第1話 ③
翌日の午後九時過ぎ――。
マンションに帰宅して上着を脱いだところで、スマートフォンの着信が鳴った。すぐにスラックスのポケットからスマートフォンを取り出し、「藤田早苗」の表示を確認する。
挨拶もそこそこに早苗が本題を切り出した。
「唯ちゃんの話って、告白じゃなかったんだね」
「ああ。彼女に訊いたの?」
「そりゃあ気になるもの。今日の仕事中に、どうだった、って尋ねたわよ」
「そうか」
雅彦は苦笑した。
「期待させちゃってごめんね」
「気にすることないよ。前にも言ったけど、告白されるとは思っていなかったし。それでも、念のために連絡先の交換はしておいたよ」
「へえ、そうなんだあ」茶化すような口ぶりだった。「じゃあ、まんざらでもなかったわけだね。唯ちゃんもさ、大谷くんのことを、とっても感じのいい人だった、って言っていたから」
「社交辞令だろう」
そう返し、喫茶店での時間を想起した。唯との会話において、雅彦としては特に粉飾したつもりはなかった。しかもコーヒーが運ばれてきてからは、互いの好きなテレビ番組など、差し障りのない話題に終始した程度だった。
「ふーん、社交辞令かあ」得心のいかないような声を漏らした早苗が、「ところでさ」と話題を変える。「大谷くんは唯ちゃんを初めて見たときに、ほかの誰かと間違えたじゃない?」
「あ、ああ」
堂々巡りの問題なのだ。あまりふれたくなかった。
「唯ちゃんはその誰かのことを大谷くんから聞きたかったみたいだね」
「沢口さんが言ったのか?」
「その件についても、告白じゃないのならなんだったの、ってこっちから訊いたよ。だって、あたしはてっきり告白だと思って、そのつもりで段取りしたんだからね。なんの話だったのか、それを知る権利はあるでしょう」
「そこまで立ち入るほうがどうかしている」とは返せず、「そうだね」と相づちを打っておく。
「でしょっ。でもね、大谷くんのプライベートに関することでもある、ということを唯ちゃんは主張するわけ」
わずかに興奮しているようだ。雅彦は憂慮する。
「沢口さんと諍いでもあったの?」
「へ?」と早苗は素っ頓狂な声を上げると、突然、噴き出した。「あははは。ないない、そんなこと。この程度であたしが目くじらを立てるはずがないじゃん」
「大学生のときは、いつもおれに目くじらを立てていたじゃないか」
「大谷くんは別だよっ」
ぴしゃりと言い渡された。
「ごめん」
「まあいいよ、許したるわい。とにかくね、あたしと唯ちゃんは仲よしなの。でもまあ、あの子、あたしにかなり気を遣っているのよね。あたしにたった一言の注意をするだけでも、おどおどしちゃって。かわいそうだから、大谷くんに直接訊くことにしたの」
「で、おれが藤田さんに今から説明しなきゃならないのか?」
「嫌なの?」
声音は静かだが、抗えぬほどの迫力があった。
「わかったよ」しぶしぶと承諾した雅彦は、喫茶店で唯に語った「不可解な記憶にまつわる話」を、できるだけ忠実になぞった。
一とおりの話が済むと、早苗が神妙な声を漏らす。
「それって、過誤記憶じゃない?」
「過誤記憶……実際には起こっていない出来事が記憶として残される、っていうやつか。でも過誤記憶って、誤った催眠療法を受けたり、過度のストレスがあったり、そういったことが原因で形成されるんじゃなかったかな」
「そんな感じだと思う」
「なら、過誤記憶ではないよ。催眠療法なんて受けたことはないし……それに、最近は公私ともに順調だから、ストレスらしいストレスもない。あえて言えば、この妙な記憶のあることが、ストレスかな」
「じゃあさ、過去にも大きなストレスはなかったの?」
早苗は問うた。その執拗さがなんとなく気になる。
「過去に受けた大きなストレスなら、あるよ」
「どんな?」
「大学二年生のとき、二度目の失恋で落ち込んでいたら、藤田さんに、女々しいぞ、って𠮟咤されたじゃないか。あのときのストレスは、失恋そのものより大きかった」
「ああ、あれか――」と言葉を切った早苗が、不意に語気を荒らげる。「ていうか、真面目に訊いてんだけど」
「ごめんごめん。とにかく、それらしい原因に心当たりはないよ」
「じゃあ、なんらかの要因で書き換えられた夢だったのか、もしくは記憶が抜け落ちちゃっている、っていうことになるのか。でも書き換えられた夢だとしたら、過誤記憶とたいして変わらない感じだよね」
「まあ、そうかもしれないけど」
そうは返したものの、雅彦はそろそろこの話題を打ち切りたかった。
「なあ藤田さん」雅彦は言った。「この話、もうやめようよ」
「なんで?」
「逆に訊くけど、どうしてそんなにムキになっているんだい?」
理性を失いそうだった。いつもの自分とは違う、と意識する。
「ムキっていうか、謎解きの醍醐味っていうやつだよ。探偵ごっこみたいな感じだね。ストレスの発散でもあるかな」
「ストレス?」
「あたしは公私ともにいろいろと……えーと、なんでもない。大谷くんが避けたい話題なら、この話、やめようね」
早苗の勢いが鎮まった。急なトーンダウンに雅彦は逡巡する。
「おれの言い方に棘があったか?」
「ぶっ」早苗はまたしても噴き出した。「大谷くん、そういうところ、全然変わっていないね。気にしすぎ」
「怒っていないの?」
おずおずと尋ねると、早苗は笑いながら答えた。
「怒っていないよ。あたしと大谷くんとでは、精神構造がまったく違うんだから」
「そうかな」
唯には鷹揚さを感じたが、早苗にはいい加減さを感じてしまう。
「でね、まったく違う話なんだけど、中学生のときの友達が……ああ、友達って、女性だよ。その子が再来月に結婚することになってね、披露宴に招待されたのよ。それがさあ、お相手は五歳年上の青年実業家で、年収が二千五百万円なんだって。びっくりだよね」
早苗の勢いが戻った。
ため息が落ちそうになる。
もうしばらく彼女の話に付き合うしかなさそうだ。
あれが目覚めた。
ずっと暗闇の中にいた、あれだ。
この煮えくり返る思いを、再び晴らしてくれるはずだ。
でも引き替えとして、また同じことを望んでいる。
贄と、子種だ。
贄は用意してやる。
今度の贄は量より質らしい。
勝手なものだ。
量より質……簡単ではないが、なんとかなるだろう。
子供は勝手に作ればいい。
前の子種は使いものにならなかったけど、それはあれの目利きが悪かっただけだ。
あれは上質の子種をほしがっている。
そう、あれの一番の望みはたくさんの子供を作ることだ。
あれの子供がたくさんいたらこの世界はどうなってしまうのだろう?
関係ない。
何がどうなろうとかまわない。
この世の地獄ならかえって歓迎したい。
みんな苦しめ。
泣け。
わめけ。
叫べ。
死んでしまえ。
もうすぐ始まる。
復讐は再び始まる。
* * *
ふと、我に返った。
アスファルトの照り返しに目を細めながら街の喧騒に耳を澄ます。
雑踏と車の群れ……この日常がいつまでも続くのなら、それはそれで地獄である。
虐げられたものが排除される世界など、はたして必要なのか。
――必要ない!
危うく声にするところだった。
――声にすればいいのに。
あれの意思が伝わってきた。
――声になんてできるわけがない。まだ何も準備していないんだよ。
そう反駁して、歩道を往来する人々の流れに乗った。
あれは押し黙った。
息苦しい日常がどこまでも広がっていた。
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