第3話 ④

 左右に杉林が接近していた。その林道を雅彦と女は並んで歩いた。

 たわいない世間話が女の身の上話へと移った。女は都内の外れでブティックを経営しているという。

「店員は女の子が二人だけ。小さなお店よ。よかったら、彼女を連れて遊びに来てね」

 店の名前は「ガラドリエル」というらしい。

「彼女はいないんです」

 正直に伝えた。

「まあ、ごめんなさい。わたしったら、さっきから気が利かなくて。こんなんで店長だなんて、本当におこがましいわよね」

 語尾のトーンがかなり落ち込んでいた。少なくとも社交辞令ではなさそうだ。

「いいんですよ。気にしないでください」

 一方の雅彦はへつらっているだけだ。

 女はこのまま身の上話を続けるのだろうか。女の近況を聞かされようと聞かされまいとどちらでもかまわないが、こちらの素性は知られたくない。「ところで、あなたは?」などと尋ねられる前に話を逸らすのが賢明だろう。

「地図上では、飛火石の北側に飛火石山ってありますが」地図に表示されていた山を思い出し、新たな話題とした。「さっきあなたが口にした飛火石山が、それですよね?」

「ええ。飛火石山は飛火石の北にあるわ」

「登山者は結構いるんですか?」

「そうねえ、いるにはいるんでしょうけれど、そんなに多くはないんじゃないかしら。何せ、女人禁制の山だし」

「女人禁制?」

 自分で口にしたその言葉に威圧的な響きを感じた。

「そんなしきたりを守る信仰が、飛火石の集落にあったのよ。あの信仰は集落が壊滅するとともになくなってしまったけれど、今でも、気にする人は気にするんでしょうね。わたしだってあの山に登ったことはないわ。気にするうちの一人っていうわけ」

 そう言って女は肩をすくめた。

 飛火石に住んでいたことのあるこの女ならば、仲居が話してくれた「独自の信仰」とやらを知っていて当然だ。

「なんだか怖そうな山ですね」

 とりあえず苦笑しておいた。飛火石の信仰は初めて知った、と装うのが無難だろう。もっとも、女人禁制のしきたりを知ったのは今が初めてである。

「あなたは男性ですもの、気にしなくてもいいわよ。山神やまがみ様……がみ様は許してくれるはずだわ」

「女神……女性の神様なんですね」

 人間の女に嫉妬する女神を畏れての女人禁制――そんなタブーの伝わる山が日本全国にあるということを、何かの本で読んだことがあった。飛火石の信仰も似たようなものなのかもしれない。とにかく、その女神たる存在が、仲居の話に登場した「得体の知れない神様」と想像できた。

「絶景を撮るんだったら、むしろ登ってみたほうがいいんじゃないかしら。頂上は展望が利くらしいわよ」

 不意打ちのような提案だった。

「もしかして、おれ一人で登れ、と?」

「だって女人禁制だもの。今は存在しない信仰だけれど、わたしは気にしているから。ごめんなさいね」

 女は笑った。

「じゃあ、飛火石に着いてから考えてみます」

 そうは言ってみたものの、飛火石山も捜索の範囲に入れるべきだろう。時間に余裕がなくて登れない場合は、明日も遠征すればよいだけだ。

 小さな辻に差しかかった。獣道のような細い道がこの林道と交差している。左の小道は下り斜面の下のほうへ、右の小道はさらなる高所へ、と延びていた。どちらの小道もすぐに杉林に飲み込まれている。

 既視感に誘われ、雅彦は左右の小道に目を走らせた。

 女と目が合った。

 気まずさに耐えられず、視線を逸らす。

「これは登山道じゃないわよ。集落のあったところまで行かないと」

 女はこともなげに言った。

「はい……でも、飛火石山を登るかどうかは、まだ考え中です」

 笑ってごまかすより手立てはなかった。

「そうだったわね」

 女も笑った。

 さらにしばらく歩くと、向かって左の下り斜面が「急な角度となって落ち込む崖」に変貌した。崖は二十メートル以上の高低差があるようだが、それさえも、「その向こう側に連なる山々とこちら側の山々とが織りなす谷」の一部にすぎない。崖の下、すなわち谷底は杉林に覆われており、川のせせらぎが聞こえるが、地表の様子は窺い知れなかった。

 谷の向こうの山肌に、岩が剝き出しの切り立った箇所があった。歩きながら、女がそれを指差す。

「あそこなんて、写真にどうかしら?」

「ああ、はい……」

 生返事になってしまった。写真を撮る目的であると告げてしまったが、できれば先を急ぎたい。

「でもなんだか、ありきたりというか、地味だわね」

 願ってもない一言だった。首肯しておいたほうがよさそうだ。

「そう言われれば、そうですね」

「飛火石はここよりも展望が開けているわ。だから、それまでは我慢したほうがいいかもしれないわね」

「はい」

 雅彦は頷いた。

「それから……飛火石山そのものを撮影するんだったら、飛火石山の近くにある別の山のどれかに登らないと、フレームには入らないわよ。でも、飛火石山の外観はたいして特徴がないから、骨折り損になるかもしれないわね」

「なるほど。なら、お勧めのポイントだけに絞ってみます」

 偽装工作とはいえ、写真の話題に深入りすれば本来の計画が遂行しにくくなる可能性がある。情報を引き出すための手段としても有効な写真の話題だが、うかつに俎上に載せてはならない、ということだ。

 雅彦は次の言葉を控えた。

 砂利道は蛇行しながら延々と続いていた。


 女とともに歩き始めてから一時間ほど経過した頃、谷の向こう側の山々が数百メートル先まで一気に遠ざかった。見下ろせば、足元から谷底にかけては緩やかな斜面となっており、谷底には平地が広がっていた。斜面にも谷底にも樹木はほとんど生えておらず、雑草が繁茂している。

「ここが飛火石よ」

 そう告げて女は足を止めた。

 雅彦も立ち止まる。

「土砂崩れがあったとはいえ、集落の痕跡が何も見当たりませんね」

「家も納屋も庭も田んぼも畑も、そのほとんどが土砂に飲み込まれてしまったわ。残った一部の家屋だって取り壊されてしまったもの」そして女は、谷底と斜面とを見渡した。「この斜面が、土砂崩れの名残よ」

 女の言葉を受けた雅彦は、斜面の上端を求め、振り向いて見上げた。

 斜面は北側の山の上のほうから落ち込んでいた。五十メートル前後の幅に渡って崩れ始めたらしいが、その幅は下へ行くほど広がっており、谷底に至る辺りでは数百メートルの規模となっている。雅彦と女が立っている位置は斜面の中腹だ。土砂に埋もれただろう林道が作り直されたのは、一目瞭然だった。

「この土砂が多くの命を奪ったんですね。なんというか……とても写真なんて撮る気になれませんよ」

 カムフラージュとしてさえレンズを向けるのは、どうにも気が引けた。

「自然災害の爪痕として撮るのならば、むしろ記録として残せると思うけれど……まあ、本人の気持ち次第よね」

 女は言うと、林道の先に顔を向けた。

「もう少し歩けば、飛火石山の頂上へ向かう道が分岐しているわ。その分岐の辺りならば、いい景色があるわよ」

「そうですね。なら、そこへ行ってみます」

 飛火石の周辺を探るには変わりない。どこから始めても差し支えないだろう。

 もう一度、北側の山林を見上げた。部分的に色づき始めている、ということに気づいたが、山と山との境が判然とせず、どこからどこまでが飛火石山なのか、見極められない。

「わたしもその分岐まで行くつもりだったの」女が言った。「ついていっても、いいかしら?」

 雅彦は女に向き直って答える。

「はい、かまいませんよ。というより、おれなんかに断らなくていいんですよ。あなたにはあなたの都合があるんだし」

「うふふふ」女は微笑んだ。「優しいのね」

 自分のどこが優しいのか、雅彦には理解できなかった。それより、面と向かってそう言われ、含羞を覚えてしまう。

「優しいだなんて、そんなことはないですよ」

 冷静を装ったつもりだが、女は失笑を隠さなかった。


 集落跡から西へと向かうなり、林道の左下は再び急な崖となった。その崖沿いを一キロ近くは歩いただろうか。

 林道は前方の杉林の中へと延びていた。その手前で右に分岐するのが、飛火石山の頂上へと至る登山道らしい。見れば、道端に案内板が立っており、「飛火石山頂上」という文字とともに進行方向を示す矢印が、それぞれ手書きで記してあった。

「見てごらんなさい」

 女に促され、雅彦は足を止めて分岐の反対側、谷のほうに目を向けた。

 谷は大きな弧を描いて南へと湾曲していた。ゆえに、その情景は数キロ奥まで見通しが利いている。

 湾曲している部分から再び幅を狭めた谷は、両側が峻険な連峰だった。木々に覆われた部分もあるが多くは岩肌が剝き出しだ。それらのあちこちに霞がかかっているため、谷はより荘厳かつ幽玄な佇まいとなっている。俗界から遠く離れた土地であることを知らしめているかのようでもあった。

「すごい……」

 雅彦は感嘆した。

 足を止めた位置から林道を谷側に逸れると、背の低い雑草のはびこる広場だった。岬のように突き出したそこは、谷を見渡せる高台となっている。

 その高台の先端まで進んだ女が、振り向いて雅彦に問う。

「どう? 絶景でしょう?」

「ええ」と答えた直後に背中を冷たいものが走った。

「どうしたの?」

 硬直する雅彦を、女は凝視した。

 今度ばかりは、既視感などという曖昧なものではなかった。脳裏に浮かんだ明確な情景である。白いブラウスにベージュのスカートという装いの石原真央――彼女が立っていたのは、まさしくここなのだ。

 女の顔から笑みが消えた。

「さようなら」女は言った。「さようならジュンイチさん……わたしはここで、そう告げたの。二十七年前の秋……ちょうど今頃の季節だったわ」

「ジュンイチ?」

 よく知っている名前だ。しかし、女が言う「ジュンイチ」と自分の知っている「ジュンイチ」は、はたして同一人物なのだろうか――。

 鳥のさえずりがなければ、そよ風さえなかった。

 何もかもが静止している。

 思考までが止まりそうだった。

「あなたのお父さんの名前でしょう?」

 その声で雅彦は時間を取り戻した。

「何を言っているんですか? おれの父の名前は……」

 女の言葉に首肯するべきか否か、判断できなかった。どちらを選択しても取り返しのつかない結果を招く、そんな気がしてならない。

「ごまかす必要はないわ。大谷じゅんいちさんがあなたの……大谷雅彦さんのお父さんだっていうことは、事実なんですもの」

 足が震えた。自分の置かれた現状を把握できなかった。

「どうして父の名前を知っているんですか? それにおれの名前まで知っているのは、なぜです? あなたはいったい……誰なんですか?」

 矢継ぎ早に尋ねた。そうでもしなければ立っていられないほど、精神が張り詰めていた。

「昔ね、わたしは雅彦さんのお父さんとお付き合いしていたの」目を逸らさずに、女は言った。「高校生の頃から、わたしは順一さんとお付き合いしていた。高校を卒業して社会人になってからも、しばらくは恋人同士だったわ」

「昔……もしかして、あなたは?」

 どうして今まで気づかなかったのか――雅彦は忸怩たる念にさいなまれた。この女の容貌が唯と重なるのだ。というより――。

「そう、わたしが……石原真央よ」

 静かな声音だった。表情に変化はない。

 ナイフと赤黒く膨れ上がった右手が、雅彦の脳裏に浮かんだ。そして、胸の鼓動が高鳴る。

 トリックがあるに違いない。事態を把握するためにはこちらも冷静になる必要があるだろう。

 雅彦はゆっくりと深呼吸し、言葉を選んだ。

「なら、改めて尋ねます。おれが今、その名を……あなたの名前を口にしようとしていたことまで、あなたは知っていたんですね?」

「ええ、そうよ」

 すなわち、へたな隠し立ては通用しないということだ。

 その女、石原真央は言う。

「ごめんなさい……ここまでの間、ずっとそのことにふれないで。でも、あなたもここに来た理由を偽っていたもの。同罪よね」

「まさか、おれがここに来た理由まで、知っているんですか?」

 雅彦は眉を寄せた。早苗が殺害された事件や、ことによると有野の消息不明にも、この石原真央が絡んでいるのかもしれないのだ。

「有野貴好さんを捜しに来た」

 迷わずに真央はそう答えた。

「じゃあ、藤田さんの事件も知っているわけですか?」

 つい、険のある声になってしまった。

 真央は「もちろん」と頷いた。

「もちろん、って……」困惑を見せてはならないと自省し、表情を引き締める。「わかるように、ちゃんと説明してください」

 雅彦が訴えると、真央は自分の腕時計を見た。

「もうそろそろ着くでしょうから、話はそれからにしましょう」

「誰か来るんですか?」

「ええ。証言してくれる人よ」

 真央はそう答え、雅彦に背を向けて谷の景色を眺め始めた。

「いつ来ても、ここの景色は本当にいいわね。飛火石の集落はなくなってしまったけれど、この景色は当時のままだわ」

 二十七年前のこの場所に、石原真央は確かに立っていたのだ。その様子がなぜ自分の頭の中にあるのか、どうしてもわからない。石原真央が順一の恋人だったのが事実ならば、順一が所持していた写真を――この場所で石原真央を撮影した写真を、雅彦が幼い時分に覗き見していた可能性はあるだろう。だが、少なくとも今の雅彦には、順一の所持していた写真を見た、という記憶はない。また、そんな写真が実在するか否かも不明である。

「わたしが石原真央だなんて、歩きながらは打ち明けられないもの」

 真央は背中で言った。

 突然の言葉を受けた雅彦は、「え?」と調子外れの声を漏らしてしまった。

「あなたと歩き出したときは、ここまでの間をどうやって持たせようかと悩んだけれど、なるようになるものね。あの頃の順一さんと一緒に歩いているみたいで、楽しかった」

「父さんと?」

「ええ。雅彦さんは顔も仕草も話し方も、何もかもが順一さんとそっくりよ。だから駅のホームで見かけたとき、雅彦さんに違いない、と思ったの。さすがにあのときは、年甲斐もなくどきどきしちゃったわ」

 自分の父である順一についての思い出は少なかった。神経質で小言の多い母に対し、父の順一はおおらかで雅彦に優しかった。そんな記憶がわずかに残っている程度である。しかも、幼稚園に入園する以前の記憶なのだ。

 真央が肩越しに顔を半分だけこちらに向けた。そして、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「一緒に歩くことを断られなくて、本当によかった。断られちゃったら、わたし、こそこそとついてくるしかなかったわよ」

 今の雅彦は、大谷順一と石原真央との関係に意識を向けているのだ。瑣末な話題を振られても返答に詰まってしまう。

「今日、わたしはあなたに会うために、飛火石に来た」横顔のまま、真央は言った。「けれど……年に二、三回は飛火石に来ている、というのは本当のことよ。父や母、弟、幼なじみ、いつも声をかけてくれた近所のおばさん、雑貨屋の物知りのおじさん……たくさんの人たちが命を落とした土地であるのは、事実だもの」

 その言葉を聞いた雅彦に、ある憶測が湧き上がった。

「もしかして、おれの父さんも飛火石に住んでいたんですか?」

「そうよ」認めると、真央は再度、谷に顔を向けた。「つまり順一さんもわたしと同じく、飛火石で生き残ったうちの一人である、ということよ。けれどその順一さんは、もういない。順一さんが癌で亡くなった、と風の便りに聞いたのは、彼がこの世を去って一年も経ってからだったわ。お互いに音信なんてなかったもの、しかたないわよね」

 両親の出身地は揃って北海道だったはずだ。雅彦の記憶では戸籍にもそう記されてあった。もし真央の言葉に偽りがないのであれば、父の戸籍は偽造してあることになる。

 ふと、涼しい風が背後から谷へ向かって流れた。ほんの数秒のそよ風だったが、こちら側の世界の空気を異界の空気に入れ替えてしまったかのようだった。

 真央が黙り込み、雅彦も言葉を見つけられないまま、ときが過ぎていった。

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