『親友へ』

印田文明

『親友へ』






「この棚の本は全て捨ててしまうのか?」

 心なしか楽しそうな面持で、梁に縄を結んでいる時任に問いかけた。

「そうだよ。そっちの『廃棄』と書かれた段ボールに詰めてほしいな」

 棚には軽く数百を超える量の本が押し込まれており、これらを全て移動させるのは相当骨が折れるだろう。

 しかし手伝うと約束してしまった手前、面倒だと断るのは忍びない。ならばせめて、価値のありそうな本は貰ってやろうとおもい、丁寧に検品しながら作業をすることにした。

「今更ながら」

 結んだ位置が気に食わなかったらしく、時任は縄をほどきながら言う。

「まさか本当に手伝ってくれるとは思わなかったよ」

 本棚から本を無理やり引き抜くと、積もっていた埃が舞い上がり、私と時任は揃ってむせた。

「まさか、とはこちらの台詞だ。まさかお前からこんなことを頼まれる日が来ようとはな」

 舞った埃が窓から射し込む日差しに照らされ、キラキラと輝きを放つ。不衛生であるはずだが、なかなかどうして、美しい光景でもあった。

「もし引き受けてくれるとしたら、親友である君しかいないと思っていたんだ」

今度は結び目に満足がいったらしく、時任は梁から垂らした縄の先に輪っかを作り始めた。



「自殺を手伝ってくれ、なんてさ」



@@@@@@@@@@



 時任とは大学一回生の時、文芸サークルに入って以来の付き合いだ。就職し、お互いに所帯を持つようになってからも週に一度は共に飲みに行く仲であることを考えると、なるほど、私と時任は確かに親友であると言って良いだろう。

 飲みに行く日は決まって華金であったが、その日に限っては水曜日にもかかわらず、時任は私を呼び出した。

 

 いつもの居酒屋に行くと、すでに時任は隅の席についていた。

 その時任を見て、私は「今日は一体どうしたんだ?」という問いかけを飲み込んだ。一目見ただけで、何かがあった、ということを確信したからだ。

 あいさつすらせず、私は時任の向かいに座る。水とおしぼりを持ってきた馴染みの店員に「いつもの」とだけ言うと、すぐにビールと枝豆と唐揚げが出てきた。

 

 そこから私はひたすら時任の一言目を待った。

 

 学生時代の時任は、その持ち前の朗らかさと整った顔立ちで男女問わず人気者であったが、今眼前に座る彼には全くその面影がない。

 顔色は悪く、髪も整えておらずバサバサ、ヒゲも剃っていないところを見るに、今日は会社には行っていないのだろう。

 先週の華金にも飲みに行ったので、つい五日前に会ったばかりのはずだが、頰は痩けており、幾分身体も縮んでいるように見えた。

 

 三十分程待ったが口を開く様子がない。そろそろ耐えかねて何か気の利いた話題はないものかと模索し始めたとき、時任はやっと口を開いた。



「自殺を手伝ってくれないか」



「・・・なんだって?」

 聞こえなかったわけではない。頭の理解が追いつかなかったのだ。



「自殺を、手伝って欲しいんだ」



 当然ながら、冗談や酔狂で言っているようには見えない。未だ理解は追いつかないが、そこまで思い詰める事情があるということだけは理解できた。


「まずわけを話せ。話はそれからだろう」

 

 時任は口を日本酒で湿らせると、ポツポツと話し始めた。





「私の部署に松岡という男がいたんだ」

 聞いたことのない名だった。

「去年の春頃だったか、その松岡が私に話しかけてきた。内容は『必ず大儲けできる方法を教えてやる』というものだった」

「なんともわかりやすく胡散臭いな」

 はは、と時任は乾いた笑いを漏らした。

「もちろん私もそう思ったよ。でも少しだけ好奇心が疼いたんだ」

 時任はお猪口に残っていた日本酒を仰いだ。つられて私もビールを飲み干す。

「その頃、松岡は突然羽振りが良くなったことで有名だったんだよ。ベンツに乗るようになったり、身に付けるものがブランド物ばかりなったりね。その羽振りの良さの秘密を知ることができるかもしれないと、思ってしまったんだ」

 どうやら時任の徳利も空になったようなので、私は店員を呼び、日本酒を二人前とお造りを注文した。

「で? 結局その必ず大儲けできる方法とやらはなんだったんだ?」

 少し明るくなりかけていた時任の顔が、また暗くなってしまった。どうやらよほど言いづらいことのようだ。

「犯罪か?」

 時任は顔を伏せた。無言の肯定である。

「では詐欺か?」

 首を振る。となると、だ。

 たかがサラリーマンが、詐欺以外で大金を得られる犯罪と考えると容易に予想がついた。

 


、だな」



 今度は首を振らない。

「松岡は私に『俺の言う通りに株を売買すれば必ず儲かる』と説明してきた。実際に私に株取引で大儲けしている瞬間を見せ、『株は真剣に勉強すれば誰でも儲けられる』と言って私を信用させたんだ」

 店員が持ってきた日本酒を、時任は急くようにお猪口に注ぐ。

「この時、まだ詐欺かもしれないとは思っていたんだ。でも私に勧めた会社の株を、松岡も必ず買っていた。そしてその株は必ず値上がりした。一、二回で完全に信用してしまったよ。きっと松岡はすごい奴なんだってね」

「・・・いくら儲けたんだ?」

 時任はゆっくりと指を四本立てた。

「四百万か」

「いいや」

 話が進むにつれて、時任の酒のペースもどんどん上がってゆく。

「・・・四億だよ」

 酔いがまわるほど飲んでもいないのに、私はよろめき頭を抱えた。額が非現実的過ぎる。

「死を決意したのは、その罪悪感からか?」

 時任は首を振る。

「三日前のことだ。私はその日の取引で三千万稼いだ。もちろん松岡の言う通りに取引した結果だ。その礼を言おうと私は松岡に話しかけた。そしたら松岡は周りに聞こえないように私の耳元に口を寄せてこう言ったんだ」

 お猪口に注ごうとすると、徳利からは二滴ほどしか出てこなかった。


「『うちの会社の株価に関わりそうな情報を全てよこせ。さもないとあんたがこれまで行ってきた取引が違法であることを警察に話す』ってさ。愚かだと笑ってくれ。私はこの時になってやっと、自分のやっていたことがインサイダーであると気づいたんだ」


 酒を注文しようとしたが、時任は「どうやら今日は酔えないらしい」と私を止めた。

「まあ今となっては私も管理職だ。そういう情報がないわけではない。見事にカモられた、というわけさ」

「松岡とやらは、同じような方法でいろんな会社の情報を集め、儲けていた、ということか」

 時任は力なく頷いた。

「とはいえ、こういう言い方をしてはなんだが、人が死ぬような罪を犯したわけではないだろう。不正に手にしてしまった金を返し、法的な罰を受ければいい。まだまだやり直せるじゃないか」

 時任は乾いた笑いを漏らした。

「四億だぞ? それが原因でクビになった奴がいたかもしれない。人生が狂わされた奴がいるかもしれないじゃないか。人を殺していないからといって、許されていい限度を超えている」

 無論否定はできなかった。普通の会社勤めの生涯収入は二億であると聞いたことがある。短期間でその倍の額を手にしたということは、それだけ誰かの人生を搾取したということだろう。

「警察に行ったところで私は拘留され、真に迷惑を被るのは幸恵と息子だ」

 幸恵とは時任の妻であり、私と時任が所属していたサークルの一員でもあった。

「ならば、せめて金は家族のために残し、罪を犯したお前は罪悪感とともに闇に消えよう、ということか」


 時任の顔が死人を思わせるほど暗くなった。真の闇が、ここから先の話にあることを窺わせる。


「私は弱かった。一人でひっそりと逝けるほど、私は強い人間ではなかったんだ。だから私は」

 時任は悔恨を吐き出すようにため息をついた。同時に私も文字通り息を飲む。

「全てを幸恵に打ち明けた。自殺しようと思っていること、何故そう思い至ったのか、その全てをね」

 なるほどな、と心の中で呟いた。そういうことであれば、あとはどういう展開になったのか察しはつく。



「罵られたよ。あなたのせいで私の人生は無茶苦茶だってね」



 打ち明けたことで憑き物でも落ちたのか、顔色が幾分明るくなったように見える。

「止めて欲しかったのか」

「そうさ。止めて欲しかった。出所まで待っていると、どんな困難だろうと二人なら乗り越えていけると、言ってほしかった」

 たまらず時任は瞳に涙を溜めた。それでも泣くに至らなかったのは、すでに泣き枯らしたからだろう。


「さっきも言った通り、私は一人で死ねるほど強い人間ではない。頼む。私の自殺を手伝ってくれ。こんなことを頼めるのは、もう、君しかいないんだ」




 私はどうするべきかと思案する。

 時任に同情はすれど、『騙される方も悪いのだ』という第三者的な意見も捨てきれない。




 では別の視点ではどうだ?



 私の決して華やかとは言えない人生を振り返ると、親友と呼べそう人間は時任しかいない。あらゆる場面で時任は私の隣に立ち、悩みも苦しみも全て互いに話してきた。

 その親友が「手伝ってくれ」と請いている。これを断る理由があるだろうか。



「・・・手伝いとは、具体的に何をすればいいんだ?」




@@@@@@@@@




 本棚の中段に、明らかに他の本とは装丁の異なる本がある。引き抜いて中を開くと、それがアルバムであることがすぐにわかった。どうやら大学時代のもののようで、若かりし時任と私と、幸恵の姿があった。

「懐かしいなぁ。当時は分からなかったが、このころが人生で最も楽しく美しい時間だった」

「これはどうする?流石に置いておくか」

 時任は悲しそうに笑う。

「いや、いらないさ」

 時任は半ば強引にアルバムを奪い取り、駅のゴミ箱に新聞を捨てるようなお手軽さで、それを『廃棄』の箱に入れた。


 結局、手伝いの内容は二つだった。

 一つは、幸恵と息子が出て行った時任の家の遺品整理だった。時任の両親か、それこそ幸恵が片付けることになるかもしれないことを予見し、なるべく自分で整理をして起きたかったようだ。飛ぶ鳥跡を濁さず、といったところか。


 捨てられたアルバムを再度手に取る。時任はそれを咎めようとはせず、机の引き出しを何やらゴソゴソしていた。





 アルバムをペラペラと数ページめくると、文芸サークルの集合写真を見つけた。時任は真ん中に、私は右端後方に写っていた。





 時任は私を親友だという。



 しかし、彼は知る由もないだろう。

 容姿が整い、その朗らかさから誰からでも好かれた時任の隣に居続けた私の劣等感を。




 時任がサークル内の作品コンペで優勝した時の記念写真を見つけた。




 彼は知る由もないだろう。

 容姿や性格ならばともかく、趣味や小手先の技術ですら時任に及ばない私の虚無感を。





 時任と私と幸恵の三人で撮った写真を見つけた。





 彼は知る由もないだろう。

 私が幸恵を想っていたことを。

「幸恵と付き合い始めた」と言われた時の私の敗北感を。

「幸恵と結婚する」と告げられた時の私の絶望感を。






 ちょうど私が整理を終えた時、さて、と机の上に封筒を置いた。きっと遺書だろう。



「これでやり残したことはない」

 時任は満足げに笑む。

「じゃあ、もう一つの手伝い、頼むよ」

 ああ、とだけ返事をした。



 もう一つの手伝いとは、時任が椅子に登り、首に縄をかけたあと、その椅子を決して乗れないように遠くに引き抜いてくれ、というものだった。


 ゆっくりと椅子に登り、梁から垂らした縄の輪を首にかける。その時ですら、なぜか時任は微笑んでいた。




「・・・じゃあ、頼むよ」




 時任が目を閉じたのを合図に、私は時任の足元の椅子を引き抜いた。




 しばらく暴れていたが、次第に大人しくなり、最後には糞尿を垂れ流しながら、キーコ、キーコと揺れるだけとなった。





 人の首とは、ここまで長くなるものなのか、とそぐわぬ感想が漏れる。


 その目だけは絶命の瞬間まで私を見ていた。


 決して殺したいほど憎かったわけではない。

 

 もちろん彼を親友だとも思っている。







 それなのに、キーコ、キーコと揺れる時任を見て、気づけば私は笑っていた。







@@@@@@@@@@




 時任の死を見届けた一週間後、私の家に警官がきた。

 とはいえ予想はしていたこと、特に焦りもしなかった。


「時任さんがお亡くなりになりました。妻の幸恵さんに聞いたところ、あなたが時任さんと一番仲が良かったと聞き、無礼にも参上した次第です。どうか、お話をお聞かせ願えませんか」


 ちゃんと驚いたフリと悲しむフリを織り交ぜながら、警官をリビングへ案内した。

話した内容といえば、馴れ初め、最後に会った時はそんな素振りはなかった、などなど、当たり障りの無いことばかりだ。

 警官はというと、何の意味があるのか、それらを熱心にメモしていた。



 あらかた私が話し終えると、警官は姿勢を整えた。どうやらここからが本題のようだ。



「正直なところ、時任さんが亡くなっていた現場に、一つ違和感のあることがありまして」

「違和感?」

「はい。普通、首吊り自殺をする人は、台として使ったもの、今回は椅子でしたね。椅子を倒すんです。決して乗れないように、死に直面した時の逃げ道を残さないようにね」


 何が言いたいのかすぐに理解し、額に汗をかく。


「しかしね、時任さんの椅子、倒れていなかったんですよ。その上、どうやったのかわからないぐらい、遠くに置いてあった。遺体から2メートルは離れていましたね」

「・・・たまたま倒れなかっただけでは? それに、2メートル程度なら、強く蹴ればあり得る範囲内のように思えますが」

「いやはや、全くその通りです。でも私は気になることはトコトンまで調べたい性分でして」


 捕まった場合、私はどんな罪に問われるのだろうか。同意殺人となるのか、自殺幇助となるのか、いずれにせよ望むところではない。


 しかし警官がそれ以上喋ってこないことをみるに、私が椅子を引き抜いた証拠はつかめていないようだ。


「おっと、申し訳ない。このあと人と会う約束があるんだった。話は以上で大丈夫ですか?」

 多少強引だか、警官を追い出すことにした。

 警官は一瞬訝しそうな顔をしたが、すぐに荷物をまとめ始めた。


「あ、最後にこれだけ、お渡ししておきます」



 それは『親友へ』と書かれた封筒だった。



「遺書の封筒の中に、さながらマトリョシカのように入っていたんですよ。親友ということならあなたで間違いないと、これも時任さんの奥さんから聞きましてね」

 それだけ告げると、警官はそそくさと帰って行った。






 一抹の不安を抱えながら、私は封筒を開く。中には便箋が一枚だけ入っていた。






『君がこの手紙を読んでいる、ということは、私はもうこの世にいないということだろう』


 どこかで聞いたような文言だった。


『私がもうこの世にいないということは』




 次の一行で、この手紙は終わっている。


 その一行を読み、わたしは慟哭した。










『結局、君も私に「死ぬな」とは、言ってくれなかったんだな』






                                   了

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『親友へ』 印田文明 @dadada0510

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