結婚四日前に、貴方と

南風

結婚四日前に、貴方と

「では二時間後に仕立て屋が来ますので、それまでこちらでお待ちになっていて下さいまし」

「はい、何から何までありがとうございます」


 サリア・イノーブルは、もう四日後には自分の姑になる予定のマダムにお辞儀をして、天蓋付きの豪華なダブルベッドに横たわった。

 何もかもが高級品のお屋敷に息が詰まりそうで、一眠りしようかと疲労の溜まった瞼を閉じる。


  ……頑張るのよ私、これも一家の繁栄の為なんだから。むしろ喜ばなくちゃ。私が女性として産まれたからこそ、出来たことなのよ。


 サリアは何代にも続く、酪農により発展した名家の娘である。

 しかし近年、牛や鶏などの動物間に原因不明の伝染病が流行してしまい、イノーブル家は解体の危機に瀕していた。

 そこを成金ではあるが、海外との貿易で名を挙げたフーベルト家の嫡男に見初められ、つい一か月前に婚約をされたのだ。これをサリアは二つ返事で承諾し、今に至る。


「これで、みんな、幸せに……」


 いけないわ、私ったら。と不意に零れた涙を両手で拭う。

 これほど幸運な事なんてないのに、何を泣いているのかしら。思い残している事なんて、何も――


 コツン。コツコツ、コン。


「あら……?」


 ベッドから起き上がって、不規則に叩かれた部屋の小窓にゆっくりと近づく。

 レースがあしらわれたピンク色のカーテンを開けると、窓を手の甲で優しく叩く、やや焦げて傷だらけの手が見えた。誰かが道に迷ったのかと思い、すかさず窓を開ける。


「どうかなさいまし……、えっ!?」


 窓の外に立っていたのは、所々に穴が空いて、泥や血痕が付着している軍服の男性。よく見ると靴も履き潰されていて、かなり痛々しい。

 制帽で顔は確認できないが、サリアはすぐに誰だか分かった。


「どうして、こちらへ……?」

「休息がてらに、君の顔を見たくなって」


 ああ、この懐かしい声。

 他の男性と比べれば低いけれど、だからこそ暖かくて落ち着く声。ちっとも変わっていないのね。


 疲れきっていたサリアの表情は、その男性の言葉を聞いた瞬間、パッと花が咲いたように明るくなった。

 しかしすぐさま眉間にシワが寄る。


「そう。でも二週間ほど前に、貴方の所属している軍がまた出兵したと聞いたけれど……」

「多くの怪我人が出て、一時帰国を」


 多くを語らない言葉足らずな口調も、五年前と全く同じ。きっと変わってしまったのは、私だけ。


「そうでしたの。よろしかったら、お茶でも飲んでいかれない? 私、ちょうどお茶の用意をしようと思っていたところなの」


 サリアは嬉々とした様子で男性にそう尋ねた。

 彼女がフーベルト家と交流を持つ以前。まだ実家であるイノーブル家の屋敷に住んでいた頃に、毎日のように遊んでいた男性。五年前に軍に入って、それ以降は顔を合わせもしなかった彼だ。


 何百年、何千年とも思えるほどの時間だったけれど。それに期限付きであるみたいだけれども、私を迎えに来てくれたのね。


「それより、海に行こう」

「えっ……?」

「海に行こう、ね? 約束していただろう?」


 海に行くことになれば、きっとロアル様がお怒りになってしまうわ。

 外出を禁止されていて、男性と会うことも許されていないのに。だから『幼馴染』という理由をここぞとばかりに使って、少しでも話がしたいのに。


「それは駄目なの。約束をしていて、破れば勘当されてしまうから」

「少しだけだよ、ほら」

「ちょっ、ちょっと……。きゃあっ!」


 男性は外からサリアの腕を掴んで、強く引いた。

 サリアは細身なので何ともなかったが、婚約者のロアルが着させているファンシーなドレスには、窓枠が小さすぎたようだ。

 レースが窓枠に引っかかって、脚をすっぽり隠していたスカート部分が、膝丈にまで裂けてしまっている。


「昔の君みたいだ」


 男性は外に出てきたサリアを抱き留めながら、嬉しそうに呟く。

 一方で、してやられてしまった屈辱感と、ロアルへの恐怖心が襲ってきているサリアは、男性の血生臭い胸を何度か優しく叩いた。


「なんて事をしてくれたの……?」

「何が?」

「彼が怒るとどれくらい恐ろしいのか、貴方は知らないでしょう? ドレスも、今こうして貴方に会っていることも、大地に足をつけていることも――」


 以前、私宛ての手紙を配達しに来た郵便局員と話をした時。あの時は一晩中叩かれて、玩ばれて、涙を流したら叩かれてを繰り返したのよ。

 今この状況がバレたら、殺されるに違いないわ。


 サリアの身体は震えて、男性を叩けなくなった。

 そんな恐怖に支配された悲劇の令嬢の手を取り、男性は屋敷の庭の裏口へと足を進める。


「さあ、海へ行こう」

「……嫌よ、離してちょうだい」


 男性は聞く耳を持たずに、真っ直ぐ海へと向かって進む。

 彼はこの辺りに一度も足を運んだ事がないはずだが、何故か海への最短ルートを知っているようだ。迷いはなく、迷路のような路地裏もどんどん入っていく。


「ねぇお願い。二時間後には仕立て屋が来て、結婚式で着るウェディングドレスの採寸をしに来るの。だから離して」

「無理」


 潮の香りが漂ってくる。

 ロアルの屋敷は港町の高台に建っているため、街道を進めば十五分。最短ルートを進めば、七分で海辺に到着するほど近い。

 なので木々に囲まれた高原で生まれ育ち、海に憧れていたサリアには、まさに夢のような場所だ。


「貴方が行ってしまう前日に私が言ったこと、まだ怒っているんでしょう? だから海に行こうだなんて言って、私を連れ出しているんでしょう?」

「怒ってないよ」

「嘘をつかないで!」


 あれほど優しくて誠実で、私を大切に、立場なんて気にしないで接してくれていたのに。

 五年間も軍で指揮官なんてしていたら、これほど人は陰湿で、冷たくなるものなのかしら。だからあの日、行かないでと止めたのに。どうして?


「五年前の貴方は、私が嫌だと言えばすぐに止めてくれたじゃない!」

「そうだね」

「だから私は、貴方に軍になんて行って欲しくないって言ったのよ。今の貴方みたいな人に、なって欲しくなかったから……!」


 サリアは男性の手を振り払った。

 すると男性は右手を口元に当てて、何かを思いついたのか、もう一度手を差し伸べた。


 約束――軍から帰ってきたら、海を見に行こう。

 その約束を果たすために今、彼は私に手を差し伸べて、海へ連れていこうとしているのね。

 と元々口数が少ない人なので、サリアも必死で彼の思考を探る。


「結婚祝いに」

「なんですって……?」

「ロアル・フーベルトとの結婚祝い。彼以外の男と顔を合わせられなくなるし、外に出られなくなるだろ、君?」


 どうして、知っているの?

 どうして私がロアル様と結婚することと、結婚をしてからの約束の話を知っているの?


「どなたから聞いたの……?」

「風の噂で」

「そんな話が、軍にいた貴方に流れ着いてくるわけが無いわ。お願い、正直に言って」


 六月の、生暖かい海風が路地裏をすり抜ける。

 そして二人の間に流れる神妙な空気を和ませるためか、魚屋のおこぼれを狙ってこの街に集まる野良猫たちが、塀の上から見下ろす。

 揃って男性を睨みつけて、シャアシャアと唸っている。


「……君の弟さんから、聞いた」


 少し歯切れが悪かったが、サリアはすぐに、それは真実だと判断した。

 サリアの弟は家族思いで、疲れていても、家族の体調が悪ければすぐに仕事を肩代わりしたり。家事を代理で行ったりと、人並外れた行動力の持ち主だったからだ。


 確かに、サレスならやりかねないわね。

 サレスもサレスよ、私に『彼が帰ってくるよ』だとか連絡をひとつも寄越さないで。


「さあ、海に行くよ」

「……分かったわ」


 男性はサリアのか細く綺麗な手を取って、人気のない路地裏を駆け抜けていく。

 彼女と同い歳くらいの女性はみな、手に赤切れを作っているものだ。しかしロアルや、ロアルの母親が、彼女に家事をさせないので、綺麗なまま。包丁の握り方すら忘れてしまいそうになっている。


「もしかして、急いでいるの?」

「ああ、もう時間が少ししかないから」


 もしかして、私のためを思って、ここまで急いでくれているのかしら?

 言葉足らずで不器用な所は、やっぱり変わってないのね。むしろ時間や他人の事ばかり気にするようになった、私が変わってしまったのかも。


 彼なりの優しさに触れ、サリアの恐怖心が少しずつ和らいでいく。

 どうにか家に帰らせてもらおうと模索していた彼女だったが、次第に二人を取り囲む、自然に満ちた環境を楽しめるようになっていた。


「綺麗な花が咲いているわね」

「そうだね」

「たまに海辺を歩くのだけれど、今日は一段と心地よく感じるの。どうしてかしらね?」


 青く透き通った海と、白く輝く砂浜が姿を現す。

 徐々に潮風も強くなっていき、サリアの体温は上昇していく。一方で、男性と繋いでいる右手は冷たくなっていくのを感じる。


 このまま、この人とどこまでも逃げられたらいいのに。


 つかの間の幸福をかみしめながら、サリアはすっかりロアルの事も忘れて、無我夢中で砂浜まで走っていた。だが――


「痛っ!」


 サリアは自分がチャンキーヒールの真っ白な靴を履いていたのをすっかり忘れていた。

 おかげで靴は血が滲み、かかとは剥けて、マメができている。これでは足を見られた時に、外出したことがバレてしまう。

 しかし、彼女にもう迷いはない。


「ごめんなさい、もう一度離してもいいかしら?」


 私ったら、どうしてそんな事を聞くのかしら。

 彼なら一言挟まなくても、きっと何度でも手を繋いでくれるはずなのに。


 もしかして、私、怖いのかしら?


「いいのかい?」

「ええ、ここまで来たんですもの。帰ったら、きっと後悔してしまうわ」


 血で汚れた、彼女を屋敷の中に縛り付けるための靴を、サリアは何ともない様子で脱ぎ捨てた。

 人っ子一人通らない路地裏に、カランと揃えもせずに。道端にポイ捨てをするように放ったのだ。男性も驚きのあまり声が出ない様子で見る。


 そしてすぐにサリアは自ら手を繋いで、制帽で顔が未だ確認できていない男性に微笑む。


「さっ、行きましょう?」


 サリアをまるで女神のように崇拝するロアル。

 そんな彼が勧める――押し付ける、彼の『理想像』という名の『性癖』を満たすためのアイテムが崩壊していくにつれ、本来のサリアに戻っていく。


 海も何もない、ただどこまでも続く平原と森があるだけの高原で暮らしていた令嬢、サリア・イノーブルの本来の姿。

 膝丈のワンピースを着て、裸足で動物たちと追いかけっこをしていた頃の彼女。

 男性もそれに似た姿を見られて、表情は分からないが、どこか嬉しそうだ。


「よかった」

「えっ?」


 男性は潮風を切るようにして、砂浜へ大きく一歩を踏み出した。

 そしてボロボロの身体を半回転させて、反動で自分の胸元に飛び込んできたサリアをきつく抱き締める。


「海に来られてよかった」

「……何言ってるのよ、迎えに来るって言ったのは貴方でしょう?」


 こんなにボロボロな格好をして、港に着いたと同時に、私の元に急いで来てくれたのかしら。

 いいえ。もし違うと言われても、どんなに汚らしい格好でも、こうして抱き締めてくれているだけでも、充分嬉しい。


 サリアは男性の背中に両腕を回して、そっと抱き締め返す。

 懐かしいシトラスの香りと、血と泥の臭い。爽やかな柑橘の匂いを嗅ぎ分けるには難しいが、それでも心地よく感じられる。


「叶えられないと思ってたから」

「何よそれ、酷いじゃない」

「ごめん」


 不貞腐れた言い方をしたが、サリアは特に怒ってはいない。

 覚えていてくれた、それだけで満足なのだ。


「だって、もう貴方は忘れてしまったと思っていたから。約束も、私の事も、あの高原のことも」

「まさか」

「本当に? 全部、覚えてる?」

「もちろん」


 相変わらず、話すのが下手なんだから。

 幼馴染の五年ぶりの再会なのだから、 もっと声を聞かせて欲しいのに。


 ……私ったら何を考えているのよ。四日後には、他人の女性になるのよ?


「約束を守るために、こう見えて頑張ったんだよ」

「……そう」

「軍艦から見る海も良かったけど、やっぱり君と見る海の方が綺麗に見える。頑張って良かったなって、そう思えるよ」


 バカね。海に背を向けて、私を抱き締めているだけのクセに。


「……ねぇミセス、あの――」

「まだミセスじゃないわよ。あと四日間は、レディって呼んでちょうだい」


 男性の言葉を遮って、サリアは言う。

 四日後には自分の主人になる男が絶対に許してはくれないことを、堂々と、心残りのないようにと考えている。


 籠の中に閉じ込められる前の、ほんの少しの足掻きとして。


「じゃあレディ。一つだけ、許して欲しい事があるんだ」

「……何かしら?」


 サリアは男性の顔を覗いてやろうと思ったが、男性の大きな手が、サリアの頭頂部を優しく撫でてきた。そのため表情を確認することが出来ない。

 しかし満更でもなさそうに、されるがまま聞く。


「君の結婚式には、出られない」

「……そう。けれど、どうして? また出兵してしまうの?」


 そう尋ねたが、サリアの中では複雑だった。

 自分の花嫁姿を見て欲しい反面、彼が式場に現れれば、きっと。いや、確実に心変わりをして、彼に「私を連れ出して欲しい」と懇願してしまいそうだからだ。


「ううん、もう出兵はしないよ」

「そうなの? でも、えっと、つまり……?」


 サリアの思考は停止する。

 彼は窓ガラスを叩いて、サリアと会話をした時、確かに彼は「休息がてらに」「一時帰国を」と言っていたはずだった。


 しかしそんな彼が、今度は「もう出兵はしない」と言うのだ。


「矛盾しているわよ?」

「してないよ」

「してるじゃない。もしかして、軍の女性と結婚するの? それとも、異国の方と?」


 それなら、早くに言ってくれれば良かったのに。

 私は別に責めるつもりはないし、むしろ祝福するのに。


 ……本当に? 出来るかしら?


「いいや。君は五年以上前に言ってたけど、僕は君の言う通り、本当に、独身のまま生涯を終えることになりそうだよ」

「何よそれ。もしかして、私にプロポーズをするつもりだったのかしら?」


 そうだったら、どれだけ嬉しかったことか。

 仮に今プロポーズをされたって、私は平気でロアル様を捨てて、彼と一緒にどこへだって逃げるのに。


 指名手配されようが、彼と一緒ならきっと平気。

 あんな地獄へ帰りたくないもの。


「ああ、そうしたかったよ」

「っ……!」


 ……何よ、何よ何よ何よ。

 こんな所で身を引かないでよ、私を奪いに来たって言ってよ、一緒に行こうって言ってよ。


 そんなこと言われたら、私――


「私はずっと、五年間、貴方のことを……」

「止めてサリア。君の事を泣かせたくないんだ」

「知らないわよ!」


 もう周りに誰がいようが関係なかった。

 フーベルトの家の者が追い掛けてきている事なんて予想もしないで、サリアは男性の青白い唇に、そっと自分のリップとグロスを塗られた唇を重ねる。


 そしてすぐに、その唇を離した。


「……だから止めてって言っただろう?」


 キスをした拍子に脱げてしまった制帽を、男性は悲しげな声で呟きながら拾う。

 強力な洗剤でも落ちないであろう赤黒い汚れの着いた制帽。それに付着した砂を払いながら、男性は、五年前と全く変わらない真っ赤な右目をサリアに向けた。


 ――左目は、包帯で隠れていて見えない。


「左目、怪我したの?」

「いいや。もう使えないから、こうやって隠しているんだろうね」

「何を言っているの、自分の目でしょう?」


 サリアの身体が強ばってくる。

 五年前、涙が浮かぶ瞳に焼き付けた男性の姿とはかけ離れているのだ。


 それに唇の冷たさも、とても人間のものとは思えなかった。


「病院の処置だよ。僕の意識がない間に、色々とやっておいてくれたみたいだ」

「ちょっと待って、どういう意味?」


 左目が包帯で隠れていて、額も包帯がグルグル巻きにされている。


「うーん、そうだね。どうすれば、君を傷つけない言い方ができるかな……」


 男性はほぼ包帯に隠されている小さな顔の、薄い唇に右手を当てた。

 彼の、物事を考える時の癖だ。

 話し方も、声も、全てが、彼だ。


 それなのに、まるで絵本に登場するミイラ男のような出で立ち。


「実は僕ね、今は……。多分、どこかの病院のベッドの上にいるんだ」

「どっ、どういうこと……?」


 サリアの身体と声は震え始めた。

 今までの彼は、現実逃避をしたかった自分の妄想か。はたまた彼の皮を被った全くの別人か。という、その正体を見抜けなかった自分への恐怖だ。


「人って不思議なんだよ。死ぬ間際に見えないものが見えたり、出来なかったことが急に出来たり。最後に、会いたいと思う人に会えたり」


 男性は軍服の、一番大きな穴が空いている腹部の辺りをそっと捲りあげた。

 そこには、赤黒い血が染み込んだ包帯とガーゼ。


「ちょっとだけヘマをしちゃってね。味方を庇ったら、撃たれちゃったんだよ」


 男性の声色は、照れたように上擦っている。

 状況が理解できないサリアは、自分の口元を両手で抑えながら、その酷く傷ついた身体を凝視するしかない。


「それで僕は、もうすぐ死ぬんだろうね。だから最後に……」

「そんな話、信じるわけないじゃない!」


 一度は男性から離れた身体を、サリアはきつく抱き締めて、密着した。

 彼の身体の傷に相当響いているかもしれないが、サリアは五年も待ちわびた彼に、涙を見せないようにと顔を押し付ける。


 やっと会えたのに、もうお別れなの……?


「軍は急いで僕ら負傷者を、病院に運んだらしいんだ。でも僕には意識なんてもう無くて、どこかの病床で生死の境を彷徨ってるんだろうね」

「でも、私は、今貴方にこうして触れられているわよ……?」


 この温もりが嘘だなんて、言わないで。

 今ここにいる貴方という存在が本物だと、証明して。


「うん。きっと神様が、最後だからって奮発してくれたんだと思う」

「もうやめてよ、最後だとか言うの……」

「分かった。その言葉が君を泣かせているんだったら、もう言わない」


 ああ、どうしよう。どうして急に、彼に対するワガママばかり頭に浮かんでしまうんだろう。

 もっと伝えたいことがあるのに。


「どうして私の所に来たのよ。来ないでよ……!」

「それは、考えたんだ。でも行かないうちに僕が死んだら、君はもっと悲しむかなと思って」

「窓を叩くだけ叩いて、帰ってくれれば良かったのに……!」

「約束を破ったって思われたくなかったから。ちゃんと覚えてるよって、知らせたくて」


 どうしてよ。

 どうして彼はずっと、いつまでも優しいのに、私はワガママばかり言っているの?


 泣きたいのは彼のはずなのに、どうして未来があって、これから安定した生活を送れるはずの私が、泣いているの?

 これじゃあ昔と、何も変わっていないじゃない。


「昔みたいに、優しくしないで……」

「分かった。そうしたら、泣き止んでくれる?」

「そんなの無理……」

「うーん、それは困ったなぁ。君に泣かれると、逝けなくなっちゃう」


「逝かないでよ……!」


 今日みたいに、幼い女の子みたいなファンシーな部屋の窓を、何度も叩いてよ。勘当されたって構わないから。

 私の姓がイノーブルからフーベルトになっても、何も気にしないで外に出るから。


「それは、無理だ……」


 男性はサリアを身体から離した。

 サリアの顔は涙と鼻水で、マダムになる令嬢とは思えないほどグチャグチャに汚れてしまっている。


「無理だなんて、一度も言ったこと無いくせに」

「本当にごめんね。今回だけは、本当に無理なんだ」


 何が「神様が奮発してくれた」よ。

 最愛の人の最後の瞬間を見せられるなんて、これほど残酷な事ってあるのかしら。


「必ず、別の僕になって会いに来る。そしたら、今度は海を見るだけじゃなくて、一緒に深海まで潜ろうよ。ね?」

「貴方じゃないと、 他の男はどんな人でも嫌」

「どうしよう、困ったなぁ……」

「貴方を困らせたら、もっとここにいてくれる?」


 サリアは必死にドレスの袖で顔を拭くが、一向に綺麗になる様子はない。

 それを見兼ねた男性は、手で涙を拭ってやる。


「本当に、ごめんね」

「謝らないでよ……!」


 サリア自身も、もはや条件反射のように答える。

 自分で自分が何を言っているのか、さっぱり分からなくなってしまっている。


「あっ……」


 もうじき、病床の彼が寿命を迎えるようだ。

 彼の身体が薄くなり始めてきた。


「これだけ、言わせて欲しい」

「……何?」


 男性は涙を拭うサリアの顎を引き寄せて、少し躊躇ったあと、唇を重ねた。

 さっきの口付けより、凍っているように冷たい。


 言っていいのか、いけないのか。

 迷っている様子の男性は、初めて幼馴染の前で目を泳がせて、迷いを見せている。

 そして決心したらしく、右目を細めて微笑む。


「サリア。君のことを、愛しています。君がいてくれたから、僕は五年間も、きっと何十年後も、頑張れたんだ」


 大きく息を吸い込んで、男性はサリアを突き放した。


「お幸せに、僕の最愛の人」


 彼は笑顔でそう言うと、海の方へ身体を向けた。

 すると彼の身体は足元からゆっくりと、雪が溶けるようにして、光の粒へと変化して天に昇っていくのだ。


「待って、シリウス……!」


 サリアは最愛の彼に手を伸ばす。

 しかし手はすり抜けて、シリウスのボロボロになった身体を貫通した。


「私も、ずっとシリウスの事を――」


 シリウスは上半身と顔だけになった状態で、両目を腫らしたのサリアの方を振り返る。

 すると無傷だった右目から涙を流しながら――


「僕も」


  とだけ言い残して、天へ昇っていった。

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