第3話 ②
迷うことなく、予約したホテルの前に着いた。バスの転回場から百メートルほどの距離だ。そのホテルは四階建てだが、幅も奥行きもなかった。
まだ午前九時を過ぎたばかりだ。宿の位置を確認しただけで、雅彦はその場を離れた。
西の山並みを正面にして、閑散とした街を歩いた。営業していそうな商店もこの時間は人の出入りが見られない。
弱い硫黄臭の中を五分ほど歩くと、街の西の外れにたどり着いた。雑草だらけの空き地が広がっている。その向こうになだらかに立ち上がるのは雑木林に覆われた山だ。
アスファルトの小道の途中で足を止めた。カーゴパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリで現在地を表示する。飛火石へと続く道はこの辺りから始まるらしい。空き地の先に目をやると、雑木林の中に林道らしき砂利道が見えた。
砂利道に目を凝らしていると、再び既視感を覚えた。これは単なる旅情ではないかもしれない。
すぐ近くで物音がした。
雅彦が振り向くと、三階建ての建物の裏口から、二部式着物姿の中年の女が台車を押して出てくるところだった。台車には二つの段ボール箱が積み重なっている。
女は裏口のドアを開けたまま道に出ると、雅彦とは反対側の方向へ台車を押して進んだ。
「あの、すみません」
台車を押す後ろ姿に、雅彦は声をかけた。
「え?」と女は草履の足を止め、台車のハンドルに片手をかけたままこちらに顔を向けた。
すかさず砂利道を指差して女に問う。
「飛火石へ行くには、あの道でいいんですよね?」
あの道で間違いないはずだが、念には念を入れたかった。
「飛火石……」女は顔をしかめた。「飛火石への道はあの道でいいんですけど……お宅様はどちらからおいでになったんです?」
尋ね方に不備でもあったのだろうか。思わず、指差した手を下ろしてしまう。
「えーと……あの、東京からですけど」
「東京? それで、わざわざ飛火石へ行くんですか?」
まるで窘められているかのようだった。しかたなく、用意しておいた言い訳を使うことにした。
「趣味で写真を撮っているんですが、火守里の奥にある飛火石の風景がいい、って友人に勧められたんですよ」
ショルダーバッグには一眼レフのデジタルカメラを入れておいた。不審者と疑われた場合のために用意しておいたのだ。就職してすぐに買ったカメラだ。職場の先輩に誘われて写真同好会に入ったのが購入のきっかけである。しかし最近は、写真同好会にはほとんど顔を出しておらず、このカメラを収納ボックスから出したのも一年ぶりだ。
「勧められた? でも、紅葉にはまだ早いですよ」
女は不審そうな趣をさらに募らせた。
「紅葉前の風景も、明るい感じがして、いいものですよ」
これも用意しておいた台詞だ。苦し紛れの感が否めないのも承知のうえである。
だが、これは好機かもしれない。そう悟った雅彦は女に近づいた。スマートフォンに有野の画像を表示し、それを彼女の前に差し出す。居酒屋で撮ったほろ酔い加減のバストアップだ。
「彼がその友人なんですが、先週、この宿に泊まったかもしれないんです」宿泊施設らしきその建物を大仰に見上げ、再び視線をスマートフォンに戻した。「あれから連絡を取っていないんですけど、この顔に見覚えはありませんか? 彼も紅葉前の飛火石を撮りに来たんですよ」
当たるを幸いに訊いたようなものだ。依然として、有野の泊まった宿は確定できていないのである。
「あ、この人――」と言葉を切った女が雅彦を凝視した。「こうやって訊くということは、もしかして……その方とは連絡を取っていないんじゃなくて、連絡が取れないんじゃないんですか?」
秘匿しておきたい部分を突かれてしまった。
軌道修正するためにも語気を強めてみる。
「有野――いや、彼を見たんですよね?」
「え、ええ」観念したように女は頷いた。「確かにこの人、先週の土曜日だったか、うちの宿に宿泊されましたよ。わたしが仲居として接客しました。でも、飛火石の話は……少なくとも、わたしは聞いていませんね。温泉を楽しんで、次の日の朝には発たれましたけど……まさかこの人、飛火石へ行ったんですか?」
「ええ、たぶん……」
曖昧に答えた。断言できるほどの情報はないのだ。
「それで連絡が取れない、というわけなんですね」
仲居だというその女は神妙な趣だった。
認めたほうがよさそうだ。新しい情報を得られるかもしれない。
「はい」と答えて、仲居の言葉を待つ。
「警察に相談したほうがいいと思い――」
「それはできません」
意図せず身を乗り出してしまった。
のけぞった仲居が、瞠目する。
雅彦は我に返り、「すみませんでした」と頭を下げた。
「いえ、いいんです」仲居も自分を落ち着かせるように頭を下げた。「それにしても、何か事情がおありの様子ですね。わたしは他言しませんが、ご自分でどうにかなさろうなんて、いけませんよ」
「飛火石へ行ってはいけない、ということですか?」
「今は誰も住んでいないし、ハイカーが足を踏み入れることだって少ないんです。営林署や林業とか、そういった仕事の人でなければ、普通はあんなところへ行きません。何か事故が起きたとしても、助けてくれる人なんて誰もいないんですから」
どうやら、かなり気にかけてくれているらしい。だが雅彦は、仲居のその言葉が腑に落ちなかった。画面を地図に戻し、飛火石を拡大する。
「今は誰も住んでいない、ということは、以前は人が住んでいたんですか? この地図には……」再び、仲居にスマートフォンの画面を見せる。「ほら、建物なんて表示されていませんよ」
雅彦の手にあるスマートフォンに目を落としたまま、仲居は答える。
「集落があったんですけど、埋まっちゃったんです」
「集落が……埋まった?」
「もう二十年以上も前のことですけど」仲居は顔を上げ、雅彦と目を合わせた。「大きな土砂崩れがあったんですよ。森林伐採が影響したのか、地盤が弱くなっていたらしいんです。たくさんの人が亡くなったんですけど、危険だからということで、生き残った人たちはみんな出ていってしまいました。今でもたまに崩れることがあるみたいなんですよ。だから、行かないほうがいいんです」
「そうなんですか」
かき集めた情報に、集落があったという記録はおろか、飛火石での災害の記録もなかったのは事実だ。もっとも、情報収集のほとんどは、地図アプリで地形と位置関係を把握したり、宿泊施設や交通機関を調べるという作業だった。抜かりなく準備を進めたつもりでいたが、穴だらけだったわけである。
ふと、仲居は西の山並みを見上げた。侮蔑の眼差しだった。
「飛火石には、ほかに何かあるんですか?」
土砂崩れの危険性以外に何かある――雅彦はそう察した。
「ああ……それはちょっと」
仲居は顔をうつむかせた。
「友人が飛火石へ向かったかもしれない、それで連絡が取れない……とおれは言いましたが、そのとき、あなたは妙に納得していましたよね? 土砂崩れ以外に何かあるんじゃないんですか? おれも他言しませんから、どうか教えてください。場合によっては、それで飛火石へ行くことを諦められるかもしれないし」
出任せだった。諦められるわけがない。
そっとため息をついた仲居が、顔を上げた。葛藤しているらしく、目が泳いでいる。そればかりか、その目に涙がにじんでいるではないか。
「あ……あの、いいんです。変なことを訊いて、すみませんでした」
取り繕い、頭を下げた。
「いえ、わたしのほうこそ、取り乱してしまって」
片手で涙をぬぐいながら仲居は言った。
「飛火石へは自己責任で行きますから、気になさらないでください。では、お忙しいところ、ありがとうございました」
話を切り上げるつもりで、雅彦はもう一度、頭を下げた。
「待ってください」仲居はとっさに声を上げた。「話しますから、もうちょっと考えてみてください」
「話していただけるんですか?」
「はい。でも、荒唐無稽な話ですよ」
念を押されたが、荒唐無稽な記憶に悩まされている雅彦としては、断る理由はなかった。
「かまいません」
雅彦がそう促すと仲居は頷いた。
「わかりました。土砂崩れで壊滅した飛火石の集落には、なんというか、独自の信仰があったらしんです」
「独自の信仰……」
「得体の知れない神様を祀っていた、とかで、土砂崩れがあったのも、神事に落ち度があって祟られたからじゃないか……そんなふうに言う人もいました。ですから、この辺の人たちは気味悪がって、できるだけ飛火石には近づかないようにしているんです。昔は火守里の一部にもその信仰はあったそうですが、飛火石の集落がなくなってからは……」
「この火守里でも、その信仰は廃れてしまったんですね?」
「はい。詳しいことを知っている人は、今ではこの火守里にもいないと思います。わたしだって、この程度のことしかわかりませんし」
「そうでしたか」
雅彦が頷くと仲居は憂いを呈した。
「こんな話がよそに広まると、ただでさえ客足が遠のいているので……」
飛火石は忌避されている土地であるようだ。有野がそれを認識していたか否かは定かでないが、これまでの言からすると、この仲居が有野に伝えていないことだけは間違いないだろう。
「大丈夫です。心配しないでください」
むしろ話が広まれば怪談マニアが集まるのではないか――そんな無責任な考えは口にしなかった。
「ところで、お宅様は飛火石まで歩いていこうとなさったんで?」
仲居に問われ、雅彦は答える。
「ええ、そうです」
「それじゃあ、なおさら考え直すべきですよ。ここから飛火石までは、十キロ弱の道のりだもの」
地図上の直線距離は六キロ程度だが、飛火石への道は蛇行を繰り返しているのだ。仲居の言葉は正しい、と思えた。
「わかりました」
「熊や猿や猪が出ることもあるらしいです。お友達の消息は気になりますが、とにかくあんなところへは行かないでくださいね」
仲居はそう告げて会釈し、台車を押して歩き出した。
雅彦は西の空を見上げた。
晴れているはずの空がどす黒くにじんでいるように思えた。
改札を出た坂井は自動券売機の近くのベンチに腰を下ろし、ショルダーバッグを膝に載せた。
腕時計を見ると午前九時二十一分だった。今から取引先のオフィスへと向かえば、約束の時間より十五分も早く着いてしまうはずだ。
肥満ぎみの体のことを考えれば、遠回りしてでもその十五分を余分に歩いたほうがよいのかもしれない。高校野球でエースだった頃などまるで夢のようだ。
構内を行き交う人々を眺めながらため息をついた坂井は、ふと、昨日の電話を思い出した。有野の友人という男からかかってきた電話だ。
冷静になって考えてみれば、気持ちはわからないでもない。仲のよい友人が行方をくらましたとなればムキにもなろう。
だが、坂井自身は有野にそれほど親近感を抱いていなかった。高校の野球部で仲よくしていたのは事実である。もっともそれは、人懐っこい有野とは話しやすかった、というだけのことだ。後輩の面倒見がよい、などと有野は坂井のことを吹聴するが、坂井自身はほかの後輩に優しく接した覚えはない。社会人になってからも、有野が一方的に連絡を入れてくるだけなのだ。
――いっそのこと、うざったい有野がこのまま帰ってこなければいいのに。
本音を自分の中で吐き捨てた。
「そういや、ヒモリザトとヒビイシ、だったかな?」
昨日の電話で耳にした地名だ。
スラックスのポケットからスマートフォンを取り出し、インターネットに繫いだ。正式な表記がわからないため、カタカナで二つの地名を並べて検索する。しかし、表示された結果は今一つぴんとこないものばかりだった。「群馬県」や「観光地」「変な地名」などのキーワードをいくつか追加して検索し直す。
情報源としては有望そうなサイトを見つけてアクセスすると、すぐに「火守里」と「飛火石」という表記が目に入った。
火守里は江戸時代末期から温泉街として栄えてきた――にもかかわらず、平成以降は客足が衰え、かつての活気はなりを潜めているらしい。その火守里の西に位置する飛火石は林業で成り立つ集落だったが、二十七年前に起こった土砂崩れで壊滅し、現在では無人の土地なのだという。このサイトで得られた情報はこれだけだった。
坂井は首をひねった。温泉街へ行くのなら話はわかるが、無人の土地に出向くなど、常軌を逸しているとしか思えない。もっとも、坂井にとってはどうでもよいことである。
画面を検索結果ページに戻した坂井は、ふと思い立ち、インターネットの地図にアクセスしてその検索欄に「火守里」と打ち込んだ。表示されたのは群馬県の山間部の一部だった。中心に「火守里温泉郷」がある。右にスクロールすると、その西方に「飛火石」という地名があった。地図で見る限り、やはり山以外に何もなさそうだ。
担がれた気分で再度、画面を検索結果ページに戻した。そして何気に索結果の一部に目を留める。「火守里周辺の地名の由来」とあった。軽い気持ちでそちらのサイトにもアクセスしてみた。
個人のブログだった。登山と温泉をテーマにした記事がメインらしい。
* * *
寛政三年(一七九一年)の夏のとある夜、山間部の集落である
翌日、村人の一人が集落の北にある
一人の男が物珍しそうに黒い石の一つを手に取ろうとしたが、ふれたとたんにその手に大やけどを負ってしまった。
その後、星空を真っ赤にした石にちなみ、黒蔭村は飛火石村、黒蔭山は
また、のちに温泉の出ることとなる麓の土地は、神聖なる飛火石山を守るための結界にあるとされ、火守里と呼ばれるようになった。
* * *
「へっ……」
坂井は失笑した。
記事はまだ続いていたが、すぐにブラウザを閉じた。
――有野は民俗学でも学ぶ気なのか?
肩をすくめ、スマートフォンをポケットに戻した。
江戸時代に隕石が落下してもおかしくはないが、それで村の名前や山の名前を変えるなど安易すぎではないか。まして、新たな信仰まで興してしまったのだ。
しかし――。
「まあ、ありうるかな」
坂井はつぶやいた。
隕石など知る由もない人々ならば、それを神のメッセージと受け取ってしまうのは、ごく当たり前のことなのかもしれない。
より詳しい事情が知りたければブログの記事を最後まで読むべきだろうが、坂井にとってその必要性は皆無だった。
「さて」
もう一度、腕時計を見た。
よい頃合いだった。
坂井は立ち上がり、ショルダーバッグを肩にかけた。
「それでいいのよ」
耳元で女の声が囁いた。
坂井は振り向いた。
人群れは相変わらず行き交っているが、坂井のそばには誰もいない。
寒気がした。手足が小刻みに震えている。
――有野、おまえはいったい何にかかわっているんだ?
人の怨念とその連鎖、という言葉が脳裏に浮かんだ。
――調子に乗りすぎなんだよ。
たぶん、有野は許してもらえない。
――誰に?
気づけば、坂井は自問自答していた。
――悪いけど、おれは関係ないからな。
まだ自分は怒りにふれていないのだ、と悟り、その場をあとにした。
これ以上かかわらなければ問題はない。
そして坂井は、いつもの雑踏にもまれた。
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