第2話 ④

 昼休みに入ると、雅彦は食事も取らずに廊下の突き当たりで大学の同期たちに電話をかけまくった。事件にはふれずに有野の消息について簡明に尋ねたのだが、誰一人として答えられる者はいなかった。もっとも、そのうちの一人からは、有野が世話になったという例の先輩の連絡先を入手することができた。

 雅彦はすぐにその先輩、坂井さかいという男の携帯番号に電話をかけた。そして電話が繫がると、雅彦は簡略な挨拶をして本題に入った。坂井が有野の先輩というだけでなく、早苗や唯、金子をも知っていることを踏まえ、早苗が殺害された事件との関連性も含めて有野の失踪を伝えた。しかし坂井は、有野が会社を休んでいるという事態を知らなかったらしく、群馬県の山間部に出かけるという話さえ聞いていなかったという。

「ていうか、ヒモリザトとかヒビイシなんていうところ、おれは知らないしなあ」そして、坂井は付け加える。「そういや、有野は沢口さんの交友関係を調べていたんだよ」

「沢口さんの交友関係……」

 まるで雅彦の交友関係を探っていた早苗のようではないか。

 とにかく、金子に関する一連の報道を耳にしていようといまいと、有野は自分なりに事件の真相を突き止めようとしているに違いない。つまり、有野が唯を疑っている可能性がある、ということだ。

「先週の水曜日に有野から電話があってね」坂井は言った。「おれにも訊いてきたんだ。さすがにそんなの知るわけないし、答えようがなかったけどさ。有野が沢口さんの交友関係を調べてどうするつもりだったのかは、わからないよ。こっちから尋ねても、なんだかはぐらかされてしまったからね。まあ……事件に関する何かを知りたくて探っているのは、間違いないと思うけど」

「自分もそう思います」

 雅彦は相槌を打った。

「それから」坂井は続ける。「今日になってわかったんだけど、有野は沢口さんの職場の何人かにも当たっていたそうなんだ。しつこく尋ねられた女の子の一人に、苦情を言われたよ。坂井さんの後輩だっていう人に沢口さんの交友関係をねちねちと訊かれた、ってね。有野のやつ、うちの会社の前で、退社する社員に手当たり次第に声をかけていたらしい。選挙の出口調査みたいなことだよ」

「そうでしたか」

 妙に得心がいった。有野ならばやりかねないだろう。

「おまけに、おれの後輩であることをだしにした、というわけさ」坂井は言った。「でも、うちの会社の前での出口調査は、成果が得られなかったはずだよ。有野を満足させるような答えを出せた人は、一人もいなかったみたいだからね。まあ、それで諦めるような男じゃないだろうけどさ」

「つまり、有野はほかにも当たったかもしれない、と?」

 そろそろ切り上げてもよさそうだ。坂井が雅彦の問いに「そうだ」と断言すれば、この場を締めくくるだけである。

「そりゃあ、そうさ。……あ、そういえば」坂井の話は続いた。「沢口さんもずっと休んでいるんだった」

 気になる報告だった。雅彦はつい、尋ねてしまう。

「ずっと……って、いつからですか?」

「えーと、いつだったかな……そうそう、先週の月曜日からだよ」

 先週の月曜日といえば、ちょうど一週間前である。早苗の告別式の翌々日だ。告別式には参列した唯だが、その後も体調が優れないのかもしれない。昨日はかなり無理をして外出したのではないだろうか。

 坂井は続ける。

「だから、住所を探り当てたうえで押しかける、などの強硬手段を取っていないんであれば、たぶん有野は沢口さん本人には会えなかっただろうな。まあ押しかけたとしても、沢口さんは母親と暮らしているから……もし母親が在宅中だったら、さすがの有野もその母親に一喝されて引き下がるしかなかった、なんて可能性もあるね。ていうか沢口さんは、おれの知らないところで金子さんに会っていたかもしれない」

「確かに金子さんは沢口さんにしつこくしていました。でも金子さんは、藤田さんと付き合っていたはずです」

「有野が言ったのか?」

 憤りが宿った声だった。

 伏せておく必要性は感じられず、正直に「はい」と答えた。

「あいつめ、しょーがねーな」坂井はあからさまにため息をついた。「そうだよ。金子さんと藤田さんは付き合っていた。でも藤田さんは、社内恋愛が周囲に知られることを避けたかったらしい。そこで、金子さんが藤田さんの前で沢口さんにしつこくする、という芝居が始まったんだ」

「芝居……つまり、偽装……」

「藤田さん本人が金子さんと沢口さんに頼んで始まったことなんだよ。でも、それが金子さんの付け入る隙でもあったわけだ。あの人、元から女好きだしさ。藤田さんとしては、自分で言い出した手前、我慢するしかなかったんだろうね。そんな事情は、おれや一部の社員しか知らないことだけどさ」

 しかたなく打ち明けたにしては得意げな言い回しだった。

「藤田さんを邪魔に思った金子さんが、その藤田さんを殺害した、と坂井さんは言いたいんですか?」

「順当な推測さ」坂井は答えた。「でも殺人を犯したという現実に気づいて怖くなってしまった、とかね。まあ、君やおれも含め、周りの人間は気をつけないと巻き込まれる可能性がある、ということだよ。深入りはしないほうがいい」

 昨日の唯には事件に巻き込まれた様子などなかったが、彼女と会ったことを坂井に伝えるのは賢明でないだろう。それでも有野が不憫でならず、声を荒らげてしまう。

「坂井さんと同じ会社の人が、無残に殺されたんですよ。しかも、やはり同じ会社の社員が、その事件の犯人かもしれないんです。まして有野は坂井さんの高校生時代の後輩じゃないですか。どうしてそんなに落ち着いていられるんですか? 坂井さんは有野が心配じゃないんですか?」

「心配はしているけど……」

 坂井は口を濁した。

「心配なら、何か行動を起こすべきです」

「でもさ、おれたちは素人なんだよ」口調が一変した。開き直ったようだ。「それに、おれが騒がなくても、このまま有野が戻ってこなかったら、有野の会社か有野の実家の両親が、警察に捜索願を出すよ」

 まるで他人事である。後輩の面倒見がよいとは、とても思えない。

「有野の両親は、有野が欠勤していることをまだ知らないんですよね?」

「いくらなんでも、それは有野の両親に訊いてみないと。……あっ、それより、あいつの実家は茨城だから……ていうか、有野とは同じ高校だったおれも、茨城出身だけど」

 電話の向こうで失笑が入った。

 ――何がおかしいんだ。

 雅彦は非難の声を上げそうになるが、坂井は話を続ける。

「実家が茨城ということは、群馬から回り道してその実家に寄っている、という可能性も考えられるね。有野は車の免許がないからレンタカーさえ無理……ということは、電車やバスだろうし、実家に寄るとなると、結構時間がかかるじゃないか。そのうえスマホのトラブルなんてあったとしたら、さも失踪したような状況になるんじゃないかな。どうせそんな程度だと思うよ。有野の安否が気になるんだったら、有野の実家に連絡するべきだね。仮に有野が実家に寄っていなかったとしても、有野の両親が有野の欠勤を知っているかどうか、訊くことができるし」

 坂井自身は有野の実家に連絡を入れるつもりはないらしい。

「坂井さんの言うとおり、有野が実家に寄っている可能性はあると思います。でも……だからって、有野の実家には連絡できませんよ」

 有野の母は病弱のため自宅で伏せっていることが多いという。それは有野からすでに聞いている。そんな母堂に現状が伝われば、相当なショックを与えてしまうに違いない。たとえ有野の父だけに伝えることができたとしても、有野の母にまで伝わってしまう可能性はある。しかも、それで有野が無事だとしたら、本末転倒の事態に陥るかもしれないのだ。

「どうして有野の実家には連絡できないの?」

 問われたが、雅彦は口ごもってしまった。坂井は有野の母の状況を知らないらしい。これ以上は何を話しても無駄だろう。

「じゃあ、切るよ」坂井は言った。「まだ食事中なんだ」

「はい、お忙しいところ――」

 雅彦が言い終えないうちに通話は切られた。

 耳から離したスマートフォンを見つめつつ、唇を嚙み締める。

 あのときの有野の熱さが、今ではわかるような気がした。

 否、今の雅彦は間違いなく熱くなっていた。


 昼休みが終わってすぐに雅彦は決心した。明日からの四日間を有給休暇にすることにしたのだ。土曜日と日曜日も合わせれば六日間の連休となる。前日の提出となってしまうが、一年ぶりの有給休暇だ。気後れはなかった。

 営業部の担当者に電話で罵声を浴びせ終えたところに休暇届を出された上司は、面食らった様子だった。「実家の都合」という単純な理由で四日間の連続有休ともなれば、なおさらだろう。

 それでもなんとか承諾され、雅彦は胸をなで下ろした。そして埋め合わせの残業をしようとしたが、上司に「定時で帰れ」と告げられてしまった。今日の自分の状態を顧みれば上司の言葉も得心がいく。どうやら、有給休暇の理由を体調不良と見なしたらしい。

 上司の気遣いはうってつけだった。出陣には準備が必要だ。

 夕方の五時になり、雅彦はビジネスバッグを持って立ち上がった。

 たまたま通りかかった青田が、その雅彦の前で立ち止まった。

「大谷と明日からしばらく会えないなんて、寂しくなるなあ。旅行にでも行くのか? 彼女なんているわけないだろうし、一人旅?」

 無論、青田には有給休暇の件など伝えていない。雅彦と上司とのやり取りを盗み聞きしたか、ほかの誰かから聞いたのだろう。

「おまえ、うざいんだよ」雅彦は一歩前に出ると、青田と胸を突き合わせた。「さっさと道を空けろ」

「え?」

 青田は眼鏡の奥の目を丸くした。

 周囲が静まり返る。

「聞こえなかったのか? その耳は飾りか? そんなはずはないよな。おれの連休を知っているということは、耳ざといということだもんな」

 雅彦が声を荒らげると、青田はようやく横にのいた。

 ――有野はおれが捜し出す。

 決意を新たにし、雅彦は職場をあとにした。


 知らない街から街へと、金子は歩き続けた。

 気づけば大都会の喧噪から遠く離れていた。

 日はすでに暮れており、街灯に静かな明かりが灯されていた。

 閑静な住宅街だった。人通りはないが、家々からは団らんの声が漏れている。

 見覚えのない道を警察官の一人にも遭遇することなくここまで来られたのは、決して偶然ではない。金子はそう理解していた。

「早苗を……殺してしまった……」

 歩きながらつぶやいた。だが、記憶は定かでない。早苗のぶんと自分のぶんのホットコーヒーを手にしてコンビニエンスストアから出たところまでは、確かに覚えている。確信があるのはそこまでだ。その後は、ふらふらと街中を歩いていたような気がする。警察官に声をかけられて任意同行を求められたようだが、もう覚えていない。取調室から逃げ出すときに警察官の一人を殴ったのも、自分の意思ではなかったような気がするくらいだ。

 身も心も疲れ果てていた。すでに限界に達している。足が棒のようだ――それどころか、足の裏が激痛に襲われていた。

 痛みは増すばかりなのに足が止まらない。女の声がそれを許してくれない。

「そこを左……そして次は、右……」

 耳元で囁く女の声によって否応なしに引きずり回されているのだ。路地、鉄道高架下、河川敷、林の中、藪の中――警察の追跡はおろか、好奇の目をも避ける、そんな道のりだった。

 スーツの上着は汚れていないが、スラックスと革靴は泥だらけだ。誰かに見られたとすれば、引きずる歩き方も加味し、まともな状態とは受け取ってもらえないだろう。不審者として通報されるかもしれない。

「謝ってやろうとしたのに……アパートの近くまでわざわざ出向いてやったのに……それなのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないんだよ」

 いくら悲憤慷慨しても答えは返ってこない。

 また怒らせてしまった――そう感じた。

「今のは……撤回する」

 ひたすら詫びるべきなのだ。それを悟ったが、意識がもうろうとし始めていた。

「おれが悪かったよ」

 ありふれた言葉になってしまった。ごみくずのように落ちぶれた精神では気の利いた台詞など呼び起こせない。

 歩きながら街灯の先の闇を見つめた。

「なあ……おまえは早苗なんだろう? おれがおまえを殺したんだろう?」

 姿は見えないが近くにいる。だから尋ねた。

 やはり、答えはない。

「全部、おれが悪かったんだ。度がすぎたんだ」

 女癖の悪さを認めた。そして、そんな性癖を変えられなかったことを悔やんだ。

「頼むよ……もう、休ませてくれ……」

 涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになっているはずだが、いつもの気位の高さはとうに失せていた。この醜態を隠そうという気力さえ湧いてこない。

 いつの間にか住宅街を抜けていた。野原の中の一本道だった。周囲は闇に飲まれ、民家や街並みは窺えない。

 乾いた土を一歩一歩踏み締めつつ、前方の暗がりに目を凝らした。

 誰かが立っていた。

 その誰かと対峙するのが凶事に思えてならないが、足は自分の意に反して前へと進む。

「早苗……早苗だよな?」嗚咽が止まらなかった。「早苗……おれは……おれは、どうすればいいんだよ?」

 しかし暗がりに立つ者は、金子の問いに答えなかった。そしてその者の姿が、歪んで大きく膨らんだ。

「ああ、やっぱり早苗だったんだ」

 金子は言った。


 パジャマに着替えた須藤が寝室の照明を消そうとしたとき、スマートフォンの着信が鳴った。枕元のそれを見下ろせば、画面に「佐々木」と表示されている。ため息をつき、須藤はスマートフォンを手にした。

 須藤が通話状態にするなり、佐々木の声が放たれる。

「あー、もしもし」

「おい佐々木、今度は夜中かよ。もうすぐ十二時だぞ」

「寝ていたのか?」

「寝ようとしていたところだよ。それで、どうしたんだ?」

「どうしたもこうしたもねーよ。須藤、テレビのニュース、見ていないのか?」

 尋ねられたが意味が読めず、須藤は首をかしげる。

「テレビ? ネットのニュースなら……たまに見る」

「なんだ、まだ知らないのか」

 佐々木は呆れたように言葉を吐いた。

「何をだよ?」

「あの女が殺されたんだよ」

「はあ? ニュースっていうか、ドラマの話?」

「そうじゃなくて、藤田っていう女だよ。あの女が殺されたんだ」

「藤田……あの女が……マジ?」

 須藤は目を丸くした。ボケやツッコミを口にできる状況ではない。

「マジだよ」佐々木は答えた。「先々週の火曜日の朝に、遺体となって発見されたんだってよ」

「先々週だ? そのニュース、いつ見たんだよ?」

「さっき」

「先々週の事件を、今日、報道するってか?」

「ていうか、続報だな。重要参考人としていったん任意同行した男が、逃走して、そいつがまだ見つかっていないんだってさ」

「そいつって、まさか、大谷?」

 軽率とは承知しつつ、容疑者と結びつけてしまった。とはいえ、そんな安易な推理を楽しんでいるわけではない。

「大谷じゃなかったよ。警察官を殴って逃走したから、容疑者として名前が公表されたけど、なんていったかな?」

「ていうか、大谷でないのは確かなんだな?」

「大谷を心配してんの?」

「同窓生から犯罪者が出るなんて、気分が悪いだろう」

「まあ、楽しくはないな」

 同意を得られ、須藤はわずかに安堵した。付き合いがないとはいえ、同窓生を犯罪者扱いして楽しいはずがない。

「で……」と仕切り直し、須藤は改めて尋ねる。「殺された藤田っていう被害者は、本当にあの女なのか? そんな名字、ありふれているんだぞ」

「ニュースで公表された年齢はおれの一つ下だったけど、誕生日がまだ来ていないだけだろうから、同級ということで、大谷の大学生時代からの友達という線では合うよな」

「そうじゃなくて、ニュースで被害者の顔写真とか出なかったのかよ。佐々木はその藤田っていう女に会っているんだから、同一人物かどうか、それで判断できるじゃん」

「あ、そうそう、同じ顔だったよ」

 答えが簡単なだけに、須藤は煩わしさを払拭できなかった。思わず本音をぶちまけてしまう。

「だからばかなんだよ」

「ばかばかって言うなよ」

「とにかく」再度、須藤は話を仕切り直す。「佐々木が会った藤田っていう女が、殺されたに違いないんだな?」

「そうだよ。だから心配なんだ。おれたち大丈夫かな」

「何を心配しているんだ? おれたちまで殺されるかもしれない、とか?」

「うん。容疑者は逃走中で、どこにいるかもわからない。そしておれたちはあの女とかかわっている」

「おれは合っていないし。ていうか、直接会ったのは、佐々木、おまえだけみたいだよ」

 折にふれ、連絡の取れる友人たちに確認を取ったのだ。その結果を口にしただけである。

「やっぱり、おれだけだったのか」

 動揺を呈した声だった。

「そんなに心配なら、警察に相談してみるとか」

「それも嫌だよ」

「わがままだなあ」

「だって、あの女とかかわっているんだから、参考人として事情聴取されるかもしれないじゃん。それに、あの女がおれたちの連絡先をスマホに残している可能性もあるんだ。直接会ったおれなんか、怪しまれて当然だよ」

「佐々木は罪になるようなことなんて何もしていないじゃん。それに佐々木としては、あの女にかかわっているから心配なんだし……だったら、かかわっていることを隠したらだめだろう。警察に何を訊かれても堂々としていればいいんだよ」

「堂々となんて、できないよ」

「なんで?」

「罪になるようなことをしたから」

「はあ?」

「この前、買い物に車で出かけたら、スピード違反でつかまった」

「あのな……それは関係ないだろう。ばかっていうか、おおばかだな」

 それ以上の言葉は用意していなかった。佐々木は何かを言いかけたようだが、須藤はすぐに通話を切り、スマートフォンの電源も切ってしまう。そして部屋の照明を落とした。

「もう知らん」とつぶやき、ベッドに潜り込んだ。

 佐々木と付き合っている自分のほうこそが、ばかに思えた。


 雅彦は雑木林の中の小道を走っていた。

 どんよりとした空が枝葉の間に垣間見えた。木漏れ日こそないが明るさは十分だ。もっとも、落ち葉や地面の凹凸に足を取られ、思うようには進めない。

 何かに追われているのだが、それが何かはわからなかった。振り向けばわかるのだろうが、そこまでの勇気は持ち合わせていない。

 不意に空が開けた。

 前方に雑木林はあるが、左右には今の今まであったはずの雑木林がない。消えた雑木林の代わりにススキや雑草がはびこっていた。

 走りながら振り向いたが、やはり雑木林はなく、ススキや雑草ばかりだ。そのうえ、追ってきたはずの何かもいない。

 正面に向き直ると、雑木林の手前に一本のクヌギが生えていた。幹には注連縄が巻いてある。そのクヌギが生えている一帯は、土が剝き出しの円形の広場だった。

 広場の中央に、白いブラウスにベージュのスカートという姿の女が立っていた。まっすぐに雅彦を見つめている。

 石原真央だ。

 思わず足を止めた。

 五メートルほどの間隔を開けて石原真央と対峙した。

 雅彦に向けて石原真央が右手を突き出した。その手に果物ナイフが握られている。

「どうしておれを殺そうとするんだ?」

 追っ手は消えたのだから、きびすを返して逃げ出すべきなのだろう。だが雅彦は、石原真央の言葉が聞きたかった。

「君は、石原真央なんだろう?」

 続けざまに尋ねたが、石原真央は口を開かなかった。

 突然、何かが雅彦を羽交い締めにした。

 見れば、赤黒く膨れ上がった二本の腕――否、二つの肉塊が、雅彦の左右の腋に通されていた。

 雅彦はもがいた。しかし肉塊の力は尋常ではなく、振り払うことができない。

 石原真央が足を踏み出した。ナイフの切っ先を雅彦に向けたまま、ゆっくりと近づいてくる。じわり、じわりと、確実に近づいてくる。

 草木がざわめいた。風は吹いていない。

 ナイフの切っ先が雅彦の左胸にふれんばかりとなった。

 もう一度よく見れば、ナイフを握っているのは石原真央ではなかった。雅彦を羽交い締めにしている異形と同類らしきもの――赤黒く膨れ上がった肉塊である。肉塊の本体から伸び出ている細長い部位が、ナイフを握っているのだ。

「誰なんだ?」

 雅彦が声を漏らした直後、ナイフの切っ先がまっすぐに突っ込んできた。

      *      *      *

 雅彦はベッドの上で上半身を起こした。声を上げたか否か覚えていないが、息が乱れている。

 石原真央の姿が夢に現れたのは初めてだった。飛火石へ向かう直前とあって神経が高ぶっているのかもしれない。

 ふと思う。石原真央が夢に現れたのは本当にこれが初めてなのだろうか、と。しかし、以前にも石原真央が夢に現れていたとしても、自分の脳内で作り出された架空の人物とは限らない。結論を出すのは時期尚早だ。

 枕元の目覚まし時計を見ると午前二時三十二分だった。予定の起床時間にはまだ早いが、余裕を持って始発の列車に乗るには、むしろ都合がよい。

 雅彦はベッドから起き上がった。

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