三十六、あなたを信じてるから

 闇が産声を上げた。千代を中心に黒い何かが幾本もの帯のように分かたれて、ゆらゆらと鎌首を持ち上げる。その禍々まがまがしい姿は太古の大妖怪、多頭の大蛇ヤマタノオロチを思わせた。


「千代ちゃん!」


 反射的に前へ出かけた月乃をフリッツが強引に止めた。

 闇がぞわりと地をうと、フリッツは月乃の腰を抱いて瞬時に飛び退く。同時に右手に持っていた刺突短剣プッシュダガーを地面に向かって投げつけた。更に背後から取り出して一本、二本。投擲とうてきで地に突き立てる。直線上に刺さった小さな刃、その三点を起点に簡易の結界が構築されると、襲い来る闇は光の壁に阻まれ弾かれた。


 ばしん、ばちん。

 闇が壁を叩き、光がきしめく。即席の障壁は長くはもたないと思われた。月乃を降ろしたフリッツは、彼女を背にかばいつつすぐに体勢を立て直す。ステッキを正面に構えて、銀の持ち手を握る。


「月乃、君はこの先を見なくていい。俺は彼女を殺す。もはや日和見ひよりみは不可能だ」

「どうして……!」

「どうして? 見ろ、既に彼女は本能に呑まれた。話の通じる状態じゃない」


 闇はとぐろを巻き、巨大な渦を形成していた。その中心であろう千代の姿は今はもう見えない。


「言っただろう、俺は悪魔殺しデモントーターだ。人の世の禍根かこんとなる怪異は殺す。それが俺の生業なりわいだ」

「だ、だめ! そんなの駄目です!」

「友人を庇いたい気持ちはわかるが――」

「違う……!」


 フリッツの前に回り込み、彼の胴衣ウエストコートを掴んだ月乃。諦めろとなだめられて、しかし毅然きぜんと首を横に振った。


「千代ちゃんはもちろん助けたい! でもそれと同じくらい、あなたに誰かを殺してほしくないんです!」


 強い意思の込められた言葉に、フリッツの瞳が見開かれた。


 アォォオオオオオン!


 その時突然、後方に控えていた狼が遠吠えを響かせた。ほぼ同時に勝手口の扉が開いて、数人の警官がなだれ込んでくる。


「なんだなんだ! 何が起こった!?」


 この状況で騒ぎが大きくなるのはまずい。フリッツが舌打ちすると、すぐさま狼が警官達の視界をさえぎる形で目の前に躍り出た。未だ意識のない伊藤首相の首根っこを咥えて、見せつけるように立ち塞がる。


「お、おい、でかい犬が伊藤首相をくわえてるぞ!」

「化け物か!?」


 警官達が驚くのも束の間、狼は何の予備動作もなく高く跳躍した。軽々と二階の屋根の上へ上り、そのまま建物の東側へ伊藤首相を連れ去ってしまう。


「おっ、追いかけろ! 東へ回れ!」


 もはや警官達の意識は完全にそちらへ引き付けられた。全員勝手口へ引き返し、狼――もとい、伊藤首相を追いかける。来た時と同じようにバタンと勢いよく勝手口の扉が閉まって、一旦騒々しくなりかけたその場は再び緊張感で満たされる。

 狼は自らおとりになって時を稼いでくれたのだ。月乃は心の中で礼を言って、すぐにフリッツを見返した。


「フリッツさん、お願いです。私を千代ちゃんのところへ連れてってほしいの」


 闇は結界を叩き壊そうと背後で暴れている。もはや障壁が壊されるのも時間の問題だった。


「何か勝算があって言っているのか?」

「それはわかりません……。でも、本当の気持ちを打ち明けてくれた千代ちゃんに、私は答える義務があると思うから……」

「向こうは“みんな大嫌い”だと言っていたが」

「それが本心なら、こんなに苦しそうなはずないわ」


 光の壁が軋む音が、月乃には悲鳴に聞こえた。出口を求めて暴れ回る闇が、助けを求めているように見えた。

“大嫌い”、月乃がそう言われたのは最近二度目だ。もうひとりは亜矢。あれは彼女の本心だったのか、今でも月乃にはわからない。


(亜矢に拒絶されたあの時。千代ちゃんは言っていたわ。“世の中にはわかり合えない人がいる”って)


 義理の姉妹ですらわかり合えなかった。ならば他人同士、人と怪異は尚のこと。

 千代は他人、千代は怪異だ。切り捨てることは簡単かもしれない。けれどそれをしてしまったら、月乃は生涯自分を許さないだろう。


「私……諦めたくないんです。人と怪異、生き方が違ってもわかり合えるって信じたいんです。だって――」


 ステッキを持つフリッツの右手に、自分の手を重ねる。


「千代ちゃんは私の友達で、そして私は……あなたを好きになってしまったから」


 飛縁魔ひのえんまの千代。半鬼人ダムピールのフリッツ。そして銀の狼も、みんなみんな。

 どれも大切だ。どれも失いたくない。それが月乃の本心だった。真っ直ぐフリッツを見つめると、彼はしばし固まって――観念したように顔を逸して息を吐く。


「……一度だけだ。君の説得が無駄だと判断したら、俺は即座に彼女を殺す」

「はい」


 絶対に殺させない。

 強い決意を胸に、月乃は頷いた。


 間もなくその時が来ようとしていた。

 フリッツは静かにステッキから細剣を抜く。鞘を投げ捨てて、左腕で月乃を抱いた。

 そして次の瞬間、光の壁が割れた。途端に押し込められていた闇が怒涛のように押し寄せる。しかしフリッツは避けなかった。月乃を抱いたまま、真っ直ぐ闇に飛び込んでゆく。迫りくる漆黒の腕をなぎ払い、渦の中心に銀の刃を突き立てる。わずかに穿うがたれた真っ黒な穴を無理矢理こじ開けると、中に千代が佇んでいるのが見えた。


「千代ちゃん!」


 月乃はフリッツの腕を離れて、迷うことなく穴の裂け目に飛び込んだ。周りで闇の壁がごうごうと渦巻いているが、ふたりが立つ中心部だけが、嵐の目の中のように凪いでいる。


「貴女がほしい。貴女がほしい。今すぐ差し出して。貴女の全てを」

「千代ちゃん……」


 千代の瞳は鬼灯ほおずきのように真っ赤に燃えて、吊り上がった目付きでこちらを睨みつける様はおよそ人のものとは思われなかった。けれど月乃はひるむことなく一歩近付く。


「ごめんね千代ちゃん。あなたの苦しさを、私はわかってあげられない……」


 千代は答えない。月乃はもう一歩、側へ近付く。


「私、千代ちゃんが好きよ。でもきっと、この“好き”は千代ちゃんの“好き”とは違う。……そうよね?」

「寄越せ、寄越せ、寄越せ。血の一滴、髪の一本、命の煌めきまでもひとつ残らず」


 月乃は頷いた。


「血がほしいなら血をあげる。右手がほしいなら右手をあげる。でも千代ちゃん。私、知ってるわ。あなたは自分の欲のために人の命を奪うような子じゃない。私、あなたを信じてるから――」


 千代は一年で五件の吸血事件を起こした。しかし、被害者の中に死者はひとりもいない。それは決して偶然ではなく、千代の理性と良心故だと月乃は信じていた。


「寄越せ、今すぐ寄越せ!」


 千代が今にも飛びかからんと両手を突き出す。月乃はもう一歩近付き、無言でその手に自分の右手を預ける。千代は立ち所に差し出された腕を掴んだ。そして。


 かぷ、と上品に、千代が月乃の小指を噛んだ。先程までの剣幕が嘘のような、控えめすぎる喰らいつき方だった。それは千代の最後の理性。


「っ……!」


 それでも月乃の皮膚は食い破られて、すぐに鮮血があふれ出す。白い喉が動いて、千代が血を飲み込んだのがわかった。月乃は耐えた。歯を食いしばった。一言も漏らさずに、ただその姿を見守った。

 千代は一心不乱に小指にかじり付く。すると次第に月乃の四肢は冷えて、身体の内側まで凍りそうになってくる。ああ、生気を吸われているのだなと、ぼんやりと思った。

 そしてとうとう月乃の意識が途切れかけたその時、フリッツが風穴に飛び込んだ。同時に、血走った目で血をすする千代の目から、ぽろりと一筋、涙が零れる。


「あ……」


 ぽろぽろと続けざまに涙が流れて、そして――周囲を隔てる闇の渦が、音を立てて崩壊した。


「月乃ちゃん……。月乃ちゃん、あたし……!」


 千代の瞳が黒曜石の輝きを取り戻し、掴んでいた右手を離す。支えを失って崩折れる月乃の身体を、素早く割り込んだフリッツが受け止めた。


「どうして……?」


 ただの暗い裏庭に戻ったその場所で、千代は立ち竦む。零れ落ちた言葉には多くの疑問が込められていた。

 何故月乃は危険を侵して飛び込んできたのか。

 何故月乃は自らを差し出したのか。

 何故自分は、


「あたし、確かに一度。どうなっても構わないって、そう思って……」


 胸元から取り出した真っ白な手巾チーフを血塗れの手に巻き付けながら。フリッツは抱きかかえた月乃の頬に貼り付いた髪を、そっと除けた。


「月乃の血は――あらゆる怪異の野生を鎮め、理性を取り戻させる力がある」


 かつて月乃の父、謡川うたがわ芳喜よしきが生涯をかけた研究。その成果は、月乃の身体の中に息づいていたのだ。


「月乃ちゃんはそれを知ってて……!?」

「いや。彼女は何も知らない。ただ純粋に、君を救いたかっただけだ。君のためなら、腕の一本くらい惜しくないと思ったんだろう。全く――」


 呆れたように嘆息し、再び頬を撫でる。


「本当に、とんでもないお人好しだ」


 言葉とは裏腹に、その声も、手つきも、全てが愛おしさに満ちていて。千代はその姿を見て理解した。月乃とフリッツ、ふたりの間に育まれた確かな絆を。

 月乃はこの男を信じた。この男もまた、月乃を信じて千代の元へ送り込んだ。月乃を信じるからこそ襲い来る闇の中でその手を離し、月乃が信じる千代をも信じたのだと。


「わかっただろう? 君は確かに月乃に愛されている。それは君の求める形とは、いささか異なるかもしれないが」

「あたし……嫌われていないの? 月乃ちゃんはこんなあたしでも、好きって言ってくれるの?」


 気高き子爵家の令嬢は、裏庭の真ん中でしゃがみ込むと、幼子のようにわぁわぁと声をあげて泣き出した。

 淀んだ闇のおりを洗い流すように風が吹いて、彼方から狼の遠吠えが聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る