第1話 ②

 待ち合わせの場所は、例の家電量販店に近い地下街だった。雑踏に揉まれて駅の地下改札からそのまま地下街へと進む。

 イベント広場に入ると、足を止めることなく腕時計を見た。午後五時二十六分だ。約束の五時半には間に合ったようだ。

 見れば、広場の片隅のベンチに早苗と唯が腰を下ろしている。雅彦に気づいたらしい早苗がベンチから立ち上がった。唯もしずしずと立ち上がる。

 ナイフと赤黒く膨れ上がった右手が脳裏に浮かび、一瞬、雅彦は躊躇した。しかしかぶりを振り、人々を縫って進んだ。

「やあ、待ったかい?」

 そう声をかけながら、雅彦は二人の前で立ち止まった。

「ううん。あたしたち、二、三分前に着いたばかりなの」

 早苗が答えた。

「そうか。じゃあ、近くの喫茶店にでも入ろうか」

 雅彦は提案したが、早苗は片手を軽く振った。

「あたしはもう行くから、あとは二人で、ね」

「ええっ?」思わず声を上げてしまった。「藤田さん、もう行っちゃうの?」

 唯が雅彦に会いたがっていた、ということだったが、仲介者のあまりにも早い退場宣言には狼狽するしかない。

「何言ってんのよ」ぐいと、早苗が雅彦に顔を近づけた。「あたしがいたって、邪魔なだけなの。男なんだからしっかりしなさい」

 そして早苗は、唯に顔を向けた。

「大丈夫だよ。この前も言ったけど、大谷くんは見た目にたがわず優しい人だから」

「なんだよ、それ」

 そう言って雅彦は、渋面を呈した。早苗としては持ち上げてくれたのだろうが、頼りない男、というニュアンスが含まれている気がしないでもない。

「はい。藤田さん、ありがとうございます」

 肩をすぼめた唯は、頬を紅潮させていた。

「じゃあ、頑張ってね」

 ショルダーバッグを揺らして早苗は背を向けた。

 その彼女の前にスーツ姿の男が立っていた。早苗の仕事仲間の――あの男だ。

「あ――」

 早苗が声を詰まらせた。

「奇遇だね、こんなところで会うなんて」

 男は口元に笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

「でも」早苗は口を開いた。「残業だったんじゃないんですか?」

「予定より早く済んじゃってさ。買い物でもしようかと思ってね」

 そう返した男は、固まったままの早苗の横をすり抜け、雅彦の前に立った。

「藤田さんとは大学生時代からの友人なんだってね」男は口にしながらビジネスバッグを小脇に抱えると、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。「この前の飲み会で、彼女たちの会話が耳に入っちゃったんだよ。大谷さん、だよね?」

「はい」

 答えた雅彦は、差し出された名刺を受け取った。

 ――金子かねこ信也しんや

 名刺を確認した雅彦も、内ポケットから名刺入れを取り出した。

「ふーん」雅彦から受け取った名刺に視線を落としつつ、その男――金子は尊大な趣で鼻を鳴らした。「一流の商社じゃないか。しかも経理……総合職だ。大谷さんって優秀なんだな」

 ふと見ると、唯の表情も固まっていた。早苗以上に緊張しているらしい。

「一介のサラリーマンですよ」

 金子の言葉を軽くいなし、受け取った名刺を名刺入れに収めた。

「ご謙遜を」

 金子も雅彦の名刺を名刺入れに収めた。そして彼は、名刺入れを内ポケットに戻しながら唯に顔を向ける。

「沢口さん、今から時間、空くかな? 一緒にお茶なんてどう?」

「えっと、あの……」

 声を上ずらせた唯が、金子から目を逸らした。

「金子さん」早苗が語気を強めた。「唯ちゃんは今から大谷くんと大事な話があるんです。かまわないでくれませんか」

「大事な話?」

 早苗を横目で見た金子が、わずかに眉をひそめた。

「本当です。金子さん、ごめんなさい」

 唯が金子に向かって頭を下げた。

「そういうことね」金子は頷いた。「お呼びでないわけか」

「金子さん」差し出がましいとは思いつつ、この場を収めるためにも雅彦は言う。「気を悪くしないでください」

「君こそ気を遣わなくていいんだよ。じゃあ、また」

 そう言い残し、金子は人波の中に消えていった。

「藤田さん、金子さんにあんな態度を取って大丈夫なのか? 職場の仲間というより、先輩なんだろう?」

 雅彦は名刺入れをポケットに戻しつつ早苗に尋ねた。やり取りから察するに、金子が早苗の先輩であるのは間違いない。

「いいのよ。いつかははっきり言おう、と思っていたんだし」

 鼻息を荒らげて早苗は答えた。

「そうなんだ……」

 普段からの問題なのだろう。あえて詮索はしなかった。とはいえ、金子への自分の言い繕いが妙に意に染まない。金子の言うとおり、気を遣わなくてもよかったような気がしてしまう。

「それより、今の横槍で唯ちゃんが沈んじゃったんじゃないか、って心配だよ」

 言いながら、早苗は唯の顔を覗いた。

「わたしは平気ですよ」

 苦笑した唯がかぶりを振った。

「あんまり我慢しないでね」

「はい」

 まるで、仲むつまじい姉妹だ。

「あたし、金子さんの歩いていったほうへ行ってみる。あの人、どこかに隠れているかもしれない。ていうか、あなたたちの様子を覗き見するかもしれないじゃない。……あの人がここに来たのは、偶然なんかじゃないわよ」

「まさか」と雅彦は笑うが、唯は神妙そうに頷いた。


 雅彦と唯は地下街の喫茶店でテーブルを挟んで席に着いた。

「嫌な思いをさせてしまいました。すみません」

 唯は詫びると、ショルダーバッグを自分の背中と椅子の背もたれとの間に滑り込ませた。

「沢口さんが謝る必要はないよ。それにしても、金子さんって、いつもああなのかい?」

 尋ねた雅彦は、ビジネスバッグを椅子の脚に立てかけた。

「いつもではないんですけれど、ときおり、ああやって誘ってくるんです」

「なら今回は、嫉妬したのかもしれないね」

 半ば冗談のつもりだったが、唯は視線を落とし、顔を曇らせた。

「なんというか……」

 濁した言葉尻を受け、雅彦は問う。

「沢口さん、大丈夫なのかい?」

「え?」

 我に返ったかのように、唯は雅彦に視線を戻した。

 その直後、ウェイトレスが二人ぶんの水を運んできた。二人ともホットコーヒーだけを頼んだ。

 ウェイトレスが立ち去ると、雅彦は口を開いた。

「職場の先輩がそういう人では毎日がストレスだろうな……って思ってさ」

「大丈夫ですよ」唯は苦笑した。「わたしはもう慣れました」

 苦笑というより不自然な笑みに見えた。

「慣れたにしてもさ、飲み会であの人と一緒にいるのは、大変だろうね」

「そういえば……先週の飲み会で、金子さんが大谷さんのことを藤田さんにしつこく訊いていたんです。あの男はどこの誰なんだ、って。藤田さんはしぶしぶ答えていました。だから、飲み会で会話が耳に入っただなんて、まったくのうそですよ。もし……本当に大谷さんに嫉妬しているのだとしたら、勘違いも甚だしいです」

 普段の鬱憤を吐露したのだろうが、口調は穏やかだった。記憶の中の右手から受けたような「殺意」は感じられない。

「勘違いということは」雅彦は唯を見つめた。「沢口さんはおれに話があるということだったけど、付き合ってほしいとか、そういうことではないんだね?」

 ぶしつけであるのを承知しつつ尋ねると、唯は動揺を呈した。

「あ、あの……藤田さんはなんて言っていたんですか?」

「沢口さんの用件はたぶんそんなことじゃないかな、ってさ。まあおれは、違うと思っていたけど」

「大谷さんの予想どおりです」唯は安堵した様子で首肯すると、居住まいを正した。「あのとき、大谷さんはわたしを誰かと間違えましたよね?」

「うん」と答え、テーブルの上に指で「石原真央」と明確に記した。

「石原真央……」言葉にした唯がテーブルから視線を上げた。「その石原真央という人が、わたしに似ているんですか?」

「なんと答えていいのかわからないけど、たぶん、似ているんだと思う」

 間違いなく似ているのだ。しかしどこの誰なのかわからないのでは、断言する気になれない。夢の記憶を現実と履き違えているだけなのかもしれないのだ。夢の中でいい加減に創造した「石原真央」なる曖昧な姿を、出会ったばかりの唯の姿と図らずもすげ替えてしまった――ということである。

「たぶん、ですか?」

 唯は首を傾げた。無理もないだろう。

「そんな名前で呼ばれて、やっぱり気になるよね」

「世の中には自分と瓜二つの人が三人はいる、だなんて何かで読んだことがあります。わたしにそっくりな人ってどんな感じなのか、正直なところ、気になりました」

「だから、おれに会って話を聞いてみよう、と思ったの?」

「はい。それに、藤田さんの話で、大谷さんの誠実そうな人柄が窺えたんです。わたしみたいな乗りの悪い人間でも分け隔てなく相手にしてくれる、と思いました」

 唯も雅彦に対して同類のにおいを感じたのかもしれない。だが雅彦は、不愉快ではなかった。むしろそのほうが話しやすい。

「つまり、自分とそっくりな人のことをきちんと教えてくれるだろう、って?」

「そうです」

「でもね……」もう期待させないほうがよいだろう。事実を打ち明けることにした。「石原真央がどこの誰なのか、おれとどんな関係があるのか、まったくわからないんだ」

「どういうことなんですか?」

 やはり虚を突かれたらしい。

「沢口さんを初めて見たとき、ふと脳裏に浮かんだんだ。沢口さんとそっくりな石原真央という女性がね」

「それなのに、顔と名前以外は何もわからないんですか?」

「どこかで会ったような……そんな気はするんだ。はっきりしたことはわからないんだけど、脳裏に浮かんだ石原真央は、山ばかりのところに立っていた。その石原真央は、長い黒髪で、白いブラウスにベージュのスカートだったよ」

 ナイフと異様な右手の件には、あえてふれなかった。

「なら、大谷さんは石原真央さんと会っていた、と思えますが」

「でも、なんというか……実感が湧かないというか……」

「実感が……そうなんですか」

 途方に暮れた声だった。とはいえ、途方に暮れるのは雅彦も同じである。

「夢で見た情景に意図せず沢口さんの姿を埋め込んでしまっただけなのかもしれないし、もしくは、石原真央という女性に実際に会っていたのに、その記憶が抜け落ちてしまったのかもしれない」

 雅彦は言うと、水を一口飲み、テーブルに視線を落とした。

「情けない話だよ」雅彦は自嘲した。「気を引くためにわざと人違いをしたとか、ただの軟派野郎だった、なんて沢口さんに思われてもしかたがない」

 しかし、唯は首を横に振る。

「大谷さんはそんなことをする人ではない、と思います。それに、あのときは藤田さんが一緒にいました。軟派だなんて、できる状況ではなかったはずです。金子さんならできるかもしれないけれど」

 最後に失笑が入った。

 雅彦は視線を上げる。

「自分の脳裏に浮かんだ人物なのに、どこの誰なのかわからない……まさか、こんな話を信じてくれるなんて」

 溜飲が下がっただけでなく、唯の鷹揚さに感服した。

「ありうることだと思います」唯は言った。「特に夢なら、よくあることかもしれませんよね。記憶が抜けているのだとしたら、ちょっと怖いですけれど」

「怖い?」

「現実だったとして……大谷さんと石原真央さんとの間に何があったのか、気になりませんか?」

「それは気になるけど」

 雅彦の脳裏でナイフの切っ先が光った。

「わたしもなんだか、気になってしまいます」

 唯のはにかんだ顔はナイフの光を一蹴するほどまぶしかった。

 目を逸らすタイミングを失い、軽く微笑み返す。

 次の言葉を探していると、頃合いよく、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。

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