第2話 面白いことありましたか?
地上にあがると、いつものように三軒茶屋は騒々しかった。
246と世田谷通りと茶沢通りが交わるあたりの交差点では、青になるのを待つ人で溢れている。
小島の働いている爽快堂書店の前は、高速道路の影となってしまっていて、いつだって薄暗かった。さびれたビルが、余計にみすぼらしく辛気臭げに映る。
夕方五時前の一階は、わりと混雑している。買い物途中の主婦とか、学生とか、仕事をしているのか怪しいおじさんとか。さまざまな人が雑誌コーナーの狭い通路で立ち読みをしていた。
入口横のレジでは、交代を待ちわびたアルバイトが少しくたびれた顔で、接客していた。
階段をあがり、二階のコミックコーナー、そして三階の学参と専門書までくると、売場に人はいない。さっきまで歩いていた街の人混みと比べて、ずいぶん寂しい。
各階にレジの名残があった。以前までは各階にレジがあったが、いまは少ない人数で運営しているので、会計は一階のみとしている。
小島が数年ぶりに店に入ったときには、棚の並びもすっかり変わっていた。
汚れた壁に、そんなに明るくもない蛍光灯で照らされた三階にいると、なんだかここは、時間の流れに取り残されてしまったように思う。
棚に並べられている本は、客がやってきて、手にしてくれるのをじっと待ち続けている。小島が小さかった頃からあるのではないか、とおぼしきものもあった。
事務所に入ると、庄野祐樹が既にエプロンを身につけ、ファックスの仕分けをしていた。
この人は、仕事中はできるだけ楽をしようとするくせに、仕事前はやたらてきぱきしている。
「おはようございます」
声をかけると、庄野はこちらに振り返り、
「おはよう」
とぶっきらぼうに返事をした。
いつものように庄野の後頭部には寝癖がついていた。
自分より干支一回りは確実に年上なので、指摘することが憚られた。いつだってきちんとツーブロックの七三分けにしているというのに、後頭部まで気が回らないのだろうか。
庄野はいつも同じ格好だった。白いシャツと黒のパンツ。そのいでたちを見るたび、小島は昔読んだ四コマ漫画を思いだした。
サラリーマンが上司に、いつもお前は同じ服を着ているなと揶揄われるが、本人はまったく気にしない。家に帰りクロゼットをあけると、大量に同じ服がある。
笑いどころがよくわからなかった。
「でたらしいね」
庄野は黒縁メガネを外し、眉間を指で押さえた。
「ゴキブリですか」
このビルは古く、外壁はあちこち剥がれ、ひび割れが起きている。大地震がきたら真っ先に崩れてしまうだろう。黒いやつどころか、どぶ色のピカチュウだって潜んでいそうだ。
「阿川さんがあとで説明してくれるでしょう」
自分で話を振ってきたくせに、話を広げようとしない。いつものことだった。
「ところで、なにか面白いことあった?」
なにがところで、なのか。いつだって庄野は、バイトをしている者たちがやってくると、面白いことはなかったかと訊ねてくる。
「あー、ないですねえ」
朝起きて、学校へでかけ、この店にやってくる。その繰り返しの生活で、面白いことなんてそう頻繁に起こるわけもなかろう。
「つまらない人生ですねえ」
庄野は言った。
なにもかも面白がっていたら身がもたない。つまらないやつだと、責められているのかとバイトを始めた頃は、訊ねられるたびに不安だったけれど、そんなつもりもないらしい。これは庄野にとって、挨拶レベルのフレーズだ。
同僚の吉行夏男などは、
「めちゃ面白いことが学校であったんですよ!」
なんて大袈裟にいって、さも面白そうに学校で起こったことを語ることがある。なにを喋っていたか、記憶にないくらいにどうでもいいことだ。
「自分から面白いぞと煽ったら、聞いているほうが期待してしまい、面白が半減される。そのうえ喋っているやつに途中で笑われた日には、萎える」
きみは面白のハードルが低い、と庄野にダメ出しをされている姿を以前に見た。
「魚を盗んだ野良猫を追っかけるのに、急いでいたから裸足だったとか、面白くもなんともない。愉快ではあるけど。愉快と面白いは分けなくちゃいけない。いや、長谷川町子先生は偉大であるけどな」
庄野がバイトたちの話を聞いて笑ったことなど、見たことがない。
この人はバイトの後輩たちを「立派なひな壇芸人」にしようとしているのではないか。皆で話したことがある。
お笑い事務所の養成所で、生徒相手に知ったかぶる売れっ子になりそこなった講師、みたいだ。そんなやつ、生徒は尊敬なぞするものか。
そもそも大学生と同じ時給の、三十をとうに過ぎたベテランバイトなど、どう扱えばいいものか。若い立場からすれば困りものだ。
庄野は人には面白い話はないかと訊ねるくせに、自分から面白いことを人に話そうなんていう気は一切ないらしい。いつだって、訊くだけだった。
同僚の島尾海が気をきかせて、
「庄野さん最近なにかありましたか?」
と庄野に訊ねたときだ。
「ないね」
庄野は切り捨てた。
「なにもない。面白いことっていうのは、他人がしていることで、自分とは関係ない」
そんなふうにいって、皆を黙らせた。
庄野は決してとっつきにくい人というわけでもない。むしろ楽だ。仕事も、きちんと報告さえすればなにもいわない。放任主義だ。「面白」を訊ねてくる以外に、ウザ絡みをしてくるわけでもない。
バイトたちがなにか問題が起こしても、嫌な顔はするけれど、咎めもせず、淡々と処理してくれる。
だが、一緒に働くとなると……あまりにも謎すぎる。
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