三十六、あなたを信じてるから
闇が産声を上げた。千代を中心に黒い何かが幾本もの帯のように分かたれて、ゆらゆらと鎌首を持ち上げる。その
「千代ちゃん!」
反射的に前へ出かけた月乃をフリッツが強引に止めた。
闇がぞわりと地を
ばしん、ばちん。
闇が壁を叩き、光が
「月乃、君はこの先を見なくていい。俺は彼女を殺す。もはや
「どうして……!」
「どうして? 見ろ、既に彼女は本能に呑まれた。話の通じる状態じゃない」
闇はとぐろを巻き、巨大な渦を形成していた。その中心であろう千代の姿は今はもう見えない。
「言っただろう、俺は
「だ、だめ! そんなの駄目です!」
「友人を庇いたい気持ちはわかるが――」
「違う……!」
フリッツの前に回り込み、彼の
「千代ちゃんはもちろん助けたい! でもそれと同じくらい、あなたに誰かを殺してほしくないんです!」
強い意思の込められた言葉に、フリッツの瞳が見開かれた。
アォォオオオオオン!
その時突然、後方に控えていた狼が遠吠えを響かせた。ほぼ同時に勝手口の扉が開いて、数人の警官がなだれ込んでくる。
「なんだなんだ! 何が起こった!?」
この状況で騒ぎが大きくなるのはまずい。フリッツが舌打ちすると、すぐさま狼が警官達の視界を
「お、おい、でかい犬が伊藤首相をくわえてるぞ!」
「化け物か!?」
警官達が驚くのも束の間、狼は何の予備動作もなく高く跳躍した。軽々と二階の屋根の上へ上り、そのまま建物の東側へ伊藤首相を連れ去ってしまう。
「おっ、追いかけろ! 東へ回れ!」
もはや警官達の意識は完全にそちらへ引き付けられた。全員勝手口へ引き返し、狼――もとい、伊藤首相を追いかける。来た時と同じようにバタンと勢いよく勝手口の扉が閉まって、一旦騒々しくなりかけたその場は再び緊張感で満たされる。
狼は自ら
「フリッツさん、お願いです。私を千代ちゃんのところへ連れてってほしいの」
闇は結界を叩き壊そうと背後で暴れている。もはや障壁が壊されるのも時間の問題だった。
「何か勝算があって言っているのか?」
「それはわかりません……。でも、本当の気持ちを打ち明けてくれた千代ちゃんに、私は答える義務があると思うから……」
「向こうは“みんな大嫌い”だと言っていたが」
「それが本心なら、こんなに苦しそうなはずないわ」
光の壁が軋む音が、月乃には悲鳴に聞こえた。出口を求めて暴れ回る闇が、助けを求めているように見えた。
“大嫌い”、月乃がそう言われたのは最近二度目だ。もうひとりは亜矢。あれは彼女の本心だったのか、今でも月乃にはわからない。
(亜矢に拒絶されたあの時。千代ちゃんは言っていたわ。“世の中にはわかり合えない人がいる”って)
義理の姉妹ですらわかり合えなかった。ならば他人同士、人と怪異は尚のこと。
千代は他人、千代は怪異だ。切り捨てることは簡単かもしれない。けれどそれをしてしまったら、月乃は生涯自分を許さないだろう。
「私……諦めたくないんです。人と怪異、生き方が違ってもわかり合えるって信じたいんです。だって――」
ステッキを持つフリッツの右手に、自分の手を重ねる。
「千代ちゃんは私の友達で、そして私は……あなたを好きになってしまったから」
どれも大切だ。どれも失いたくない。それが月乃の本心だった。真っ直ぐフリッツを見つめると、彼はしばし固まって――観念したように顔を逸して息を吐く。
「……一度だけだ。君の説得が無駄だと判断したら、俺は即座に彼女を殺す」
「はい」
絶対に殺させない。
強い決意を胸に、月乃は頷いた。
間もなくその時が来ようとしていた。
フリッツは静かにステッキから細剣を抜く。鞘を投げ捨てて、左腕で月乃を抱いた。
そして次の瞬間、光の壁が割れた。途端に押し込められていた闇が怒涛のように押し寄せる。しかしフリッツは避けなかった。月乃を抱いたまま、真っ直ぐ闇に飛び込んでゆく。迫りくる漆黒の腕をなぎ払い、渦の中心に銀の刃を突き立てる。わずかに
「千代ちゃん!」
月乃はフリッツの腕を離れて、迷うことなく穴の裂け目に飛び込んだ。周りで闇の壁がごうごうと渦巻いているが、ふたりが立つ中心部だけが、嵐の目の中のように凪いでいる。
「貴女がほしい。貴女がほしい。今すぐ差し出して。貴女の全てを」
「千代ちゃん……」
千代の瞳は
「ごめんね千代ちゃん。あなたの苦しさを、私はわかってあげられない……」
千代は答えない。月乃はもう一歩、側へ近付く。
「私、千代ちゃんが好きよ。でもきっと、この“好き”は千代ちゃんの“好き”とは違う。……そうよね?」
「寄越せ、寄越せ、寄越せ。血の一滴、髪の一本、命の煌めきまでもひとつ残らず」
月乃は頷いた。
「血がほしいなら血をあげる。右手がほしいなら右手をあげる。でも千代ちゃん。私、知ってるわ。あなたは自分の欲のために人の命を奪うような子じゃない。私、あなたを信じてるから――」
千代は一年で五件の吸血事件を起こした。しかし、被害者の中に死者はひとりもいない。それは決して偶然ではなく、千代の理性と良心故だと月乃は信じていた。
「寄越せ、今すぐ寄越せ!」
千代が今にも飛びかからんと両手を突き出す。月乃はもう一歩近付き、無言でその手に自分の右手を預ける。千代は立ち所に差し出された腕を掴んだ。そして。
かぷ、と上品に、千代が月乃の小指を噛んだ。先程までの剣幕が嘘のような、控えめすぎる喰らいつき方だった。それは千代の最後の理性。
「っ……!」
それでも月乃の皮膚は食い破られて、すぐに鮮血があふれ出す。白い喉が動いて、千代が血を飲み込んだのがわかった。月乃は耐えた。歯を食いしばった。一言も漏らさずに、ただその姿を見守った。
千代は一心不乱に小指にかじり付く。すると次第に月乃の四肢は冷えて、身体の内側まで凍りそうになってくる。ああ、生気を吸われているのだなと、ぼんやりと思った。
そしてとうとう月乃の意識が途切れかけたその時、フリッツが風穴に飛び込んだ。同時に、血走った目で血を
「あ……」
ぽろぽろと続けざまに涙が流れて、そして――周囲を隔てる闇の渦が、音を立てて崩壊した。
「月乃ちゃん……。月乃ちゃん、あたし……!」
千代の瞳が黒曜石の輝きを取り戻し、掴んでいた右手を離す。支えを失って崩折れる月乃の身体を、素早く割り込んだフリッツが受け止めた。
「どうして……?」
ただの暗い裏庭に戻ったその場所で、千代は立ち竦む。零れ落ちた言葉には多くの疑問が込められていた。
何故月乃は危険を侵して飛び込んできたのか。
何故月乃は自らを差し出したのか。
何故自分は、理性を取り戻しているのか。
「あたし、確かに一度人間らしさを捨てた。どうなっても構わないって、そう思って……」
胸元から取り出した真っ白な
「月乃の血は――あらゆる怪異の野生を鎮め、理性を取り戻させる力がある」
かつて月乃の父、
「月乃ちゃんはそれを知ってて……!?」
「いや。彼女は何も知らない。ただ純粋に、君を救いたかっただけだ。君のためなら、腕の一本くらい惜しくないと思ったんだろう。全く――」
呆れたように嘆息し、再び頬を撫でる。
「本当に、とんでもないお人好しだ」
言葉とは裏腹に、その声も、手つきも、全てが愛おしさに満ちていて。千代はその姿を見て理解した。月乃とフリッツ、ふたりの間に育まれた確かな絆を。
月乃はこの男を信じた。この男もまた、月乃を信じて千代の元へ送り込んだ。月乃を信じるからこそ襲い来る闇の中でその手を離し、月乃が信じる千代をも信じたのだと。
「わかっただろう? 君は確かに月乃に愛されている。それは君の求める形とは、いささか異なるかもしれないが」
「あたし……嫌われていないの? 月乃ちゃんはこんなあたしでも、好きって言ってくれるの?」
気高き子爵家の令嬢は、裏庭の真ん中でしゃがみ込むと、幼子のようにわぁわぁと声をあげて泣き出した。
淀んだ闇の
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