三十四、静かにしろ

 ポルカを踊る間、月乃はただ慌ただしいダンスの動きについて行くので精一杯だった。しかし次の曲が始まって冷静に考える余裕が出ると、次第に猛烈な後悔が襲ってくる。


(千代ちゃん、大丈夫かしら……)


 千代はいつだって美しく、大人びていて、何でも卒なくこなす。学園で虐げられていた月乃を助けてくれたことだって一度や二度ではないが、その時も相手の恨みを買うことなく上手く立ち回っていた。

 そう、彼女は処世術に長けている。伊藤首相のことだって、適当にあしらってすぐに戻ってくるかもしれない。けれど――。


 あの男に手を握られた時、月乃は何もできなかった。言葉が上手く出てこなくて、頭が真っ白になった。腰に手を回された時は嫌悪でいっぱいだったくせに、振り払うことすらできなくて。

 月乃はあの時恐怖したのだ。彼の権力、彼の醜聞――何より彼が男であるということに。

 それがどうして、千代なら平気だと言えるのだろう? 彼女だって月乃と同じ、十七の少女に過ぎないのに。


(やっぱり駄目。面倒事を千代ちゃんひとりに押し付けて、知らんぷりをしていいはずがないわ。だって私達……友達だもの)


 気付けば月乃はダンスのステップを止めて、相手パァトナーの手を離していた。


「 I'm sorry, but I'm not feeling well and I need some fresh air. 〈体調が優れないので外の空気を吸ってきます〉」


 ごめんなさい、と頭を下げて、月乃は舞踏の輪から飛び出した。そのままドレスの裾を摘んで足早に露台バルコニーへ向かう。

 具体的にどうするか、など何も考えていなかった。ただふたりを見つけたら、何としても千代を連れ戻そうとだけ決意して。


 大広間のガラス戸から直接出られる露台バルコニーは、ちょうど正面玄関の屋根の部分に当たる。数時間ぶりに感じた外の空気はひんやりと冷たくて、火照った頬に心地良い。煌々と照らす室内の明かりを背に、多くの男女が提灯を点した前庭と星空の景色を楽しんでいた。


「千代ちゃん!」


 シャンデリアの明るさに慣れきった目が、まだ暗闇に馴染まない。それでも月乃は必死に友人の名を呼んだ。

 けれど、いない。間違いなく伊藤首相とふたりで外へ出たはずの千代の姿は、どこにもなかった。露台バルコニーから繋がるベランダを端から端まで走り抜けて、それでもふたりは見つからない。だんだんと伊藤首相が春の舞踏会で某華族夫人に狼藉を働いたという新聞の記事を思い出して、月乃の身体から血の気が引いた。


「千代ちゃん!」


 もう一度叫んだが、当然返事はない。

 慌てて大広間に戻って確認する。やはりふたりの姿はない。舞踏会場を離れて廊下へ出た。一縷いちるの望みをかけて便所へ行く。もしも波風立てずに男から逃れようとするなら、そこしか思い付かなかった。けれどやはり、千代はいない。


「千代ちゃん!」


 何度呼んでも返事はない。二階にあるいくつかの集会室を訪ねる。そこにはトランプやハバナ葉巻に興じる男達しかおらず、千代が訪れそうな場所ではなかった。

 ならば伊藤首相は。彼ならほとんどの人が顔を知っているし、行方を見た者もいるのではないか。


「伊藤しゅ――――きゃあ!」


 廊下で伊藤首相の名を呼び掛けようとしたところで、急に横の扉が開いて月乃は部屋の中に引き込まれた。


「誰っ、やめ……!」

「Sei still〈静かにしろ〉」


 そこは薄暗い物置部屋。片手を掴まれた月乃がとっさに抵抗しようとすると、聞き覚えのある声が降ってきた。


「口を塞いでほしいのか?」

「フリッツさん……!」


 扉の隙間から漏れる明かりだけで、顔はよくわからない。けれど声の調子から、きっと呆れた表情をしているのだろう。それは間違いなくフリッツだった。

 閉じ込められた狭い空間にいつもの彼の煙草と香水が香る。すると途端に安堵やら不安やら色んな気持ちがあふれ出して、月乃は思わず目の前の身体に抱きついた。当のフリッツは困ったように舌打ちしたが、彼女の肩の震えが伝わると、そっとその背を抱きしめ返す。


「フリッツさん、千代ちゃんが、伊藤首相と、どこにもいなくて」

「ああ」


 燕尾服の胸の中で説明にならない言葉を繰り返す月乃に、フリッツはまるで全てを把握しているかのように相づちを打った。


「フリッツさんはどうしてこんなところに……?」

「しつこい連中がいたからいた。それに別件の仕事もある」

「それって……」


 もしや、悪魔殺しデモントーターとしての。

 背に回された彼の手にはいつの間にか、いつもの銀の持ち手のステッキが握られていた。月乃が不安げに見上げると、フリッツはその上向いたあごに手を添えて顔を覗き込む。


「月乃。ミス蓮舎はすや千代のことは俺が引き受けた。君は舞踏場に戻るか談話室で休むかしていなさい」

「駄目です! 私も探します。千代ちゃんは私をかばってくれたんです。私のせいで――」

「これは警告だ。大体、君はあんなに大声で彼女の名前を触れ回って、更に伊藤首相の名まで出そうとするとは。彼女の名誉にいらぬ傷を付けるつもりか?」

「あ……」


 伊藤首相が好色なことは周知の事実だ。千代が彼と一緒に消えたなどと知られれば、それだけで女性としての一生を左右する不名誉な噂になりかねない。


「すみません、そこまで頭が回っていませんでした……」


 気が動転していたとはいえ、自分の浅はかさが身にしみる。顎を持たれて顔を逸らせないので、代わりに月乃はぐっと口を引き結んだ。


「わかったならおとなしく――」

「でも、千代ちゃんは私の友達なんです。友達を助けずに、ひとりで待っていることなんてできません」


 暗い室内で、彼女の潤んだ瞳が意志を宿して輝いていた。すると顎に添えられていた親指が慈しむように目の下を撫でて、そっと外される。


「俺は警告したからな。――君にも、彼女にも」


 月乃から一歩離れて、フリッツはハァ、とため息をついた。整った前髪をくしゃりと掻き上げて乱すと、すぐにブツブツと何か算段し始める。

 その姿を見て、彼はカレンベルク卿であると同時にいつものフリッツなのだと、なんとも言えないうれしさが月乃の胸にこみ上げてきた。だが、今は浮かれている場合ではない。


「二階の空き部屋はここだけだ。他の部屋は明かりが点き、入れ代わり立ち代わり誰かしらが入ってくる」

「お手洗いも確認しました。だとすると、一階でしょうか……?」

「一階もほとんどの部屋がサロンとして開放されている。正面の庭は露台バルコニーから丸見えな上に明かりが多い。となると――」


「「裏庭」」


 ふたりの声が合致した。

 顔を見合わせたふたりは頷き合って、すぐさま物置部屋から廊下へ出た。突き当たりにある使用人用の階段へ向かい、一階へ下りる。するとちょうど階段前の厨房から大きな銀皿を手にした給仕が出てきて、危うくぶつかりそうになった。その銀皿の上には色とりどりのアイスクリンが盛られていたのだが、千代の安否で頭がいっぱいの月乃が気付くことはなかった。


 厨房の出入り口を通り過ぎ、勝手口から外へ出る。数段の石段を下りたところで、月乃は違和感を覚え立ち止まった。


「何も、ない……?」


 言葉通り、中庭には何もなかった。二階の窓から漏れる明かりが何かにさえぎられ、呑み込まれたように暗い。その空間には風も音もなく、空には星すら見えない。ただ無明の闇が広がっていた。


「フリッツさん、ここは一体――」

「月乃」


 何かがおかしい。

 そう問いかけようとした月乃をステッキで制して、フリッツは一歩前へ進み出た。


「月乃、覚えていてほしい。俺は悪魔殺しデモントーター――怪異を殺す者だと」


 大きな背に庇われて、その表情は月乃からは見えなかった。

 フリッツは燕尾服の内側、胴衣ウエストコートの背中から何かを抜き取った。それは薄刃の刺突短剣プッシュダガー。丁字の柄を拳に握り込むと、そのまま切っ先を真っ暗な宙に突き立てる。


 ばりぃぃいいいいん!


 途端に空気にひびが入り、一帯を覆っていた硝子がらすのような闇が粉々に砕けて割れた。

 星空が戻る。二階の明かりが地面に落ちる。木々がざわめき、風の音が聞こえる。

 そしてその向こうに。


「千代、ちゃん……?」


 真紅の薔薇のドレスを纏う千代が立っていた。

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