第3話 ③

 雑木林の中を十分も歩くと、いきなり視界が開けた。木立が遠のき、ススキだらけの景色となった。

 無数の白い穂がそよ風に揺れていた。白髪を振り乱した老婆の群れにも見える。

 林道は火守里側の入り口からずっと、乗用車同士がかろうじてすれ違える程度の狭い砂利道だった。タイヤの跡はあるにはあるが、ところどころに草が生えている。行き交う車はほとんどないらしい。事実、今のところ、車との遭遇はまったくない。言うまでもなく雅彦以外の人の姿も皆無だ。

 既視感が生じては失せていた。見覚えがあるような、ないような、今一つ判然としなかった。

 やがて道は、緩い傾斜の上りとなった。息が上がるほどではないが、雅彦は一定のペースを保った。

 結局、あの仲居の忠告を無視する形となってしまった。しかし、今さら予定を組み直すわけにはいかない。それ以前に、友人の消息を探るためならば多少の危険は望む覚悟なのだ。

 気づけばこのように熱くなっている。

 気分を和らげようと、歩きながら空を見上げた。

 小さな雲が雅彦の進む方角とは反対の東へと流れていく。

 鳥のさえずりが心地よい。

 うやむやとした感覚は依然として続いているが、日頃の閉塞感からは解放された気がした。ここ数日の熱くなりがちな頭を冷やすには、よい環境かもしれない。とはいえ、友人の消息を探る行程における気持ちのたるみは、褒められたものではないだろう。雅彦は自省してしまう。

 飛行機の飛ぶ音が遠くに聞こえた。それを契機に足を止めて振り向く。

 わずかに標高が増していた。雑木林の向こうに見えるのは火守里温泉郷だ。さらなる彼方、田畑の間に集落が点在する平地の先には灰色に霞む山並みがあり、その稜線には何本もの送電鉄塔が等間隔に並んでいた。

 スマートフォンを取り出し、現在地を確認した。火守里温泉郷のバス転回場から直線距離で一キロにも満たないではないか。

 飛行機の音が小さくなっていく中、雅彦はスマートフォンをしまい、進行方向に顔を向けた。

 坂の頂の先に杉林が見えた。上りの傾斜は間もなく終わりそうだ。

 雅彦は足を踏み出した。

 飛行機の音が聞こえなくなった代わりに鳥のさえずりが大きくなった。しかもかなりの数だ。それらの声が先ほどに比べて落ち着きに欠けている――そんな気がした。

 鳥の声に訝しさを覚えて間もなく、スマートフォンの着信が鳴った。歩きながらスマートフォンを取り出して画面を見れば、「母」と表示されていた。

「おはよう母さん。どうしたの?」

 雅彦はまだ自分の軽率さに気づいていなかった。

「仕事中にごめんね。ちょっとだけ話しても大丈夫?」

 英美のその言葉で、自分が日常外にいることをようやく思い出す。止まりそうになった足を、どうにか前に進めた。

「あのさ……えーと……」

「何? どうしたの?」

 相変わらずのせかしようだ。

「今日は……おれ……」

「はっきり言いなさい」

 いらだちが伝わってきた。すぐに答えたほうがよさそうだ。

「今日は、休みなんだ」

「休み、って?」と尋ねられたが、事実は伝えたくない。こちらの状況を悟らせないためにも、答える代わりに強引に話を進める。

「ところで、母さんこそどうしたんだよ、こんな時間に」

「実を言うと、あたしも休んじゃってね」

「具合でも悪いの?」

「なんだか熱っぽくて……ひどくならないうちに治したかったから」

「風邪かな? あんまり無理するなよ」

 まだ四十代なのだ。独り暮らしとはいえ、そう心配するほどでもないだろう。しかし雅彦には、母を故郷に置き去りにした、という負い目があるのだ。

「無理はしないから大丈夫だよ。それより、雅彦は今、どこにいるの?」

 これでは元の木阿弥だ。ただちに善後策を講じる。

「えーと……買い物でも行こうかなと思ってさ。今、歩いているところ」

「なんだか鳥の鳴き声がすごいね」

 確かに、都会の喧噪には聞こえないだろう。

「ああ……」この成り行きを呪いつつ、雅彦は言う。「公園の中を歩いているんだけど、鳥が多くてさ。近くに巣があるんじゃないかな。それでおれのことを警戒しているのかもしれないね」

「ふーん」という納得しかねるような声音を聞き、雅彦は理不尽さを覚えた。この程度のことはいつもなら気にならないのだが、今はただ不愉快なだけだった。

「ところで母さん、何か急用があったんじゃないの?」

 その問い返しは当然の権利だ。窮地を脱するための最終手段でもある。

「そうそう、忘れていたわ」英美は言った。「物置にしまってあるCDラジカセ、借りてもいいかしら?」

「CDラジカセ……ああ、あれね」

 中学生時代に愛用していたもので、父のお下がりだ。高校に進学してからは、音楽はスマートフォンで楽しむようになり、それ以来、CDラジカセは無用の長物と化していた。

「うちで休んでいるのはいいんだけど、静かな音楽でも聴きたくてね。テレビじゃ騒々しいし。ちょうどね、昨日、お父さんの遺品を整理していたら、クラシックのCDが出てきたのよ」

「静かにしたいんだったら、何も聴かないほうがいいと思うけど」

「静かすぎるのも気が滅入っちゃうわよ。クラシックならリラックスできるし。……ね、いいでしょう?」

「ああ、かまわないよ。ていうか、あのCDラジカセ、もう使わないからあげるよ。好きに使ってよ」

「あらまあ、なんだか得しちゃった」

 電話の向こうで英美はけらけらと笑った。

「こんな時間にこんなことで電話なんかしてきて、もしおれが休みじゃなかったら、笑ってなんかいられないんだよ」

「お互いに休みだったんだし、まあ、よかったじゃない」

 英美は意に介さなかった。

「そういうことにしておくよ」

 いつものように対応した。軋轢が生じなければそれでよいのだ。

「じゃあね雅彦。またね」

「うん。近いうちに、またそっちへ行くよ」

 通話を切った雅彦はため息をつき、スマートフォンをポケットに戻した。そして、歩きながら南西の方角に目を投じる。

 遠い山並みの上で、細い飛行機雲が南北に伸びていた。

 不意に、雅彦の胸を暗い影がよぎった。

「有野……」

 友の名を声にした。

 得体の知れない何かを振りきろうと歩調を上げるが、むしろ、不安の根源に近づいていくだけなのかもしれない。

 いつの間にか鳥のさえずりが聞こえなくなっていた。


 いくつかの小さな横道は地図アプリに表示されていなかった。しかし、分かれ道や交差する道に惑わされることなく、雅彦は杉林の中の砂利道を進んだ。有野が脇道に逸れていないとは限らない。それでも、不安の根源が飛火石にあるような気がしてならないのだ。

 山の南斜面を通るこの道はほぼ平坦だが、尾根を回避するたびに右へ左へと蛇行していた。杉林の中とあって木漏れ日以外に日差しはなく、そのうえ鳥のさえずりもない。

 鬱屈した気分になりかけていたせいか、誰かに見られているような気がした。ときおり周囲を見渡すが、杉林の暗がりは静寂を守っている。

 火守里温泉郷を発ってから一時間が経過した頃、雅彦は再び日差しにさらされた。

 道の左右の杉林は切り開かれており、背の低い雑草の間に切り株がまばらに残されていた。見通しは利くが、尾根を回避するたびに道が蛇行することに変わりはない。平野部からかなり離れているらしく、どこを見ても山ばかりだ。

 とにかく、日差しはありがたいものだ。気のせいか足が軽くなったようである。

 杉林から出て三つ目の尾根を通り過ぎた直後だった。切り立った尾根が右カーブの視界を遮っていたが、その尾根が作り出す日陰で、バイザーつきの帽子を被った一人の女が、道の右端の太い切り株に腰かけていた。

 女はリュックを膝に載せ、ハンカチで額の汗を拭いていた。そして雅彦に気づき、その手を止める。

「あら、こんなところで人に会うなんて」

 さほど驚いたふうでもなかった。

 バスに乗り合わせていたあの女だった。火守里温泉郷より二キロも手前の杉沢で降りたはずである。それなのに、すでにここにいるのだ。

 雅彦は思わず足を止めた。

「こ……こんにちは」

 声をうわずらせてしまった自分に羞恥を覚えた。

「こんにちは」女は会釈した。「もしかして、飛火石へ行かれるのかしら?」

 英美に対して使った虚言は、この場面では通用するはずがない。もちろん、火守里温泉郷での仲居との流れも繰り返したくなかった。

「はい。写真が趣味で、紅葉前の風景を撮ろうと思っています。でも、飛火石へ行くのは今回が初めてで……」

「初めての飛火石に紅葉前の写真を撮りに行くなんて、マニアなのね」

 この一言で雅彦の全身に緊張が走った。

「カメラ好きの友人に勧められたんですよ」

 とりあえず有効だったらしく、女は頷いた。

「そうね……飛火石の周辺には、遠くを見渡せる高台や、切り立った崖を正面に見るポイントもあるし。絶景ならいくつもあるわ」

 本当に絶景があるとは暁光としか思えない。だからこそ確認せずにはいられなかった。

「飛火石へ行ったことがあるんですか?」

「行ったことがあるもないも、昔ね、そこに住んでいたのよ」

 返ってきた言葉を耳にして、雅彦は懐疑を募らせた。

「飛火石の集落は大規模な土砂崩れで壊滅したそうですが」

「よくご存じね。ネットで調べたのかしら?」

「さっき、火守里温泉郷で聞いたんです。それ以上の詳しいことはわかりませんが」

 仲居との約束がある。飛火石の信仰について、自分からは口に出せない。

「そうだったのね。あなたが聞いたとおり、飛火石の集落は壊滅したわ。あれは……運悪く、日曜日の早朝だった。ほとんどの住人が家にいたの。老若男女、七十六人もの住人が命を落としたわ。無事だったのはほんのわずか。そのうちの一人が、このわたしなの」

 女は言葉を区切り、南側に広がる山並みを感慨深げに見渡した。

「飛火石やこの辺一帯は、山深くて静かでとてもいいところよ」そして、道の先に目を向ける。「でもあの土砂災害があって以来、この先には誰も住んでいないわ。だから、ほら、電線が通っていないの」

 そう言われて、雅彦は気づいた。確かに電線が通っていなければ、電柱の一本も立っていない。一つの集落が消えた、という現実を垣間見た気がした。

「わたしは年に二、三回、昔を偲びに来るの」女は雅彦に視線を戻した。「仕事が忙しくて、なかなか都合がつかないんだけれど」

「野生動物が出るそうですが、女性一人で怖くないんですか?」

 不安の種といえば有野の安否ばかりだった。野生動物との遭遇など経験したことのない雅彦にとって、熊や猿や猪は空想上の生物となんら変わりなく、非現実的な存在に等しいのだ。自ら口にして、今さらその危険性を意識した。

「いつもは車で来ているから、あんまり気にしていなかったわ。今日は気が向いてね、ハイキング気分を味わいたくなったのよ。でも、確かに野生動物は怖いわよねえ。あの土砂災害のあとは、この辺で猪なんて見ていないけれど、飛火石に住んでいたときはよく見かけたものよ。見かけなきゃ見かけないで、なんだか寂しいわ」

 苦笑した女は腰を上げてリュックを背負うと、コットンパンツを軽く払った。

「よかったら、一緒に行かない?」

 女は雅彦を誘った。

 土地勘のある者が同行してくれたら心強い。だが、こちらの事情を知られぬための留意は必要となる。雅彦は二の足を踏んだ。

「ごめんなさい。迷惑だったみたいね」

 雅彦の逡巡を察したらしく、女は言った。

「いえ、違うんです」とっさに言い繕う。「撮影ポイントで道草をすることもあるでしょうから、かえってこちらが迷惑をかけるんじゃないか、と思ったんです」

「気にしなくていいのよ。わたしもゆっくりと歩きたいし」

 そうまで言われると断るのも気が引ける。今さら「一人で歩きたいんです」などと言い訳はできない。

「なら、ご同行、お願いします」

 腹を決めてそう伝えた。

 ふと、雅彦はもう一つの疑問を思い起こした。

「ところで、あなたはさっきのバスに乗っていましたよね?」

「ええ、そうよ。あなたと同じバスだったわね。電車も同じだったし」

「電車も?」

 雅彦にはまったく覚えがない。

「駅のホームで見たのよ……あなたが隣の車両から降りたところをね。でも、ホームからバスに乗るまでの間は、わたしはあなたの後ろだったし、ましてわたしは途中で売店に寄ったんですもの、あなたがわたしに気づかなくて当然よ」

「そうだったんですか。それより」雅彦は問い直す。「火守里温泉郷より三つも手前でバスを降りたあなたが、どうしておれより先にここに来ることができたんですか?」

「あらまあ、あらかじめ道を調べておかなかったの?」

 呆れた色が笑顔の中に浮かんでいた。

「どういうことですか?」

 いくぶん憤慨しつつも、へつらいの笑みを維持した。

「火守里からだとかなり遠回りなの。三つ手前のバス停で降りれば、この林道にすぐに合流できるわ。そのバス停から山に入る道が、飛火石山の登山道でもあるのよ」

「遠回りだったんですか? というか、そんな名前の山があったなんて……」

 雅彦はスマートフォンを取り出し、地図アプリを立ち上げた。そして、杉沢一帯の広域地図を表示する。

 女がバスを降りた停留所は、位置的には火守里よりも飛火石寄りだった。何気なく地図を最大に拡大してみれば、その停留所付近から北に延びる細い道が、この林道に繫がっているではないか。最大に拡大しなければ表示されない道だったようだ。加えて、その倍率のまま地図をスクロールし、飛火石の北側に「飛火石山」と小さく表示されていることを知る。

「あなたの言うとおりでした」

 うなだれそうになった。情報収集に落ち度があったことがここでも証明されたわけだ。

「バスを降りてこの林道に合流するまで、だいたい五百メートルくらいだったかしら。あの道を歩いたのは、本当に久しぶりだわ」

 感慨深げに女は言った。

「つまり、そのバス停が登山口なんですね」

「ええ。でもね」女は首を傾げる。「登山口の表記はどこにもなかったと思う。バス停の名前も杉沢だし。だもの、地元の人でなければ、あそこが登山口だなんて、わからないわよ」

「でしょうね。おれだったら、気づかないと思います」

 登山者にとって飛火石山がいかほどの人気であるのか、雅彦には知る由もない。だが、得のある者ならば情報を把握したうえで訪れるはずだ。いずれにしても雅彦はその枠の外にいる。

「で、この林道沿いに三キロくらい歩いて、休憩していたというわけ。あら嫌だわ……五百メートルと三キロだなんて、休憩するの、ちょっと早かったわ。もうそんな年なのかしらねえ」

 そう言って女は噴き出した。

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