第3話 緊張感が足りませんか?
「最近またでてきたみたいなのよ」
事務所にやってきた社員の阿川が引き継ぎを伝えたときだ。
人気タレントが表紙だと本日告知され、予約が殺到している雑誌の入荷数について。売り切れていた人気コミックが再入荷されたこと。それぞれ購入制限を課す、一人各一冊のみ、などなど。連絡事項に目新しいものはなかった。いつも通りに対応すればよいことばかりだった。
阿川は自分のまわりを手で払っていた。事務所にハエが入りこみ、予測できない飛び方をしながら、皆のまわりにうろついている。
小島の横にいる庄野は、心ここにあらずと言ったところだった。聞いてはいるのだろうがぼーっとしているようにしか見えない。いつだって打刻をした途端、この人はやる気をなくす。
二人がとくに返事をしないので、阿川がジロリと睨んだ。
「はあ」
慌てて気の抜けた返事をしてしまい、余計に険悪になるのではないかと、小島は一瞬恐れた。
「やっぱりあれね、ゴキブリみたいなものね」
阿川は庄野の態度に関してなにも指摘しない。きっともう諦めているのだろう。
庄野より後に、阿川は爽快堂書店で働きだした。いまや阿川はこの店の社員で、庄野はバイトのままだ。扱いづらいに決まっている。
ハエが小島にまとわりつきだした。顔をそらしたりしても、近づいてくる。
阿川のほうにカチコミをかけてくれないものか。このなんともいづらい場面を早く終わらせてくれやしないか。
自分だけではない。阿川は皆に恐れられている。なにかへまをやらかすと、「これだから遅番は」などと怒り、庄野に注意するよう言いつける。
「掃除、足りませんでした?」
さっきの生返事の挽回をすべく小島が訊ねると、
「あなたたち、ちゃんと掃除している?」
と阿川が即、打ち返してきた。
「しているつもりですけど……」
実際、店が暇になると、庄野がモップやはたきを後輩たちに放り投げてよこした。自分はのんきに勤務時間を過ごすくせに、人には仕事を押しつけてくる。
「つもりじゃなくて、するの」
「はい……」
「棚のメンテナンスをしっかり、スリップが本からはみでているようなら直して。そしてこまめに床にモップをかけてちょうだい。店内をきちんと見回っているってアピールすることが抑止力になるのだから」
掃除の話だけはないことは明らかだった。
万引きをされたのだ。
話によれば、最近とりおこなわれた棚卸しのデータとコミックが、だいぶズレていたらしい。
「庄野さん」
つまらなさそうに部屋の隅を見ていた庄野に、阿川が声をかけた。
「なんでしょう」
庄野のほうは、とくに気にする素振りもない。
「最近遅番、また、弛んできているんじゃないですか?」
抑えた口調で阿川は言った。
「いや、いつも通りですね、弛んでいるのは」
庄野が答えた。
絶対にそれは、正解の返答ではない。小島は肩をすくめた。
あまりに堂々としているものだから、阿川は呆れてため息しかつけないらしかった。形勢逆転だろうか。
「それだと困ります。庄野さんはベテランなんですから、きちんとしてもらわないと」
そう言われ、庄野は片眉を吊りあげた。庄野は自分のことをまだ若い、と思いこんでいるふしがある。
阿川は遅番の不手際の指摘や文句があるとき、必ず庄野を通す。そして、庄野がアルバイトたちに凄む。
怒られた者が素直に謝れば、「じゃあ、それで」と終わらせる。いいわけをすれば、一応は話を最後まで聞くが、聞き終えてから、「僕が迷惑だからしないでもらおう」と切り捨てる。みんなが、ではなく、自分が、という。
その繰り返しだった。
「はい」
いい大人のくせに、庄野は子供みたいな返事をした。
「お言葉ですが」
言い返したいのを、ぐっと堪えているのが手に取るようにわかった。
多分こう続くはずだったのだろう。
「年上で勤務歴が長いだけで、他人の指導をするなんて面倒なことをしたくはありません」
そう言いたかったに違いない。
小島がバイトをはじめたときだ。右も左もわからない状況のなか、庄野に真っ先に告げられた。
「僕に期待しないでください。神さまじゃあるまいし、人間ごときがなにもかもわかっているなんてこと、ありません」
そういって、嫌々レクチャーを始めた。
「遅番は緊張感が足りないわ。前も遅番がお客さまの電話番号を書き間違えて、クレームになったんだから」
阿川が半年以上前のことを蒸し返してきた。この人は他人のしくじりを決して忘れない。
「あれは吉行の字がへただからですよ」
庄野は憮然として言った。
同じ時間に一緒に働いているからというだけで、チーム扱いされて、連帯責任を被せられるのが心底嫌なのだろう。
そのくせ庄野は細かいレジ誤差をよく起こす。ぼんやりしていて、一円とか五円とか。緊張感が一番ないのは、実は庄野だ。
「丁寧に書くように注意してやってください。お客様にお渡しするものだし、他のスタッフが読めないだなんてもってのほかよ」
「そうですね。貧乏くじを引いたようなものです」
そう興味なさそうに答えた。
ハエが庄野のほうに寄ってきた。
庄野は突然思い切り手を振りあげ、叩き落とした。床に叩きつけられたハエを、靴で踏み潰した。
そのさまを、阿川が唖然とした表情をして見ていた。
なんだか、すごく、事務所のなかが妙な空気になってしまった。修復不可能なくらいに。
「邪魔だったんで」
庄野はさも当然のようにいった。
「……とにかく、よろしくお願いします」
阿川は退勤近くで疲れているらしい。これ以上話してもくたびれるだけと悟ったのだろう。じゃあ、あとはよろしくお願いします、といって事務所をでていった。
「小島くん」
阿川が階段を降りていく音が聞こえなくなったところで、庄野が言った。
「ま、今日もなんとかしましょう。無理せず、無事に」
無事に。
本当にそうだ。この店で働いていて、何事もなく店が終わったことなんて、稀である。
誰かが必ずなにか問題を起こす、あるいは、巻きこまれる。
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