三十五、怪異の正体
十一月の夜風が千代の
千代はべっ甲の扇を開き、優雅な動きで口元を隠した。
「男女の逢い引きを覗き見だなんて、随分と無粋な真似をなさるのね」
「それは失敬。そんな脂ぎった中年が好みとは知らなかった」
顔を合わせるなり、軽口を叩き始めた千代とフリッツ。一見気の置けないふたりのやり取りが、何だか妙に白々しい。しかしその違和感の正体が月乃にはわからなかった。
「千代ちゃん、帰ろう? ごめんね、私がしっかりしていなかったせいで――」
「近付くな」
歩み寄ろうとした月乃をフリッツが強い口調で制した。「どうして」と彼の方を見るが、フリッツは千代から警戒の視線を外さない。
「まだわからないのか? 学園の周囲で起きた吸血事件。一年で五人の血と生気を奪った怪異の正体は――――
「!?」
驚愕の表情で千代を見た。しかし彼女はわずかに柳眉を歪めただけで、何も答えはしない。それは無言の肯定を意味していた。
「千代ちゃんは……
「いや、彼女は西洋の
「あやかしと言う程大袈裟なものじゃなくってよ。病や怪我をすれば死ぬし、寿命だって人とさほど変わらない。蓮舎家は代々、年頃の女だけが特殊な力を持つ。そういう、呪われた家系なの」
千代がぱちんと扇を閉じる。すると彼女の後ろに立っていた伊藤首相がゆらりと数歩、前へ進み出た。青白い月明かりに照らされた顔は虚ろで、およそ意思らしきものが感じられない。
「――“
飛縁魔(ひのえんま)。
そう呼ばれるあやかしが登場する怪談を、月乃は聞いたことがある。妖艶な美女の姿をした怪異で、その美貌で男を
「ま、まさか伊藤首相はもう……?」
「まだだ。魅了の術のようなものをかけられているが、血は吸われていない」
月乃の前に境界の杭を打つように、フリッツは手にしたステッキを黒土の地面に突き立てた。
「ミス蓮舎千代。俺は警告したはずだ。怪異の存在をおおっぴらにしたくない帝国陸軍、それに君の実家である蓮舎子爵家。これまでは上手く情報を操作していたようだが、力で抑えるにも限度がある。ましてやそいつはこの国の首相。それ程の人物が害されたとなれば、さすがに
「こんな俗物!」
フリッツに被せるように千代が声を荒らげた。
「痛い目を見ればいいのよ。権力と地位を笠に着て、女を都合の良い人形ぐらいにしか思っていない婦人の敵! どうせ喰らうなら、良心の痛まない相手を選ぶ。ただそれだけよ!」
「君の犯行動機は、そんな自由主義者のような青臭い大義名分が理由なのか?」
冷静な指摘に、
「な、なら! 千代ちゃん、こんなことはもうやめて。こんなこと、もうしなくていいから……!」
月乃が身を乗り出し訴える。しかし千代はおもむろに首を横に振った。
「月乃ちゃん。これはね、飛縁魔の本能なの。蓮舎の女は、年頃になれば恋をする。飛縁魔の恋は身を焦がす炎。恋をしたら求めずにはいられない。相手の全て、髪の一本から血の一滴までも」
静かに語るその姿は、月乃ですらハッとするような
「……でも、あたしにはそれが手に入らない。手に入らないなら、代わりを得なければ狂ってしまう。一度点った炎は抑えることなんてできない。いつも胸に
「今なら貴女にだってわかるでしょう?」、そう問われて、月乃は言葉を返せなかった。
千代は叶わぬ恋をしている。恋する相手が手に入らないなら、持て余す情動を、血を、生気を。飛縁魔の本能を満たす何かを、他から得なければならないのだ。つまり一連の事件は恋の熱情がもたらした、逃れられない
彼女の美しい顔が、時折憂いの影を帯びるのを月乃は知っていた。けれどそれ程激しく、苦しい恋をしているとまでは思わなかった。
同室なのに。親友なのに。何故気付いてあげられなかったのだろう。後悔が胃の奥から迫り上がって来る。
「普通はね、代わりなんていらないの。だって飛縁魔には魅了の術がある。異性を振り向かせることなんて、訳無いんだもの。恋した相手が子爵家の婿に相応しいかという、対外的な問題はあるけれど……」
「千代ちゃんは魅力的な女の子だわ。きちんと相手に想いを伝えたら、きっと伝わるはずよ」
それは掛け値ない月乃の本音だった。
千代は美しい。見た目だけでなく、凛とした心根だって。
だが月乃のその言葉は、たやすく千代の心を引き裂いた。
「月乃ちゃん。いつだって真っ直ぐで、残酷な程無邪気な子。月乃ちゃん。あたしは、あたしはね……」
「――ずっと貴女が好きだった」。
ぶわり。
千代の周囲で土埃が舞った。彼女の足元、細い明かりが落ちた地面から、一体の影が生まれる。
「もういい。この話は終わりよ。もう疲れた。女であること、子爵家の娘でいること。不便よ。不自由よ。あたしの身体は、これっぽっちもあたしのものじゃない」
影が伸びる。地に根を張って闇夜に生える。それは以前、月乃を襲ったあの影と同じもの。
「冷静になれ。月乃の前でやり合うつもりか?」
「馴れ馴れしく名前で呼ぶんじゃないわよこの
――アォォオオオオオン!
睨み合う千代とフリッツ。一触即発の状況に、突如大気を震わせる獣の声が響いた。
「!?」
どこからともなく一匹の獣が現れて、音もなく月乃達の前に降り立った。それは銀の体毛を持つ巨大な狼。
狼は目にも止まらぬ早さで千代と影のわずかな隙間に割り込むと、その横に立つ伊藤首相の燕尾の裾をくわえ込んだ。すぐさま彼の身体を強引に引き倒して、背に乗せては夜空へ跳ぶ。逃すまいと影が伸びて捕らえようとしたが、月を背にした狼の後ろ脚には一歩届かなかった。狼は月乃のやや後方に着地すると、建物の壁際に首相を下ろす。
「――また借りが増えたな、
フリッツが振り返らずに礼を述べると、狼はグルルと喉を鳴らした。意識のない首相を背に守るようにその場に留まる。銀の尾は警戒にゆらりゆらりと揺れていた。
(私、この狼を知っている気がする。ずっと前から――)
これ程大きな獣を前にして、月乃には不思議と恐怖が湧かなかった。引き締まった体躯。月光を浴びて輝く銀の毛並み。口元から覗く鋭い牙は獰猛な肉食獣のものだが、瞳には知性の輝きがある。その輝きには、奇妙な懐かしさすら感じる。
「あんたも邪魔をするのね!」
千代はぎりりと歯噛みした。獲物を逃した影が、悔しさに身を震わせてビタンと地面に叩きつけられた。
「ずるい。ずるい。ずるい。あんた達はずるい。男は女を守るもの。男は女を愛するもの。そうやって当たり前の顔をして、月乃ちゃんに近付いて!」
千代の叫びに呼応するように、周囲の草木が一斉に鳴った。
「きらい。きらいよ。あんた達なんか、あたしなんか、みんなみんな――大ッ嫌いよ!!」
次の瞬間。
千代の周囲の闇が一斉に
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