淫祠の女

岬士郎

第1話 ①

 枝葉の間に覗くのは灰色の冷たい空だ。雑木林の中はその空よりさらに陰鬱であり、鳥のさえずりも風の音もなく、ほの暗さに満ちている。

 落ち葉を踏み締める足がわずかに重かった。ジーンズの固さもうっとうしい。なのに、右手に持つ血まみれの果物ナイフはやけに軽く、爽快さを与えてくれる。

 うめき声がした。

 若い女は立ち止まり、おもむろに振り向いた。

 白装束を纏った中年の男が小刻みに震えながら這いつくばっていた。彼の胸元は赤くぬれており、白髪交じりの髪は乱れ放題だ。両手で落ち葉と土をかきむしり、憎悪の目で若い女を見上げている。

「あ……あう……」白装束の男は息も絶え絶えだった。「こんなことをして……ただでは済まされ……ない……」

 往生際の悪さがしゃくに障った。若い女はきびすを返して男に近づき、薄汚れた運動靴で白装束の脇腹を思いきり蹴った。

「うっ」と声を漏らした男は、身を丸めるなり沈黙した。

 焦燥も高揚もない。怠慢があるだけだ。

 若い女は口を開く。

「あなたたちが敬ってやまないあれは、もうとっくに来ているのよ。残念だけど、あれはあなたたちの味方なんかじゃないわ」

 粛正のときが来たのだ。

 動かなくなった男に背を向け、若い女は雑木林の奥へと歩き出した。


 定時で仕事を済ませた大谷おおたに雅彦まさひこは、ビジネスバッグを手にし、席から立ち上がった。職場の先輩に「今から飲みに行かないか?」と誘われたが、やんわりと断った。

 この一連のやり取りは毎度のことだ。雅彦はもともと自己主張しないタイプだが、酔うとますます無口になる。飲み会には向かないたちなのだ。そのため、誘う側も誘われる側も形式的な受け答えをしてから週末のアフターファイブを迎えていた。

 もっとも、雅彦にとっては久しぶりの週末の定時退勤だ。なおのこと、一人の時間を満喫したい。気になっているタブレット端末を家電量販店で物色してから居酒屋で軽く一杯、という流れもよいだろう。足繁くかよっている家電量販店は、帰路の電車を一区間だけ乗り、途中下車した駅を出ればすぐ目の前だ。その家電量販店の裏には、居酒屋が軒を並べる飲み屋街もある。今日のこれからの予定は決まったようなものだ。

 席から離れようとした雅彦は、向かいの席で書類の片づけをしていた青田あおたと、意図せず目を合わせた。

 飲み会に毎回出席しているこの青年は、手を休め、眼鏡の奥の瞳に嘲笑を浮かべた。

「大谷も立派な社会人なんだからさあ、少しは付き合いに慣れろよ」

 しかし、同期のそんな態度にも雅彦は動じなかった。

「青田くんと違って、おれは不器用だからさ」

 即座にへつらいの笑みを返された青田は、呆れたように肩をすくめ、書類の片づけを再開した。

 青田は雅彦と同期入社というだけでなく、仕事の能力も雅彦と互角だ。それなのにこの男は、日々、雅彦の控えめな性格につけ込んでは虚勢を張っていた。少なくとも雅彦はそう受け取っている――受け取っているのだが、腹立たしさは感じなかった。温和かつ消極的な性格である、と雅彦が自覚しているのだから、問題はないだろう。

 社屋を出てふとビル街の空を見上げれば、鰯雲が夕日に照らされていた。こんな都会でも分け隔てなく季節は移ろう。もっとも、ここの空は故郷で見る空よりはるかに狭い。

 五分ほど歩いて駅のホームに立つと、タイミングよく電車が滑り込んできた。

 家電量販店の前に着いたのは、職場をあとにしてからほぼ二十分後だった。

「大谷くん」

 店内に入ろうとした雅彦は、不意に背後から呼びかけられた。声からすると、若い女のようだ。

 振り向いた雅彦の前に見覚えのある顔があった。

藤田ふじたさんじゃないか」

 ショートボブにスカートスーツの彼女は、大学の同期であり、ボランティアサークルの仲間でもあった藤田早苗さなえだ。

「大学の卒業式以来……三年ぶりじゃん。社会人の男っていう感じになったね」

 早苗は破顔した。

「そんなことないよ。藤田さんこそ、なかなか決まっているじゃないか」

 おべっか混じりではあるが、あながち的外れでもない。キャリアウーマンたる風体は元来の男勝りが際立っているかのようだ。

「それって褒め言葉?」

 笑顔を崩すことなく、早苗は訝りの目を向けてきた。

「もちろんだとも」と苦笑した雅彦は、話を逸らしてみる。「ところで、藤田さんの勤め先って、この辺なのかい?」

「ええっ、知らなかったの?」早苗は渋面を呈した。「あたしの就職先、教えたはずだよ。そういや、卒業以来、メッセージを二、三回やり取りしただけだったもんね」

 どうやら墓穴を掘ったらしい。仕事にかまけてメッセージアプリの返信を送らなかったのは雅彦のほうだった。その件も含めて雅彦は頭を下げる。

「ごめん」

「まあ、いいよ。とりあえず、あたしは大谷くんの就職先をちゃんと覚えていたからね」

 呆れ顔で言う早苗の背後に、ビジネスマン然とした一人の男が近寄った。背格好も見た目の年齢も雅彦とさほど変わらない。

「藤田さん、話し中のところ悪いけど、そろそろいいかな?」

「あ、すみません」早苗はその男に詫びてから雅彦に顔を向け、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「今から職場の仲間と飲み会なの。といっても、若い三人だけでね。おじさん連中とか上司とかは抜き」

 見れば、男の背後にポニーテールの若い女が立っていた。早苗と似たような装いではあるが、その早苗に比べて確実に肌が白い。

 早苗と同様、彼女の顔も雅彦は知っていた。名前だって知っている。

「君は……そう、真央まおさんだ。石原いしはら真央さんだろう?」

 しかし若い女は、一歩、あとずさった。その顔に驚愕の色がありありと浮かんでいる。

「おい君」早苗の同行者の男が割って入った。「この子はそんな名前じゃない。失礼じゃないか」

「え……でも……」

 なおも食い下がろうとすると、早苗に肩を軽く叩かれた。

「大谷くん、どうしちゃったの? 本当に人違いだよ。他人のそら似なんじゃない? この子はね、あたしの職場の後輩なの」

 首を傾げる早苗に視線を戻し、雅彦は曖昧に頷く。

「ああ……うん、人違いみたいだな」

 そして、あとずさった女に向かって「すみませんでした」と頭を下げた。こわばった表情の女も、軽く頭を下げる。

「じゃあ、行くね。あとで連絡するから」

 言い繕った早苗は、二人の連れを促して飲み屋街のほうへと歩き出した。

 男の警戒するような横目と若い女の怯えきった横顔が、早苗の「さあさあ、今日は浴びるほど飲もう」という声に扇動され、遠のいていく。

 三人の背中が雑踏の中に見えなくなると、腑に落ちないまま、雅彦は店内に足を踏み入れた。

 ――石原真央って、誰だっけ?

 動悸を感じた。

 店内の照明がなんとなく薄暗く感じられた。


 期待していた機種がなかったため、タブレット端末の購入は見送った。居酒屋へ行くのも、あの三人と顔を合わせる可能性を考慮して断念した。

 マンションに帰った雅彦は居間の片隅にビジネスバッグを置くと、上着とネクタイをハンガーにかけ、カーペットに腰を下ろした。そして、目の前のローテーブルにコンビニ袋の中身を並べる。缶ビールが二本にサンドイッチ、サラミ、チーズ――それらのメニューを一顧し、深いため息をついた。

 一人宴会には慣れている。今さら「寂しい」などと嘆くつもりはない。だが、この暗鬱な気分はどうにも払拭できなかった。

 缶ビールに伸ばしかけた右手をローテーブルの上に置いた。

 ――石原真央。

 あの女の顔を見た瞬間、その名前が頭に浮かんだ。顔も名前も記憶にあるのだ。なのに、自分とどんな繫がりがあるのか、まったく思い出せない。もっとも、早苗とあの男が否定したのだから、雅彦がどうあがこうと人違いなのだろう。

「いや……」

 あの女の様子を想起し、雅彦は眉を寄せた。雅彦が「石原真央」と口にするなり、あの女は平静を失ったではないか。

 雅彦はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。アドレス帳を開き、藤田早苗の名前を見つける。

 電話番号をタップする直前で思いとどまった。おそらく、早苗に何を訊いてもわからないだろう。早苗は「人違いだよ」と断言していたのだ。それに今頃は、早苗たちは飲み会で盛り上がっているはずである。水を差すのは控えたい。

 気分転換が必要なのかもしれない。酒の力を借りてでも、である。

 スマートフォンをローテーブルの上に置き、缶ビールのプルタブを開けた。ついでにテレビを点け、ニュース番組にチャンネルを合わせる。最初の一口を喉に流し込みながら前都知事公金横領問題のニュースを遠くに聞いた。


 窓の外のビル街に日が昇りつつあった。六階の窓から見る早朝の都会は、土曜日にもかかわらず、すでに躍動し始めていた。

 雅彦はパジャマのままソファにふんぞり返った。深酒をしなかったおかげか、休日の朝にしては珍しく頭が冴えている。

 ローテーブルに置いたままだったスマートフォンを取り、電話やメッセージ類の着信がないことを確認してからニュースアプリを開いた。特に気になる記事はなかったが、画面をスクロールしながら、ふと、昨日の女を思い出す。

 ――あの女、石原真央。

 ニュースアプリを閉じてスマートフォンをローテーブルに置いた雅彦は、目を閉じ、浚渫するかのごとく記憶の底から石原真央の面影を拾い上げた。

 つぶらな瞳、筋の通った鼻、頬から顎にかけてのライン、それらのどれもが昨日の女のものと変わらない。もっとも、記憶の中の石原真央はストレートの黒髪である。さらに今になって、白いブラウスにベージュのスカートという姿の石原真央が脳裏に浮かんだ。そんな彼女が辛苦の表情で峻険な山並みを背にして佇んでいる。

 目を開け、左手でこめかみを押さえた。そしてこめかみを押さえたまま、再び目を閉じる。

 晴れ渡った空に接する果てしない稜線と、切り立った深い谷――山間部の広闊な風景が脳裏に浮かぶが、そこがどこなのか、雅彦にはわからない。どこなのかわからないその風景の中で、石原真央は、哀愁を湛えた瞳で静かにこちらを見つめていた。

 さらに場面は展開する。ほっそりとした手が大写しになった。右手だ。その右手に果物ナイフが握り締められている。

 突然、ナイフを握りしめる右手が赤黒く変色した。そして、その手がぶくぶくと膨れ上がっていく。

 たまらず目を開けた。こめかみを押さえる左手がわずかに震えている。

 茫漠とした闇に遮られ、記憶の探求は行き詰まった。


 二日後、月曜日の夜。

 三時間の残業を終えてパソコンをシャットダウンした直後に、スマートフォンの電話の着信が鳴った。駅のホームで耳にする発車メロディーとそっくりの曲だ。画面には「藤田早苗」と表示されている。

 フロアに残っている社員が少ないだけでなく、青田もすでに退社していたため、雅彦は自分の席に着いたままスマートフォンを耳に当てた。

「えっと、あの……こんばんは」早苗にしてはかしこまった言い回しだ。「もしかして、仕事中だった?」

「ちょうど今、帰ろうとしていたところだよ」

「そう。頑張っているんだね。あたしなんて定時で帰って、もうお風呂を済ませちゃったよ。あの……それでね……」早苗は続けた。「明日の夕方、時間、空くかな?」

「そうだなあ、急ぎの仕事は今日のうちに片づいたから、たぶん大丈夫だと思う。でも、急にどうしたんだ?」

 まさかデートの誘いではあるまい。互いに恋愛感情などまったく抱いていなかったのだから。

「ほら、金曜日の子」

「金曜日の子……」

 確認するまでもない。あの女のことだ。

「そう、大谷くんが誰かと人違いした彼女だよ」そして早苗は、あの女を「沢口さわぐちゆい」と告げたうえで用件に入る。「その唯ちゃんが、大谷くんに会いたいんだって」

 雅彦は言葉に詰まった。気づかれぬように生唾を飲み込む。

「どうしたの? 何か問題でもある?」

 訝しむ声だった。

「問題はないよ。ただ、どうして彼女がおれに会いたいのかな、って」

 当然の疑問だ。人違いをされてあとずさった彼女――沢口唯としては、二度と会いたくない、と思うのが当然ではないか。

「あの日の飲み会でね、唯ちゃんにこっそり訊かれたの。あたしと大谷くんがどういう関係なのか」

「え?」

 早苗との関係を尋ねる理由が読めなかった。

「どんくさっ。唯ちゃんはね、大谷くんに気があるんだよ」

 どう考えても無理があるだろう。雅彦は失笑する。

「おれと沢口さんはあの日まで一面識もなかったんだぞ。彼女が自分の気持ちをはっきりと言葉にしたのか?」

「明言したわけじゃないけどね。でも、なんだかお似合いの二人って感じがするんだけどなあ」

「お似合いというのは、どちらも積極的ではない、っていうこと?」

 真っ先に思いついた「自分と唯とに共通するイメージ」だった。

「あははは」いきなり笑われてしまった。「ビンゴだよ。どちらも母子家庭だし、そういうのが関係しているのかもね――あ、今のはオフレコ」

 軽口はまだ健在のようだ。

「聞かなかったことにするよ。とにかく、沢口さんはほかに何か用があっておれに会いたいんじゃないかな」

「そっちのほうがありえないよ。この前会ったばかりの人に、ほかになんの用があるっていうの?」

「まあ、そうだな」

 雅彦は首肯した。早苗の今の言葉は正しいだろう。言い換えれば、知己なら用があってもおかしくはない、ということだ。

「一目惚れっていうことだってあるんだからね。で、どうなの? 唯ちゃんと会ってくれるのかな? それとも……もしかして、彼女とか、いるの?」

「彼女なんて、あれからいないままだけど、とりあえず、明日の夕方は開けておくよ」

 石原真央に関する何かがわかるかもしれない、という根拠のない期待があった。何もしないで煩悶するよりはよいだろう。

「了解してくれてありがとう」早苗は声を弾ませた。「待ち合わせの場所と時間は、唯ちゃんと相談したうえで決めるから。……やっぱり、大谷くんも唯ちゃんに惹かれるところがあったんでしょう?」

「あんまり期待するなよ。おれは今のところ、恋人なんて作る気はないんだ」

 恋人がいた頃もどちらかといえば消極的だった。社会人として生きている今も仕事以外に没頭できるものは特にない。はたから見れば面白みのない人間であるはずだ。この性格はどうやら父譲りらしい。それは母から何度も聞かされている。

「へえ、大学生のときは何人もの女の子を泣かせたくせに」

「付き合ったのは二人だけだよ。それに二股をかけたわけじゃないぞ。一度に一人ずつだった。ていうか、泣かされたのはどっちのときもおれのほう――」

「わかったわかった」早苗は雅彦の言葉を遮った。「とにかく、会うだけ会ってみて。それから、もし大谷くんがその気になれなかったとしても、唯ちゃんに冷たくしないでね。あの子、豆腐メンタルというか、結構めげるタイプなんだ」

「ああ、わかったよ」

「じゃあ、今日中にまた連絡するね」

「うん」

 スマートフォンをスラックスのポケットに入れた雅彦は、ふと、違和感を覚えた。

 自分の消極さを嫌悪する自分――未知の自分を感じた瞬間だった。

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