第3話 ①
歓楽街の外れにある空き家だった。どこの街なのかはわからない。都会の一角らしいが、街並みも人々も寂れていた。
照明の類いが一切ないこの部屋に街の明かりがわずかに差し込んでいた。歓楽街特有の騒々しさはまったく届いていない。おそらく、もうすぐ夜明けだろう。
傷みかけた畳の上で全裸の金子は仰向けになっていた。その金子の上で全裸の早苗が腰を振り続ける。
「ああ……信也さん……あたし、子供を産みたい」
形のよい乳房を揺らしながら、早苗は言った。
「いいとも。おれは……早苗の望みをかなえたい」
夢ではない。自分は今、早苗とむつみ合っている。早苗はこうして生きている。
ここで肌を重ねてどれくらい経ったのだろう。早苗には、「いつまでもここにいていいんだよ」と言われた。もう逃げなくてよいのだ。今は安堵の中で快楽に身を委ねていられる。
「子供……たくさんほしいの」
甘美な声が金子の耳朶を打った。
「たくさん産んでくれ」
「本当にいいの?」
「ああ、本当だ」
「よかった。じゃあ、たくさん産んじゃう」
早苗の腰の振りが激しくなった。
「ほしいのは二人か? 三人か?」
「もっとよ」
あえぎながら、早苗は訴えた。
「五人? 六人?」
「もっと、もっとよ」
早苗の汗が弾ける。
「七人? 八人?」
「だめ、もっと」
「十人……二十人……」
「もっともっと」
「三十人……四十……五十……」
「もっともっともっと……」
「七十……八十……」
思考が麻痺しかけていた。自分が何を数えているのか、わからなくなっていた。
「もっともっともっともっと……」
「百……」
「全然足りない」
じれったいのか快楽がなせるのか、早苗は身をよじった。
「千……千だ……」
かろうじて言葉にしたが、もう行きそうだった。
「そうよ。千……千人の子を孕むの」
腰を振りながら、早苗が金子に顔を近づけた。
「早苗……」
早苗の言葉の意味がわからない。意味のわからない話など、どうでもいい。今はただ、早苗の唇がほしい。
じらすように早苗は言う。
「そして子供たちは、一人一人が火の玉となって、空から降ってくるの。高い空から、降ってくるの」
「空から……火の玉が……」
「そうよ」
「早苗……おれは……もう……」
「いいわ。あたしの中に……たくさん出して」
早苗が金子の唇を吸った。
舌と舌が絡み合う。
ねっとりとした動きで早苗の舌が金子の舌を陵辱した。
唇を離さずに、早苗は腰の振りを激しくした。
金子の限界はすぐそこだった。
早苗の舌が、何本もの細長い舌に分裂した。それぞれの舌が金子の舌に巻き付き、金子の上下の歯茎をさする。
限界に達した。金子は早苗の中に放出した。
唇を離した早苗が上半身をのけぞらせた。
「ああああああ!」
絶頂の声が早苗の口から漏れた。
その口に何本もの触手らしきものが飲み込まれるのを、金子は見た。
早苗をよりいっそう愛おしく思った。
秋晴れだった。今後一週間は雨の心配はないらしい。それでも山の天気を侮ってはいけない。大学生時代に愛用していたショルダーバッグには、昨日の帰宅途中に買った雨合羽が入っている。もっとも、山歩きによかれと思って着込んだミリタリージャケットはゆったりとしているのだ。一度も袖を通していない雨合羽がジャケットのサイズに合うかどうか、若干の不安はあった。
雅彦は駅舎の外に出ると足を止め、紅葉にはほど遠い緑の山々を眺めた。雅彦の故郷も田舎だが、ここも同様である。見える範疇で最も高い建物は地上五階程度だ。何より建物と建物との間が広い。その空間から見えるのは山と田畑だ。おまけに人の姿も往来する車もまばらなのだ。何もかもがすかすかだった。
駅舎の正面にあるバスターミナルへと足を向けた。そして三つある乗り場のうちの一番手前で立ち止まる。どの乗り場にもバスはまだ来ていない。
雅彦が立っている乗り場は、二十キロほど北の火守里へと向かうバスの始点だった。この路線の運行本数は、平日でも五往復、土日祝に至っては三往復のみだ。
腕時計で午前八時六分であるのを確認した。次にこの乗り場からバスが出るのは九分後だ。この日、二本目の便となる。
この路線の各運行時刻はすでに把握していた。バスの時刻だけではない。必要な情報で入手可能なものは昨夜のうちにインターネットで集めてある。無論、火守里温泉郷の旅館には昨夜の早いうちに予約を入れておいた。
宿を取る傍ら、予約した宿も含めて火守里温泉郷の宿泊施設のすべてに電話し、有野が宿泊していないか、または有野が宿泊した記録はないか、尋ねてみた。しかし、個人情報の漏洩に当たるため宿泊の有無を知らせることはできない、とすべての宿からはねつけられてしまった。
とにかく、できる限りの準備はしておいた。カーゴパンツとトレッキングシューズも、急遽、昨日の夕方に購入したのだ。雨合羽のサイズの不安以外に抜かりはないはずである。
日差しの温もりが心地よく、立ったまま眠りそうになった。
慌てて顔を上げると、いつの間にか、白髪を後ろで結った老婆が隣に立っていた。七十代か八十代前半だろう。傘の柄が飛び出した大きなリュックを背負っている。
思いきって「おはようございます」と声をかけてみるが、老婆は正面を見つめたまま反応しなかった。都会なら当たり前の人間関係の希薄さが、この田舎には不釣り合いに思えてしまう。何より気後れを感じ、雅彦は老婆から目を逸らした。耳が遠いだけなのだ、と思うことにした。
ため息をこらえて立ち尽くした。スマートフォンを出すのさえ気が引ける。
身動きが取れないまま五分ほどが経過した。
ターミナルに一台の小型バスが入ってきた。そしてこちらの乗り場で停車する。
雅彦の目の前で車両中央の乗車口が開いた。降車口は前方というタイプだ。
「お先にどうぞ」
雅彦が促すと、老婆はしずしずと会釈した。耳はそれなりに機能しているらしい。
手すりを握ってゆっくりと乗車した老婆に続き、雅彦もステップを上がった。
すべての席は進行方向に向いていた。最後部の席以外は左右の列とも一人がけである。
雅彦は中央付近の右側の席に座り、ショルダーバッグを膝の上に置いた。
左側の最前席に座った老婆は、リュックを足元に置き、特に運転手と会話することもなく、ただじっと前方の風景を見つめている。
ようやく落ち着き、雅彦はカーゴパンツのサイドポケットからスマートフォンを取り出した。メールや各SNSの通知がないことを確認してからインターネットに繫ぐ。そして検索サイトのニュースの一覧を見るが、特に目を引く見出しはなかった。
いつもの通販サイトにログインした。気になっているタブレット端末はさておき、スタイラスペンを物色してみる。
ページをスクロールしていたとき、一人の女がバスに乗ってきた。雰囲気からすると四十代辺りだろう。だが、ふくよかなためか肌につやがあり、加えて色白である。ジャケットとパンツは揃って辛子色のコットン地だ。バイザーつきの帽子や背中のリュック、トレッキングシューズという装備を見て、ハイカーであろうと雅彦は推測した。
そんな彼女にどことなく懐かしさがあった。
――またかよ。
すでに石原真央の件があるのだ。これ以上は複雑にしたくない。雅彦はかぶりを振った。
こちらの視線に気づいたのか、女は雅彦を一瞥した。そして、何食わぬ表情でバスの後ろのほうへと進む。
乗車口の外を窺うふりをして横目で後ろを見た。
女はリュックを膝の上に置いて最後部の左端に着いていた。ふっくらとした顔は整っており、ボブのヘアスタイルが似合っている。
目が合ったような気がして、雅彦は正面に顔を戻した。
通販サイトの閲覧を続けようとするが、集中できない。しかたなく、スマートフォンをカーゴパンツのポケットに押し込んだ。
やがて発車時刻となった。
乗客はこの三人だけだった。
市街地を離れたバスは、民家が点在する田園を北上した。
道路はセンターラインを有し、それなりの幅があった。しかし交通量は少なく、対向する車がまれにあるくらいだ。先行する車やあとを追ってくる車はない。
十キロほど走ったところで老婆がバスを降りた。杉林が迫る小さな集落だった。停留所の名前は「
その集落を過ぎるとバスは山間部へと入った。山林の中の道が、大きな川に沿ってさらに北へと延びている。川はバスの進行方向が上流のようだ。
わずかでも平地があるところには、何軒かの家があった。そのたびに停留所を目にするが、乗る者がいなければ降りる者もいない。信号機も一時停止の標識もなく、バスは淡々と走り続ける。
いつの間にか、雅彦は車外の風景にさえも既視感を覚えていた。もっとも、これが旅情というものなのかもしれない。もしくは田舎のよさなのだろうか。
やがて山々が左右に遠のき、視野が開けた。前方のはるか先に街並みが見える。
降車のチャイムが鳴った。火守里温泉郷の三つ手前だ。
民家が点在する小さな集落で、バスは停車した。「
コットンジャケットの女がバスを降りた。
バスが動き始めると、雅彦は停留所のほうを見た。
女が民家と民家との間の小道へと入ったところだった。停留所の背後から入る道である。
乗客は雅彦だけとなった。
沿道の風景に目を向けていると、家並みと田畑が何度も交互に入れ替わった。そして、徐々に建物の量の密度が高くなり、すれ違う車が増えてくる。
それでも都会とは別格の円滑さだ。停止するとすれば信号機が赤になったときくらいであり、次の停留所とその次の停留所は素通りした。
バスの進行方向に山が広がっていた。街並みはその山の麓だった。
女がバスを降りた杉沢という停留所から二キロほど走っただろうか。前を見ると、道の左側に沿う大きな川にトラス橋が架かっていた。
左折してその橋を渡ったバスが、街並みへと入った。山林が建物のすぐ向こうに迫っている。
「ご乗車ありがとうございました」女性アナウンスが流れた。「次は終点、火守里温泉郷です。お忘れもののないよう、ご注意ください」
どの建物も年季が入っていた。ホテルか旅館なのだろうコンクリート製の建物も多いが、木造の建物も含めて大半は閉鎖しているようだ。いかんせん人の姿が少ない。
街の一角にアスファルト敷きの四角い広場があった。バスはその広場に入り、時計回りに一周弱のところで停車した。降車口のドアが開くとともにエンジンが止まる。
「ご乗車ありがとうございました。終点、火守里温泉郷です」
運転手の男がマイクで告げた。
バスを降りると硫黄臭がかすかに嗅ぎ取れた。
バスを待つ乗客は一人もいなかった。
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