、唯が自分の意図に反する成り行きに見舞われたのは事実だろう。
「真央さんも雅彦も、そこを動かないで」
興奮ぎみに威嚇する英美をよく見れば、デートに備えたかのような入念なメイクが施されているではないか。そんな顔つきとこの振る舞いが相まって、普段の「大谷英美」は微塵も感じられなかった。
「やめろよ母さん!」
真央と唯が雅彦にとって忌むべき存在なのか否か、自宅にいるはずの英美が何ゆえここにいるのか、それらの疑問は湧いたとたんに失せてしまった。今はただ、母の凶行を阻止することしか考えられない。
「やめるわけにはいかない。雅彦がここに来てしまったんだもの」
「何を言っているのか、わけがわからないよ」
雅彦はそう訴え、近づこうとした。しかし、ナイフの切っ先が唯のこめかみにふれそうになる。
「それ以上近づくと、この子のかわいい顔が化け物のようになってしまうわよ」
聞き慣れているはずなのに、まるで別人の声のように思えた。
「わかったわ、英美さん。あなたの望みを聞きましょう」
落ち着いた声で真央はそう告げた。先ほどまでの興奮がうそのようである。
「もう手遅れよ」英美は激憤を呈した。「雅彦は飛火石に来ちゃったじゃない。真央さんが連れてきたんでしょう? 全部あなたの手はずなんだわ。何もかも終わり。だったら、みんなめちゃくちゃにしてやる」
真央の鎮めたぶんの怒りが英美に移ったかのようだった。
「違うんだ母さん。おれはただ友達を捜しに――」
「雅彦に何がわかるっていうの!」
英美の言葉どおりである。雅彦はまだ何もわかっていない。知ろうとしていたところなのだ。
「英美さんがちゃんと説明すれば、雅彦さんはわかってくれるはずよ」
そう諭した真央を、英美は睨む。
「あなただってわかっていないんでしょう? あたしの本当の気持ちを。あたしがどんな思いで生きてきたかを」
「ええ、そうよ。だからわたしも、英美さんの説明が聞きたいの」
しかし、英美は首を横に振る。
「手遅れだって言っているでしょう!」
「英美さんが暴挙に出れば、雅彦さんが不幸になるの。母親なら、それくらいわかるはずよ。母親が自分の子供の前で罪を犯すなんて、あってはならない」
自分の娘の安全を第一に考えての台詞なのだろうが、事態の打開には有効かもしれない。
「そんなの、きれいごとだわ」
戸惑いの表情の中で瞳が落ち着きなく動いていた。唯の震えに同調するかのごとく、英美のナイフも小刻みに震えている。
「なら、わたしの知っている範囲だけでも、雅彦さんに説明しましょうか?」
真央が申し出たが、英美は首を横に振った。
「真央さんの都合のいいように話してもらっては困るわ。それに真央さんは、すべてを知っているわけじゃないんだから」
「英美さんの言うとおり、わたしはすべてを知っているわけではない」
真央は肯定した。
覚悟を決めたように、英美は頷く。
「なら、いいわよ。あたしが話す。でも、まだ唯さんを解放するわけにはいかない。雅彦が、おとなしく東京へ帰ってくれる、と約束してくれたら……雅彦がすべてを受け入れてくれたら、唯さんを離してあげるわ」
「わかったわ」真央は静かに承諾し、続けて言う。「唯、少しの辛抱よ」
締めつけられた首で小さく頷いた唯が、怯える瞳を雅彦に向けた。
重圧が雅彦にのしかかった。こちらの反応次第で英美が過ちを犯すかもしれないのである。無論、唯にナイフを突きつけているこの時点で十分に犯罪と言えるのだろうが。
「昔、ここに飛火石という集落があったわ」
人質を拘束したまま英美は話し始めた。
二十七年前に大規模な土砂崩れがあったこと、七十六人の住人が命を落としたこと、生き延びた者の中に順一と真央がいたこと。それらは真央から聞いた話と一致した。
だが、生き延びた者の名前が一人ぶん、追加された。
「母さんも飛火石の出身……」
またしても偽造が露見したわけだ。
「おいそれと足を運べない北海道を出身地にしておけば真実が発覚することはない、と思ったわ。親戚付き合いなんて皆無、ということにもしておいたし。あたしと順一さんはどちらも火守里に親族がいたけど、みんな、今頃はどうしているのか。会ってみたい、なんてこれっぽっちも思わないけど」
親戚付き合いがないのは、雅彦の知る限り事実だ。無論、作為的に付き合いを絶っていたなど、初耳である。これまでは火守里という土地を知らなかったのだから、そこに住まう親族の存在も聞き及ばなくて当然だ。戸籍偽造は闇業者に依頼したと思われるが、英美はそれにふれず、話を進める。
「順一さんと真央さんは、高校生のときから恋人同士だった」
それもすでに聞いている。だが雅彦は、順一と英美との間に生まれたのだ。悲痛な話になるのは予想できた。
「でも、あたしも順一さんが好きだった。どうしても諦めきれなかった。それなのに、飛火石の集落の誰もが順一さんと真央さんの仲を認めていたわ。仲むつまじい二人と、恋かなわぬ一人が、同じ集落にいたわけよ。順一さんと真央さんとあたし、三人とも同い年で同じ高校にかよっていたから……火守里にあった学校でも四六時中見せつけられて、とても惨めだった」
そこで声を詰まらせた英美は、唇を嚙み締め、足元の地面に視線を落とした。
雅彦は次の言葉を待った。せかせば英美を刺激することになるだろう。黙している真央もその危険性を承知しているようだ。
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